東京大学教員の著作を著者自らが語る広場

山吹色の表紙に装飾的なイラスト

書籍名

高岡市萬葉歴史館叢書 26 歌の道 - 家持へ、家持から -

著者名

高岡市万葉歴史館館長 坂本 信幸 (編)

判型など

140ページ、A5判

言語

日本語

発行年月日

2014年3月26日

出版社

高岡市万葉歴史館

出版社URL

書籍紹介ページ

英語版ページ指定

英語ページを見る

『歌の道 - 家持へ、家持から -』は、高岡市萬葉歴史館編の叢書の第26冊である。同館は、大伴家持が5年余りの間、越中守として高岡に赴任したのを機縁に創立され、叢書も家持をめぐるテーマを取り上げることが多い。本書も、『萬葉集』の編者と目される家持を中心に据え、家持がそれまでの歌をどう自分の歌の中に生かしているか (拙稿、神野志、市瀬・高松)、またその家持の歌を、後世の人々がどう享受したか (久泉・小川)、すなわち「家持へ」と「家持から」の二つを主題として構成されている。

拙稿「家持の歌のかたち - 越中時代へ、越中時代から -」は、家持の歌が、歌人としての履歴の中で、いかに展開するかを追った。家持は大伴氏という名門に生まれ、官途が明確に知れるとともに、歌に多く日付が付されており、特に天平18年 (746、家持29歳) 以降の歌は、『萬葉集』巻十七以降に日付順に並べられている (家持「歌日誌」と呼ばれる) ために、歌の編年が可能なのである。その中で、越中守時代 (天平18年~天平勝宝3年〔751〕) は多産で、先行する歌を取り入れながら、自己の歌を変革してゆく様を、赴任以前、帰京後の歌と比較しつつ窺うことができる。
 
      春の苑紅にほふ桃の花下照る道に出で立つをとめ (巻19・4139番、天平勝宝2年)
      うらうらに照れる春日に雲雀上がり心悲しも独りし思へば (同・4292番、同5年)
 
など、教科書にも載る「家持秀歌」は、独自の造形として、近代になって評価が高まった。ただしその評価は、それ以外の大多数を、先行歌の模倣として退けることと表裏している。
 
確かに若年の
 
      ふりさけて三日月見れば一目見し人の眉引き思ほゆるかも (巻6・994、天平5年)
 
などは、「~見れば~思ほゆ」という、国見歌に淵源を持つ歌の型を用いていた。しかし家持は、景物を想起するこの型を、眉―三日月という漢詩文由来の発想と併せて、景物から人物を想起する歌へと改鋳したのである。そうした変化は、家持のほとんどの歌に指摘でき、先行歌の影響が見えるからといって非難するのは偏見に過ぎない。そもそも家持は、編者として、影響を受けた歌とともに自分の歌を提示しているのだから、むしろ先行歌とともに読むことを求めているのである。
 
4139歌や4292歌が類型を抜け出ているのは、『萬葉集』の類型を知り尽くした家持が、あえてその類型を破壊して見せた結果である。そうした孤立した「歌のかたち」は、それ自体が、夷の地越中への赴任 (4139歌)、帰京後の孝謙朝における政治的孤立 (4292歌) といった状況に置かれた家持の表現である。「秀歌」だけを取り上げて云々するのでなく、家持の歌業全体の中で見る必要があると考える次第である。
 

(紹介文執筆者: 人文社会系研究科・文学部 教授 鉄野 昌弘 / 2016)

本の目次

久泉迪雄「近・現代歌人たちの詠む越中万葉のうた」
小川靖彦「かささぎの渡せる橋 -「歌仙・中納言家持」の誕生」
鉄野昌弘「家持の歌のかたち - 越中時代へ、越中時代から -」
神野志隆光「吉野行幸の「儲作歌」をめぐって」
市瀬雅之「表現された「歌の道」 - 大伴旅人・坂上郎女と家持 -」
高松寿夫「山部赤人・山上憶良と大伴家持」
あとがき

このページを読んだ人は、こんなページも見ています