死の基準はそれが生物学的なものであっても社会的に構成されるものであり、主要な構成要素に科学技術の進展がある。 心肺機能の喪失が死を意味していた長い時代を経て、20 世紀後半には人工呼吸器の開発と汎用に伴って、脳機能の喪失が脳死と称され「脳死も死」となり、心肺機能あるいは脳機能のどちらかが失われたら「死亡」と判断することが欧米を中心として標準的になった。
しかし、その後の集中治療技術の進展の結果、今世紀に入ると、脳死という用語は時代遅れと指摘されるようになり、「完全脳不全」への言い換え が提唱されている。提唱者は、「脳死も死」を世界で先導した米国が、脳死の概念の見直しのために組織した大統領生命倫理評議会である。 同評議会は2008 年にまとめた白書で、「完全脳不全は死と同義ではない」とも述べている。現代では、心臓、腎臓、肝臓が完全に不全でも、 それらの機能をしばらくは代替可能な技術が存在する。脳が完全に不全な場合にそれを死と呼ぶなら、脳は他の臓器とは何が違うのか。 医科学の知見のみでこの問いに答えを見出すことは不可能である。
また、1990 年頃から、経皮的心肺補助装置(PCPS)を用いた心肺脳蘇生が実践されるようになった。PCPSの使用は先進国を中心にまだ限定的であるが、 世界で最も普及しているのは日本だといわれている。この装置は、例えば、心筋梗塞で倒れた人の救急救命時に使われる。不全な状態に陥った心臓の機能を代替し、 脳が障害されることを防ぐ。心肺が機能していなくても、脳機能が維持されている可能性があると思えば、医師は救命努力を尽くす。今や、心肺機能の喪失は死と同義ではない。
心臓が機能を回復し、あるいは心移植を受け、PCPS等の補助装置が不要となれば、晴れて回復である。一方、心機能が回復せず、移植も受けず、 補助装置の耐用限度がきたら、脳機能が維持されている場合であっても死亡しなければならない。これは一面で、古典的な死である。
技術の進展によって変遷する生物学的な死の基準を、その時代の人間はどう捉えるべきか。これは、生命の二重構造と関わる問いであろう。 人の生命は、生物学的生命(biological life)を土台に、物語られるいのち(biographical life)が関係する人々との物語りと重なり合いながら形成される(清水、2002)。 科学技術が生命の下部構造に直接的な影響を及ぼし、 そこにおける死の基準を変化させているときに、上部構造はどのような影響を受け、性質を変化させるのか。その探索は死生学の課題の1つであろう。
清水哲郎「生物学的〈生命〉と物語られる〈生〉― 医療現場から」、『日本哲学会 哲学』, 53:1-14, 2002













