FEATURES

印刷

ハチ公と東大(1) - 紡ぎ出された人と犬と大学の物語 生誕100周年記念企画

掲載日:2023年9月19日

紡ぎ出された人と犬と大学の物語ハチ公と東大

ハチ公と東大

東京大学に関係する犬のなかで
もっとも有名な存在といえば、ハチ公でしょう。
東京の渋谷、秋田の大館、三重の久居と
各地に像が建てられ、
日本、アメリカ、中国でも
その生涯が映画化された秋田犬。
知名度は抜群ですが、
飼い主の知名度はあまり高いとは言えませんでした。
1923年に生まれて1935年に死んだハチ公は
今年で生誕100周年。
没後80年の節目に際して生まれた、
大学とハチ公の新しい物語について、
関係者の話からまとめて紹介します。

生誕100周年記念企画
HACHIKO
https://hachi100.visitakita.com/別ウィンドウで開く

1.

発案者が振り返る
「東大ハチ公物語」

一ノ瀬正樹
ICHINOSE Masaki

東京大学名誉教授/武蔵野大学人間科学部教授

一ノ瀬正樹

物語は哲学者の愛校心から始まった

東京大学弥生キャンパスの農正門を入ってすぐ左手に、上野英三郎博士とハチ公の像があります。2015年に披露され、キャンパスの新名所となったこの像は、元はと言えば一人の哲学者の思いから始まりました。文学部の一ノ瀬正樹教授(当時)です。

「ハチ公は映画の影響もあって海外でも有名ですが、飼い主が東大の先生だったことは知られておらず、教職員でも知らない人のほうが多かったはず。人を待った犬は有名なのに犬に待たれた人が知られていないとは少々間抜けだなと思っていました」

小さい頃から犬が好きで、映画「ハチ公物語別ウィンドウで開く」に涙が止まらなかったという一ノ瀬先生。没後「ハチ十」年のタイミングで像を作る発想が生まれるのは自然な成り行きでした。もう一つの背景は、研究で英国の大学と縁が深かったこと。一ノ瀬先生は、チャールズ・ドジソン(ルイス・キャロル)が勤めたオックスフォード大学の前に「不思議の国のアリス」の店があり、訪れた人の多くが大学にも立ち寄るのを見ていました。一方、ケンブリッジ大学は「くまのプーさん」のA・A・ミルンと息子のクリストファー・ロビンが通った大学として知られます。

「教員の一人として、大学には何かしら物語性が必要だとの思いがありました。オックスフォードがアリス、ケンブリッジがプーさんなら、東大はハチ公だな、と。物語性を加えてファンを増やしたいという「愛校心」が像の発想を呼んだのかな」

当初は別の場所だった?

2010年秋、文学部ゆかりの佐藤慎一副学長(当時)に相談し、助言を得た一ノ瀬先生。全学委員会で交流があった農学部の正木春彦教授(当時)に相談し、上野博士が初代教授を務めた研究室を承継する塩沢昌教授(当時)の快諾も得たことで、プロジェクトは大きく動き出しました。14名の先生が名を連ねた「ハチ公と上野英三郎博士の像を東大に作る会別ウィンドウで開く」で検討を重ね、出した方針は、博士と暮らした頃の若い姿で、飼い主と会えた喜びが伝わる像に、ということ。彫刻家は塩沢先生が日展で見つけた植田努さんに決まりました。

「事前にブリーダーを訪ね、秋田犬が塩沢先生に飛びつく瞬間を撮って見本にしました。名古屋のアトリエを訪ね、細かく注文もつけてしまいましたね。試作時、上野像の顔のモデルは植田さんのご夫人だったそうで、どことなく柔和な表情に感じました」

費用の問題は東大基金で募った寄付金ですぐに目処が立ちましたが、少し問題だったのは設置場所。駒場案もありましたが、ハチ公の臓器と上野博士ゆかりの農学部がある弥生の地が選ばれました。当初の想定は農正門から伸びるメインストリート上。シンボルとしてわかりやすい位置にとの思いでしたが、研究との関連性が薄いのではないかとの指摘を受け、現在の場所に落ち着いたのでした。

ハチ公に触ったおばあさんも除幕式に

東大ハチ公物語

東大ハチ公物語別ウィンドウで開く』(一ノ瀬正樹・正木春彦編/東京大学出版会/2015年)

哲学、動物学、遺体科学、社会学、農地環境工学などの観点から紡がれた新たなハチ公物語。
「大学が犬人気に乗っかるとは何事だという批判もありましたが、そこには大学が高尚なものだという先入観があるのではないでしょうか。プロローグを読んでいただければ、本書がアカデミズムを体現する一冊であることが伝わると思います」と一ノ瀬先生。

「作る会」は、2014年に「東大ハチ公物語」と題するシンポジウム別ウィンドウで開くを行なって理解を促進し、それを元にした書籍企画も進めました。取り組みを通じて立ち現れた「犬観学」の構想は一ノ瀬先生の哲学にも影響を与えました。

そして迎えた2015年3月8日。像の除幕式には多くのお客さんが集まりました。なかにはハチ公によく似た秋田犬や、小さい頃にハチ公を見て触ったというおばあさんの姿も。多くのメディアが報じ、大きな反響がありました。

「賽銭のようにお金を置く人もいました。会いたいのになかなか会えない相手に会えるかも、と連想されたのでしょう」

米国ニュージャージー州ラファイエットのペット公園墓地からは、複製を作りたいとの申し出が。「作る会」は前向きに検討し、像の鋳型の貸し出しを決定。2016年10月に現地で除幕式が行われました。

2018年に東大を離れ、像を近くで見守ることはできませんが、いまも愛着は変わらず、「鞄や首輪の細い部分の破損が心配」と語る一ノ瀬先生。哲学では「犬のような生活」を目指す古代ギリシアの「犬儒派」が知られますが、一ノ瀬先生も「犬儒派」に改めて注目し、考察を加えていこうとしています。

2.

十代目の後輩に聞く
上野式農業土木学

吉田修一郎
YOSHIDA Shuichiro

農学生命科学研究科教授

吉田修一郎

まだ早すぎた上野ビジョン

ハチ公の飼い主だった上野英三郎博士は、日本の農業土木学の創始者として知られます。農業土木学とは、農地を整備し灌漑と排水を軸に地域環境を整えるための技術学。農商務省技師を経て欧米に留学し、先端の耕地整理理論を吸収した上野博士は、農科大学(東大農学部の前身)で行った授業を元に『耕地整理講義』を上梓しました。

そこで書かれた理論の一つが区画論です。昔の水田は、水路や農道が各々の区画に接しておらず、非効率的でした。各区画に接する水路はあっても用水路と排水路が未分離のものもありました。当時、田区改正・畦畔整理と呼ばれた水田区画の整備が進んでいましたが、地域により様々な方法が採用され、不適切な設計や施工も多くありました。上野博士はそのような現状を批判し、区画、道路、水路の性状や構造と配置を一体的に捉えて、そのあるべき姿を提唱したのです。

「ただ、上野理論がすぐに受け入れられたわけではありません。先を見据える正しいビジョンがありましたが、当時の農家が実践するには早すぎた感があります」

そう語るのは、上野博士が初代教授を務めた農業工学講座を継承する農地環境工学研究室別ウィンドウで開くの第10代教授、吉田修一郎先生です。上野博士が主張した圃場整備は、規模を大きくして機械を導入しないと効率が上がりません。地主は小作農を長時間働かせれば収量を上げられたため、投資をしてまで区画を広げようとは思わなかったのです。

「戦後に農地改革が行われ、各農家のインセンティブが働く形になると、区画整理で生産性を上げるための理論が実践されました。区画論で提唱された「上野式」はそのまま日本の水田の標準となっています」

耕地整理講義
上野博士の主著『耕地整理講義』(成美堂/1905年)。この本により、日本の農業土木学の礎が築かれました。
上野博士の肖像写真
農地環境工学研究室の教授室に掲揚されている上野博士の肖像写真。

教育者としての功績も多大

上野博士の教えは、講義や著書で学んだ教え子たちによって全国に広がり、多くの研究者や技術者の育成につながります。日本初の農業土木学者は、教育者としての功績も多大でした。その人望は、教え子らが後に博士の墓とハチ公の碑を建てたことからも窺えます。

「夫人の八重子さんは内縁だったために墓が別でしたが、後輩たちの奔走の結果、2016年にハチ公と上野博士が眠る青山に合葬されました。その後輩の一人が、私の先代である塩沢昌教授です」

上野博士が始めた農業土木学は、時代が進むにつれて広がり、環境や生態系まで扱うようになりました。1929年設立の農業土木学会は2007年に農業農村工学会別ウィンドウで開くに名称を変更。その農業農村工学の分野では近年、流域治水が課題となっているそうです。

「河川の整備だけでは気候変動に伴う水害に対応できないので、農地を含む流域全体で被害を緩和しようという考え方です。洪水の流出を遅らせる機能も持つのが農地。作物への影響を最小限にとどめつつ、その可能性を広げるのも、上野式を受け継ぐ私たちの仕事です」

上野博士の胸像
専攻の会議室では上野博士の胸像(農学資料館の像と同型)が後輩たちを見守っています。
農業土木教科書
上野博士は水路論にも力を入れ、水理学に基づく水量算定と水路設計の必要性を説きました。『農業土木教科書』(成美堂/1904年)の暗渠排水の項より。

9/26(火)公開の後編はこちら

記事を見る

関連リンク

アクセス・キャンパスマップ
閉じる
柏キャンパス
閉じる
本郷キャンパス
閉じる
駒場キャンパス
閉じる