平成17年度東京大学学位記授与式総長告辞

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式辞・告辞集 平成17年度東京大学学位記授与式総長告辞

告辞

平成18年(2006年)3月23日

東京大学総長
小 宮 山  宏


 本日、博士、修士あるいは専門職の学位を授与された皆さん、おめでとうございます。東京大学を代表して、心よりお祝い申し上げます。
 皆さんは、それぞれ専門分野において、深い研鑽を積み、高い学識を蓄積し、優れた研究成果を挙げられました。長いあいだの地道な努力がここにひとつの達成を見たことで皆さんは、おそらくいま、幸福な達成感を味わっておられると思います。しかし同時に、ここに至る道がけっして平坦ではなかったことを、私自身の経験から推測いたします。研究にはさまざまな困難が伴います。その困難を乗り越えて今日、この晴れの場に至った皆さん、そして皆さんの努力を陰で支えてこられた方々を、総長として、心より賞賛し祝福いたしたいと思います。
 今年は、東京大学として初めて、専門職大学院の修了生を世に送り出す、記念すべき年でもあります。それぞれ進まれる道は異なっていても、東京大学で身につけられた「課題をいち早く発見し、その解決に主体的にかかわる」という、広い意味での研究マインドは生涯、皆さんとともにあるはずです。そうした皆さんのために、この晴れの場において私の思いを伝えたいと思います。

 私が総長の職について一年になりますが、この間、東京大学の大学院生が優れた研究を行い、さらに社会で活躍するのを目の当たりにして、大いに勇気づけられることが、しばしばありました。
 一例をあげると、医学系研究科博士課程に在籍する宮本伸哉さんは、病院の診療研修の間に、幼い子供が頭部に外傷を負って運ばれてくる事例が多いことに気づきました。調べてみると、母親が幼児を自転車の補助椅子に座らせて走行している時に、あるいは目を離した一瞬の隙に自転車が倒れ、転落した子供が時には致命的な外傷を負うという事実に思い至ります。そこで直ちに、実態調査を行うとともに、自転車の補助椅子に乗る子供たちにヘルメットを着用させるべく社会啓発活動を始めました。行政や報道によってこの活動は広く支持され、今日では、自転車に乗った幼い子供たちが、ヘルメットを着用しているのを見るのは珍しいことではなくなりました。その結果、多くの幼い命が救われることになったわけです。研究を通して、それまで注目されてこなかった重大な課題を認識し、突き詰め、その解決を社会に向かって訴え、先頭に立って努力を惜しまなかった宮本さんの知と勇気に対して、私は平成十七年度の総長賞を授与いたしました。しかし同時に、私は、本日ご出席のすべての皆さんが、宮本さんと同様、課題解決の知と勇気を備えているものと確信しております。

 皆さんの仲間ということで、もうひとつお話ししたいことがあります。皆さんは、東京大学に、視覚に障害を持ちながら、化学を専攻することを希望して入学し、化学や物理などの実験を他の学生と同様に行い、初志を貫徹して現在も博士課程で研究を続けている方がおられることをご存じでしょうか。東京大学では、この方以外にも何人もの学生が身体の不自由をのりこえながら、学問に打ち込んでいます。
 身体の障害は、生得的なものとは限りません。事故や病気の後遺症、あるいは、年齢を重ねることによって誰にでも起きうるのです。身体の障害は、したがって、健常者と連続的に繋がっている普遍的な問題ととらえるべきなのです。
 東京大学では、バリアフリー支援室を設置し、障害を持つ学生や教職員の支援をしていますが、私は東京大学大学院を修了していく皆さんが、基本的な教養として、自らの心身の健康を長く維持していくためのスキルと知識を身につけると同時に、いつまでも他者の痛みや苦しみを感じる力を持ち続け、優しい社会の建設を目指す活動を続けて欲しいと願っております。
 私は、昨年四月の学部入学式で、新入生に「他者を感じる力」を備えて欲しいと呼びかけましたが、「他者を感じる力」は、新しい学問分野の創出につながることもあります。実は、東京大学には障害に関わっている研究者が多数、しかも多様な形で存在しています。知覚認知科学や医学など、障害と直接関わる研究分野ではもちろんのこと、経済学、文学、工学など広範な領域で障害の学問、障害学の構築をめざしている研究者がおります。人間を対象とするすべての科学は、潜在的に障害学とともにあると言うことすら可能になるほどに、東京大学には、さまざまな分野で障害と向き合った研究をしている方がいて、総長としてはその全学的連携を模索したいと考えているところです。
 研究というものは、本来優れて個人的な営みであり、それゆえに多様性が確保されるものです。しかし、「他者を感じる力」は、そこに新しい可能性をもたらすことがあります。本日、学位を得て旅立つ皆さんも、それぞれが選んだ道で、個としての志を高く掲げるとともに、「他者を感じる力」を発揮して、よりスケールの大きい研究や実務を開始してくださることを切に願っています。

 さて、皆さんにとって、東京大学大学院とはどのような場だったのでしょうか。皆さん自身、おそらく入学して以来、優れたライバルや先輩、才気溢れる後輩たちの存在に、畏れやまぶしさを感じることがしばしばあったのではないでしょうか。しかし、実は、皆さん自身が、まばゆい光を放っていることを、どれほど意識しておられるでしょう。
 東京大学の高度な学術研究教育、社会連携の活動を支えているのは、こうした輝く人々であり、そのつながりなのです。東京大学が誇るこの「人のつながり」には、現役の教職員や、学生だけではなく、多くの卒業生が含まれていることを忘れてはなりません。皆さんは、現在すでに、そしてこれからも、東京大学が誇るべき人のネットワークの一員なのです。学位の取得、そして修了は、東京大学との絆がこれで終わるということを意味しません。むしろ、学位は、ネットワークの正式登録証であると、そのようにお考えいただきたいと思います。東京大学は、皆さんのこれからの人生にとっていつまでも有意義な存在であり続けたいと思っていますし、また、皆さんの力を人類社会の未来のために今後とも結集し続けたいと思っています。学位記授与式にあたり、私は、皆さんの東京大学との絆がよりいっそう強まることを切望致します。
 ただ残念なことに、現在の我が国では、アカデミーを除く一般社会は、博士取得者の受容にいまだに積極的とは言い難い現状があります。これは、「博士の取得者は狭い研究に固執するばかりで柔軟性がない」というある種の偏見に基づくものだと私は考えています。現代社会は、博士の専門知識とその総合的な判断力を必要とするさまざまな課題に満ちています。私は、社会一般が高度な知がもつ未来を切り開く力を正しく評価し、いま以上に、博士の受容が進むことを強く希望する者ですが、同時に、博士を送り出す責任ある立場の人間として、皆さん方もまた、それぞれの高度な専門性を一般社会の課題に対応しうるものとして使いこなすことができるようにと、そう願わないわけには参りません。

 ここにいる皆さんは、今後は社会のなかで、あるいは大学等の研究機関において、新たな課題に取り組むことになります。
 研究の課題は、通常、優れた頭脳や豊かな感性から生み出され、知的好奇心に支えられ、自由な発想のもとに設定されるものです。自ら作り出す課題と言っても良いこうした課題設定のあり方は、しばしば「学問の本質は自由である」と表現されるように、大学人にとって最も大切な自由な研究活動の根幹にあるものです。とはいえ、この自由は、何をするのも勝手というような責任の感覚を欠いた、幼稚な自己満足的な意味の自由ではありません。そうではなく、真理のために、いかなる定説をも疑ってみるような自由な発想の力なのです。人間の活動領域と知的体系を、過去にとらわれずに、より豊かにしていく自由のことです。大学は人類社会から、自由を行使し、その成果や波及効果を社会に還元することを負託されています。この自由には、当然のことですが、基本的な責任が伴います。大学、あるいは一人一人の研究者が、この責任に無自覚な行動をとることは、学問の存立自体を脅かすことになります。
 さて重要な課題の選択として、社会科学であれ自然科学であれ、あるいは政策決定等の現場であれ、人類社会が今直面している切迫した問題群から否応なく課せられる課題設定があります。将来のための課題を発見し、その解決に道筋をつける努力を始める、ということです。宇宙のなかでも奇跡的に美しい地球という星の住人であるわれわれ人類は、国という単位をつくり、それぞれ異なる文化や価値観を持ち、異なる速さでそれぞれの個性ある発展の道をたどりながら、暮らしています。しかし、その生活は必ずしも安全とは言えず、富や教育、疾病等において地域間格差は増大する一方であり、地球規模での環境汚染や破壊、文明論的衝突、宗教的対立等が脅威となって降りかかってきています。もちろん、我々はこのまま手をこまねいて傍観しているわけにはいきません。人類の生存に対する危機意識を感じないではいられないのです。ここにいる皆さんは、広い意味での知の活動を通して、これらの課題に主体的に関わっていくことが期待されているのです。
 こうした歴史的な、人類的な課題の解決にも、それぞれの現場での、過去にとらわれない自由な発想が不可欠です。私は、皆さんが、学問の自由の精神、歴史に対する鋭い感性、さらに研究の自由を人びとのために役立てるという深い倫理性をもって、今後の活動を進めていただきたいと願っております。

 ところで、皆さんは、日本で学位を取得したわけですが、その文明論的意味を考えたことがおありでしょうか?私は、ここで日本は現在、世界史的な意味で「課題先進国」であるということを申し上げたいと思います。
 一例として環境問題を取り上げてみましょう。一九六○年代から七○年代にかけて日本の海や川や空は、ひどく汚染されていました。日本のような狭い国土で世界第二という巨大な生産を行えば、よほど注意しなければ環境が汚染されるわけです。四日市ぜんそく、水俣病といった、痛ましい公害も経験しました。私達は、汚染物質の環境への排出を極度に制限せざるを得ませんでした。例えば、火力発電を行うと燃料中に含まれる硫黄の酸化物が発生し酸性の雨を降らせます。現在、発電量あたりで比較して、日本の火力発電からの硫黄酸化物排出量は、主要国のなかで最小です。それも、米国や英国の二○分の一、ドイツの五分の一といったように、群を抜いた少なさです。厳しい環境規制とそれに応えた社会の努力とによって、日本の環境は著しく改善され、世界に誇り得る状況になっております。
 日本は、天然資源に恵まれなかったから、エネルギー効率の良い国を作り上げたのであり、人口密度の高い先進国であるから、環境規制を強めて美しい空や海を取り戻しつつあるのです。資源に乏しい人口密度の高い先進国という日本の現状が、来るべき地球の姿であることは容易に理解されるでしょう。日本が、自らの課題を解決することに成功すれば、それは人類全体の社会モデルとなる、そういう可能性を賦与されているのです。

 今、私たちは、こうした課題を解決するために、導入すべきモデルを欧米に見いだすことができるのでしょうか。そうではないのです。私が日本を課題先進国と定義する意味はここにあります。環境問題もエネルギー問題も、世界に先駆けて、日本において課題が顕在化しているのです。
 地球規模で見た文明は、階層構造をなしていたり、入れ子状態になっていたり、複雑な様相を呈しています。日本が直面している問題、日本がこれから直面するであろう諸問題は、やがて地球規模で全体を覆うであろうし、その課題への対処は、独り日本だけに留まらず、人類の生存にまで影響を与える可能性を持っています。
 逆にいえば、私たち日本人には、世界から暗黙のうちに託されて先取りして研究すべき重要な課題があるであろうということです。私は、このような立場にある日本を、課題先進国と呼んでいます。私たち東京大学は、人類社会が健康な持続的発展、いわゆるグローバル サステイナビリティ、を達成するための理念や方法論を追求するため、人文科学・社会科学・自然科学・工学などの東京大学の総合知を結集して新しい研究組織を作り、大きなうねりを引き起こそうとしています。
 皆さんにおかれましても、課題先進国日本の東京大学で学んだことに確信をもち、それぞれの場で、個人的なレベルでの自由な学術的問題意識に基づく課題設定とともに、地球規模での問題意識を常に念頭におき、オリジナリティの高い課題設定と、その解決の探求の、最前線を担っていただきたいと、そう願っております。

 皆さんのたゆまぬ努力がもたらすであろう達成の喜びを、社会とともに分かち合えることが今後とも続くことを期待して、私の式辞の結びといたします。
 

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