平成24年度東京大学大学院入学式 総長式辞

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式辞・告辞集 平成24年度東京大学大学院入学式 総長式辞

 このたび東京大学の大学院に入学なさった皆さん、おめでとうございます。これから皆さんが、さらに深い学問の世界に分け入って、充実した学生生活をお送りになることを願っています。ここにいる皆さんの中には、博士課程に進学する人もたくさんいますが、さらに研究の最先端を究めていってもらいたいと思います。
 また、今日のこの場には、皆さんの大学院への入学を支えて下さった、ご家族の皆さまにも多数ご出席いただいています。心からお祝いを申し上げたいと思います。
 今年の大学院の入学者は、4,502名です。学部の新入生は3,100名余りですので、その約1.5倍近い数ということになります。その内訳は、修士課程が2,927名、博士課程が1,221名、専門職学位課程が354名です。入学者の中で留学生の数は467名、つまり入学者の1割強を占めています。また、東京大学以外の大学から入学してきた皆さんも多く、学部時代とはまた違った、多様性に満ちた環境の中で、皆さんの力が切磋琢磨されていくことを願っています。

 さて、昨年3月に起きた東日本大震災とそれに伴う巨大津波、そして福島の原子力発電所の事故から1年余りが過ぎました。当時のそうした事態を受けて、昨年度の入学式は、各研究科新入生代表の皆さんだけに出席してもらい、学内で実施するという異例の形をとりました。今年は再び例年の形式に戻して、この武道館で入学式の式典を執り行っています。
 ただ、このたびの大震災によって被災した地域が元に戻っているというわけではありません。被災地では、少しずつ復興に向けて動きだしているものの、本格的な復興への取組みはまだまだこれからです。東京大学では昨年4月に「東日本大震災に関する救援・復興支援室」を設置しましたが、さまざまな専門分野を生かした復興支援プロジェクトがこの支援室に登録されて、大学院学生の皆さんも参加して実施されています。また、教職員のほか学生の皆さんもたくさん、ボランティアとして被災地で活動してきました。こうした復興支援のための活動は、東京大学としても息長く継続していこうと考えていますので、ぜひ皆さんも、大学院で過ごす間も、自分にどういうことが出来るだろうかと真剣に考え、あるいは行動をしていただければと思います。

 今日は午前中に、この同じ場所で学部の入学式が行われました。そこで私は、新入生の皆さんに、「よりタフに、よりグローバルに」というメッセージを伝えました。こうしたメッセージは、私が3年前の総長就任以来、繰り返し学生の皆さんに伝えてきたことで、東京大学の学部から大学院に進学した皆さんは、ある程度目にし、あるいは耳にしてきたことと思います。この4月はちょうど私の総長任期の折り返し点になりますので、改めて初心に立ち返って、このメッセージを新入生の皆さんに伝えたのですが、この「よりタフに、よりグローバルに」という意識は、大学院学生の皆さんにも同じく期待をしたいことですので、まずこの点をかいつまんでお話ししておきたいと思います。

 まず、「よりタフに」ということですが、このタフさというのは、人によって、あるいは置かれている状況によって、表れ方はさまざまです。いずれにしても、タフさというのは、「頭がよい」「知識がある」「弁が立つ」というだけではなくて、自分の能力を精一杯に使って物事に正面から向き合い乗り越えていこうとする姿勢、そして、それを持続していく姿勢が、重要な本質であると私は考えています。
 大学での勉学もそうですし、また社会に出ればいっそうそうですが、人生を送る上では、なまなかな努力では実現できない事柄、計算や予測が不可能な事柄、また不合理で理不尽に見えるような事柄など、数え切れないほどの困難があります。そうした課題に臆せずに向き合って、新しい道、新しい解決、新しい仕組み、新しい生き方、新しいものの見方を生み出すために、力の限りを尽くすことを厭わないということが、タフであるということだと考えています。
 そして大切なことは、こうしたタフさというのは、さまざまな学問的、社会的、あるいは人間的な接触の中で育っていくものだということです。タフさは多様な経験の中で培われます。人間は、自分とは違った知識や価値や生き方に出会うことによって衝撃を受け、成長していきます。そうした経験を通じて、困難な課題に直面した時も、どう取組めばいいのか知恵や工夫をめぐらす柔軟性、そして、何とか出来るのではないかという自信や前向きの姿勢が育ち、タフさの源となります。皆さんには、大学院生活の間に、少しでも多くそうした経験を重ねてもらいたいと思います。

 もう一つ、「よりグローバルに」ということですが、国際化というのはたんに語学が出来る、言葉が通じるということだけではありません。むしろ国際化の価値は、世界の中に存在している多様性にさらされ、異質なものに触れて成長するきっかけになるというところにあります。つまり、自分とは異なった考え方や発想、異なった行動様式や価値観と触れあい、それらの刺激にさらされる機会を持つということです。そうした刺激を自分の中で消化していくことによって、国際的な競争や協調の場面で活躍できる力と同時に、時代や環境の新しい変化にも対応していくことが出来る力がつくはずだと考えています。今日の学術研究が、さらには社会が、こうした力を求めていることは、言うまでもないことです。

 皆さんにはぜひ、この「よりタフに、よりグローバルに」ということを強く意識しながら、充実した大学院生活を送ってもらいたいのですが、今日これからお話ししたいと思っているのは、皆さんにとって身近であるはずの、「表現」をするということについてです。
 皆さんはこれから大学院で自分の専門研究を深めて行くわけですが、多くの場合、その研究の成果は、何らかの形で表現されることになるはずです。つまり、皆さんが研究に携わるということは、表現をするということとかなりの程度重なっています。そこで、表現を行うことの意味、さらに、表現に伴う責任について触れておきたいと思います。

 表現をすることの意味は何なのかというと、まず思い浮かぶのは、人に伝えるということです。しかし、それ以前に、そもそも表現という行為には「自己実現」という意味合いがあります。私は表現の自由という分野の研究に長く携わってきたのですが、そこで、表現の自由の機能の一つとして、「自己実現」という言葉が出てきます。つまり、何か表現をするというのは、精神の作用を通じて人間としての可能性を実現していく、そしてそれによって自分の人格というものを形成していくきっかけになる、ということです。表現するという行為は、感情や思考を活発なものとする触媒ともなります。かりに、研究は自由にやって結構だ、けれども発表はしてはいけないと言われると、多くの場合、研究者の成長は止まるだろうと思います。

 表現するということがこうした精神の特別な活動であることを、私たちは通常は意識しません。ただ、ある種の極限的な状況に置かれた時に、そうした表現行為の本質が見えてくることがあります。
 昨年の大震災後、いくつかの言葉が繰り返し飛び交ったことを記憶している人も多いと思います。「頑張ろう」、「寄り添う」、「絆」などといった言葉がその例です。それは、単なる流行語というよりは、個々人の内面から湧き出た言葉であり、かつその言葉を気持ちの中に留めることなく外部に発したい、そして共有したいという思いが込められたものであったような気がします。そこには、何か伝えるという以上に、自らの思いを表現したいという、一種の「自己実現」的な意味合いが伴っていたように感じます。
 私自身も、大震災後の東京大学の復興支援の方針として、『生きる。ともに』というメッセージを出したのですが、これは、大学の運営責任者としてのスタンスを述べるものであったと同時に、個人としても自分の思いをそういう形で表現せずにはいられないという感覚を、その時に持ったことを記憶しています。大震災のすさまじい惨禍を前にして、おそらく皆さんの中でも、何か言葉にしたい、言葉を発せざるを得ない、といった衝動に駆られた人が少なくないのではないかと思います。それこそ、表現行為と自己の内面の一体性が表れた瞬間ではないかと思います。
 このように、表現を行うということは、本来、自分の内面を絞り出すということです。そうした内面を絞り出すことによって自分の存在というものを確認するということであり、表現は人格と深く結びついています。

 表現という行為のこうした原初的な意味合いを理解することから、表現という行為の在り方について考える手掛かりも得られます。

 まずは、表現が誠実なものでなければならないということです。皆さんが、研究論文のように何か表現をしようとする時には、他人の言葉を安易に借りるのではなく、自分の言葉や自分の文章をひねり出すために苦闘しなければならないということです。また、表現の確たる裏付けとなる資料やデータを、自分で必死に汗をかいて見つけ出さなければならないということです。無数の先人が蓄積してきた膨大な業績の上に、自分という人格が何を新たに付け加えることができるのか、それを皆さん自身の言葉と努力で探ってもらいたいと思います。
 表現が人格と結びついているということは、表現の誠実さが人格の誠実さにもつながってくるということです。また、表現が自己実現であるというのは、表現行為に至るまでの苦闘の過程、すなわち、言葉を探し、文章を練り、資料やデータを集める苦闘の過程を通じてこそ、皆さんは成長するということです。

 ところで、表現の自由の意義ということを議論するときに、こうした自己実現という個人的な機能と並んで、それが真理に近づくための手段であるということ、つまり、表現行為の社会的な機能もよく取り上げられます。これは、研究に携わっている人間には身近な感覚です。真理というと大げさに聞こえるかもしれませんが、ここでは、自然科学的な意味での客観的な認識に限らず、知識の有効性や合理性の最善の水準といったところまで広げて解釈しておいてよいと思います。こうした真理、最善のものを認識するために血の滲むような努力をするのが、研究に携わる者の宿命です。
 そうした努力を続ける過程においては、私たちが客観的な真理だと信じたものがしばしば暫定的なものであり、乗り越えられる可能性を持ったものだということを覚悟しておく必要があります。表現というのは、自己実現という個人的な行為であると同時に、一つの社会的な行為です。そうである以上、ある表現に対して議論や批判がありうることを当然と考えておかなければなりません。むしろ、こうした議論や批判のプロセスの中に自らを置くということこそ、研究の本質です。

 こうした表現の持つ社会的機能の話を推し進めて言えば、皆さんに認識しておいてもらいたいのは、皆さんの表現は、たんに個人の自己実現としての表現に留まらず、「専門家としての表現」になる場合もしばしばあるということです。特定のテーマに関する専門的な研究を踏まえた表現は、たとえそれが大学院学生の研究成果であれ、普通の人びとの表現より重みをもって社会に受け止められることは不思議ではありません。それだけに、皆さんが表現を行うに当たっては、真摯な検証を経た誠実な表現が、自己の人格に対する責任としてと同時に、社会に対する責任としても求められることになります。
 皆さんは、これから、さまざまな形で表現活動を行っていくことと思います。膨大な量の表現を生み出していくことだろうと思います。そうした時に、限られた時間の制約の中で多くの論文を書くことに追われて、つい表現の内容や言葉の使い方がいい加減になったり、あるいは実証をなおざりにしたりしてしまう危険性が、つねにあります。皆さんには、忙しい合間にも時々は立ち止まって、「表現をする」という行為の原点、すなわち、個人にとっての重み、そして社会にとっての重みを思い起こしながら、研究に携わってもらいたいと思います。そのように表現するという行為に対する緊張感を持ち続けることによって、皆さんは、立派な研究者として、あるいはしっかりとした研究を踏まえた専門家として、成熟していくはずです。

 最後になりましたが、今日大学院に入学する皆さんのご家族の皆さまにも一言ご挨拶を申し上げておきたいと思います。
 これから大学院に入学する皆さんは、すでに学問研究というものに対する基本的な姿勢はしっかり持っているはずで、生活の面でも勉学の面でも、間違いなく一人立ちしてやっていけると期待出来る皆さんたちです。ただ、これは私自身の研究生活の経験を踏まえて、いつも申し上げていることですが、大学院での勉学、研究というのは、学部での勉強以上に、強い精神力と体力を必要とします。今日のお話の冒頭で、学生の皆さんに「タフになってほしい」と言いましたが、特定の研究テーマに情熱を注ぎ込むことは、肉体的な負担はもとより、孤独で自分の骨身を削るような緊張を要する作業となることも少なくありません。そのことをご理解いただいて、ご家族の皆さまには、どうか、そうした厳しい学問の世界にいる皆さんに、折に触れ精神的なサポートをして差し上げていただければと願っています。

 東京大学は、今日、このように多くの皆さんが、学術の未来の可能性にともにチャレンジしていく仲間として新たに加わって下さることを、心から歓迎したいと思います。皆さんのこれからのご活躍に大いに期待をしています。

 

平成24年(2012年)4月12日
東京大学総長  濱田 純一

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