平成28年度東京大学大学院入学式 祝辞

式辞・告辞集 平成28年度東京大学大学院入学式 祝辞

 

平成28年度、2016年春の東大大学院への入学・進学の皆さん、皆さんの古い先輩の一人として心からのお祝いを申しあげます。文系、理系を問わず、日本人、外国人の国籍を問わず、皆さんの身も心も、今日は、これまでの自分の勉学の成果への自信と、これからの研究者としての自分の新しい展開への期待と不安とで、いっぱいになり、なにか武者震いのようなものさえ感じていらっしゃるのでしょう。この壇上に招かれて、四千何百人かの新しい「選ばれた人々」、つまり日本の最高学府の一つに加わった若いエリートたちのお顔を見わたして、私も実に嬉しく頼もしく思っている次第です。皆さん、知的エリートとしての重大な責任を世界に対し、自分の国の同胞たちに対し、これから十分に果してゆかねばならぬことを、けっして忘れないでお励み下さい。

私自身の経験についてまずお話しすれば、私は完全な駒場っ児であり、自称「駒場学派」の一人でした。昭和23年、1948年、つまり日本敗戦から三年目の春に、駒場にあった旧制第一高等学校文科に入学しました。戦災で、まだ見ぬギリシャの廃墟のように崩れた教室の柱や壁が立ち並ぶキャンパスでしたが、銀杏並木はすでに青々と芽生えていました。私はそこを、同じ中学から同じ四修で入学した同級生六名と肩を組んで、おぼえたての寮歌を繰り返し歌いながら、一晩中往復したことを、いまもあざやかに、なつかしく思い出します。

ところが、私たちの誇らしい一高生としての駒場寮生活はわずか1年で終り、翌昭和24年には同じキャンパスに浦和高校や東京高校も合併されて、新制の東京大学教養学部が発足し、私たちはまたも入試を受けて一ぺんに東大生となることになりました。さらにその2年後の1951年には、教養学部の後期課程として教養学科(Department of Liberal Arts)が設けられ、その中に、イギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、国際関係論、文化人類学、科学史科学哲学と、当時の日本の国公立大学にはまだどこにもない新構想の分科が開設されたのですから、まことに目まぐるしい。私は本郷に移るか、駒場にとどまるか、いくらか悩んだ末に、この新奇な冒険的な構想に惹かれて、同窓の高階秀爾、平川祐弘とともにフランス分科に進学しました。

そしてまたも二年後、昭和28年、1953年には、「教養学士」という珍しい学士号を貰った上で、この教養学科に対応して駒場に創設された大学院、比較文学比較文化、国際関係論、科学史科学哲学、文化人類学等、これも日本では前代未聞の専攻課程のうち、私は比較文学比較文化を選んで入学しました。その博士課程時代に2年ほどフランス政府給費留学生としてパリに留学して帰国すると、またも同じ課程に居候をし、昭和38年、1963年にはじめて定職を得て、教養学部のフランス語の教師となりました。さらに数年後、アメリカ・プリンストン大学の東アジア研究科で2年間客員研究員としての勉強を終えて帰ってから、比較文学比較文化の大学院をも担当することにもなりました。

こうして振り返ってみると、17歳で駒場に来てから、平成4年、1992年60歳の定年まで、途中一年だけの無籍の年を除いて、計43年間一貫して私は駒場でお世話になったことになります。かけがえのない、有難い、充実した学徒、研究者、教育者としての歳月でした。戦後、一年おき、二年おきで、目の前に真新しい学部、学科、大学院がつぎつぎに開かれ、まだ誰も踏んだことのないその学びの道を、旧制一高では最後の生徒として、新制東大ではつねに第一回生として進んでくることができたのは、当時のGHQの教育改革の拙速ぶりのおかげだったでしょうか。いや、やはりそれよりも、当時の駒場に集結しておられた矢内原忠雄学部長をはじめ諸先生方の、この混乱を利用した行政上の智恵と、旧制高校の文理にわたる人文主義、古典主義のよさをぜひ新制駒場の知的国際主義の中に伝え、生かそうとした必死の志と努力のおかげであったでしょう。

ドイツ語の竹山道雄先生は、名作『ビルマの竪琴』を発表なさって間もない頃でしたが、一高文乙のクラスで、週二回ないし三回のドイツ語初歩の文法の授業の合間合間に、好奇心に燃える私たちに、実に美しいドイツ語でゲーテの「すべての峰にいこひあり」の「旅人の夜の歌」や「君よ知るやかなたへ/君とともにゆかまし」の「ミニヨンの歌」などを黒板に書き、朗々と読んでは訳して下さった。

台北大学から引き揚げてきて間もない英語、比較文学の教授の島田謹二先生は、一高の授業が当時午前中しかなかったのを幸いに、午後の空いた時間と教室で超満員の弊衣破帽の一高生たちを相手に私設セミナーを続けられました。自ら編纂した『花さうび』という近代日本詩歌アンソロジーをテキストに、北村透谷、島崎藤村から与謝野鉄幹、晶子をへて萩原朔太郎や石上露子(いそのかみつゆこ)、佐藤春夫にいたる名詩名歌を教えて下さった。その中に森鴎外、上田敏、永井荷風などの西洋近代の名詩の名訳が入っているのは、いかにも比較文学者らしい新工夫でしたが、中でも英国19世紀末のラファエル前派の画家にして詩人、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの詩「春の貢」を上田敏訳で朗誦し読解して下さったときなどの私たちの戦慄は、68年後のいまでも忘れることができません。最終節のほんの2、3行だけでも引いてみますと―

仰ぎて(まなこ)閉ぢ給へ、いざくちづけむ君が(おも)水枝小枝(みずえこえだ)にみちわたる「春」をまなびて、わが恋よ、

温かき(のど)、熱き口、ふれさせたまへ、けふこそは・・・

後に島田(ぶし)と称される独特の抑揚と熱っぽさでこれを読み聞かせられると、まだ「くちづけ」も「恋」も、まして「温かき喉」などはなにも知らぬ十七歳の少年は、まるで魔薬でも注ぎこまれたかのように心身ともに熱くなり、くらくらと目眩いのようなものを覚えずにはいられなかったのです。

戦争眞唯中の中学生時代には、西洋の詩文など一切習ったことはありませんでしたし、昭和23、24年代の私たちは、明治中期の青少年たちと同じような西洋文明への第二の開国を経験していたとも言えるのでしょう。それも知識としてだけではなく、官能、感性の奥底までひびくような強さと甘美さとをもって。

矢内原先生の後任で第二代学部長を務められた国文学の麻生磯次先生は、教養学部では芭蕉の俳諧を教えられ、教養学科の基礎科目では西鶴の「好色一代女」をテキストにして、屏風の陰で男女が云々のあやしいところに来ると、「ここはちょっと飛ばしましょ」と上手に品よく省略して、かえって私たちを誘惑なさいました。同じく万葉集の五味智英(ともひで)先生は、大教室中にひびくような声で、山部赤人の「ぬばたまの夜の更けぬれば久木生ふる清き川原に千鳥しば鳴く」などと朗詠なさっては、「どうだ、いいだろう」と言い放ち、ほんとうに若い私たちを感動させました。

そして教養学科フランス分科の初代主任教授前田陽一先生となれば、世界に知られたパスカル博士。進学して間もない私たちに、パスカルの『パンセ』をもちろんフランス語で読み、少くとも一章を選んでフランス語で評釈せよとの無理難題まで平気で出された。ラシーヌの悲劇も読まされ、あるときはベルクソンの「古典語教育とボンサンス」という論文を読ませて、フランス人学生にとってのラテン語、ギリシャ学学習と同じく、日本人学生の君たちはフランス語学習によって、君たちの頭の中にすでに出来上がっている流通語、日常語彙の陳腐凡庸な思考の回路をこわし、そこに新鮮な思考の(うね)を掘り起こすことができるのだ、それが外国語学習の本来の意味だ、だから学習後はその外国語など忘れてしまってもいいのだ、と驚くべきことまで教えられた。

外国語でも日本語でも、なるべく古典を選び、辞書を丹念に引いて、その古典のその一節にもっとよく適合する訳語を考え出しながら読んでゆく、その過程が私たちの知力と感受性を開発してくれる最重要の作業なのだとは、internationalisme de l'intelligence 知的国際主義を旗印とする駒場の教養学科、また大学院比較文学比較文化の教授たちほぼ全員に共通する意気ごみであり、新しいイデオロギーだったのです。これはいま毎日のように目にし、口にするグロバリズムとか、国際理解とかの、政治、経済、産業、情報に偏した用語よりもはるかに一国文化の内実に踏みこんだ重い、痛切な、そして痛快な人文の学の営みを促す言葉でもありました。

私は留学後、駒場の教師の一員となると、東大紛争の前後の頃から、『教養学部報』や『東京大学新聞』などの春のアンケートに「新入生に薦める本」というのをよく求められるようになり、割合まじめにそれに答えておりました。新入生の好む区々たる「方法論」などよりは、学びの道への「態度」こそがまず大事なのではないかとして、私が数回繰返して挙げたのは、本居宣長の『初山踏(うひやまふ)み』、杉田玄白の『蘭学事始』、福沢諭吉の『学問のすゝめ』などの日本近世近代の学問論とともに、その筆頭に18世紀日本の大先哲荻生徂徠(おぎゅうそらい)の『徂徠先生答問書』という一書でした。これは徂徠が羽前鶴岡藩の家老たちに、為政者はいかなる学問を身につけるべきかを問われたのに対し、何回かにわたって、真向から徂徠式のバロック風の文章で答えた興味津々の書簡を集めた書物でした。

いま、ごく簡単に二点に絞って御紹介しますと、一つは為政者として上に立つ者こそ、民衆の日々の喜びや悲しみ、また男女の間の当然の情愛の機微を知らないで、どうしてよい政治ができようか。朱子学のような「道理にあらくこはぐるしい」理屈の書物はやめて、まずは日本や中国古来の詩歌や物語を読め。これらは「(いにしえ)の人のうきにつけ、うれしきにつけうめき(いだ)したる言の葉(ことのは)」を集めたもので、これを読むことによって、その土地その時代の人情を知ることができ、「風雅文采(ぶんさい)」がおのずから身につき、「(ほがらか)に人性に通達すること」が可能になると、まるでフランスのモラリストたちのような教えを説きます。

ついで面白いのは、「天地も活物(かつぶつ)に候。人も活物に候を」縄などと縛りからげたように合理主義で判断してはならないとの論です。「惣じて学問は飛耳長目(ひにちょうもく)之道」と、中国の戦国末の思想家荀子(じゅんし)も言っているではないか。自国にいながら異国のことも研究するのは、耳に翼ができて飛行するような仕事だし、今の世に生まれながら数千年も昔のことを今目にみるように調べ理解するのは、まさに長い目ということに他ならない。「されば見聞広く事実に(ゆき)わたり候を学問と申す事に候」、故に「学問は歴史に極まり候ことに候。」

文科系の教育と学問は、現代のニーズに応じていない、ゆえに縮小せよ、改革せよなどと文部科学省自身が言いだしているいまの日本に向かって、三百年前の大哲徂徠先生は、なんと耳に痛い、人間必須の学問を説いていることか。彼よりさらに一世紀前のフランスの哲人デカルトが、その『方法 叙説』に言う「世界という偉大な書物に学べ」との教えともひびきあうところがあって、まことに愉快ではありませんか。私はプリンストンから駒場に帰って、フランス語を教えるかたわら、比較文学比較文化史の研究者としての自分の分野を明治日本の文明開化の歴史から遡って、その源流としての徳川時代の文化史に押しひろげることを考え始めていたときに、この徂徠の書に出会ったのでした。実に嬉しくて、わが意を得たりとばかりに「駒場学派」への道をさらに進みはじめたのでした。

御清聴有難うございました。本郷にくらべてまだ若い60年ほどの歴史しかもたない駒場の、やがてあの梶田隆章先生のファンタスティックな「スーパーカミオカンデ」にも負けない発展を期待して、私の長きにすぎた祝辞を終えます。 皆さん、すぐれた古典を見つけて熟読し、東京大学には本郷、駒場、柏キャンパスのいずれを問わず、すぐれた教育者・研究者である先生が大勢いらっしゃるのですから、その先生方について、自国と世界の文化の本体に通じ、また、大自然の本体に通じるエリートとしての責任を明日から十分に果していって下さい。

 

平成28年(2016年)4月12日
東京大学名誉教授、国際日本文化研究センター名誉教授、静岡県立美術館館長  芳賀 徹

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