特別解説 「113番元素の発見」

特別解説 「113番元素の発見」

理学系研究科教授/理学系研究科
附属原子核科学研究センター 前センター長 大塚 孝治

1. 元素

これまで人類に知られた元素は、水素、ヘリウムから始まり117種類がある。

元素には原子番号がついている。物質を構成する原子核には原子番号と同数の陽子が含まれている。中性な原子では陽子と同数の電子が原子核のまわりを回っており、物質の化学的な性質はこの電子数で決まるので、元素は物質を考えるに当って最も基本的なものである。

原子核には中性子も含まれ、原子番号が同じで中性子数だけが異なる原子核をアイソトープ(同位体)と呼ぶ。そこで、ある一つの元素には様々なアイソトープが属する。例えば、原子番号が1の水素には陽子1個だけの通常の水素に加えて、陽子1個と中性子1個から成る重水素、陽子1個と中性子2個から成る三重水素(トリチウム)がある。それらはどれも水素の元素なので、化学的な性質はほとんど同じである。そこで元素を特定することには実社会との関係に於いても大きな意味があり、原子番号だけでなく名前もついている。

元素の概念の確立は科学の長い歴史の賜物である。そこで元素の名前には様々な由来がある。鉄や銅,金のように実社会での使われ方から決まった名前も多い。さて、原子番号が92番の元素はウランであり、92番までの元素は1925年までに地球上にある天然の物質から発見された。

93番以降のものはこれまでに118番までが、人工的な方法で発見された。発見というより合成された、という方が分かりやすいかもしれないが、宇宙のどこかでは自然にも作られている可能性があるので発見の方が相応しい。ちなみに、93、94番は人工的に発見された後で、微量が天然にも見つかっている。

2. 超重元素と加速器

原子番号が93番以降の元素は超重元素(又は、超ウラン元素)と呼ばれる。それらを人工的に作るには、ある原子核を加速してビームとし、別の決まった原子核を標的として衝突させ、2つの原子核が一つになる過程(融合反応と言う)を利用する。融合反応でできた原子核はぶつける前のものよりも多くの陽子や中性子を含んでおり、より重くなる。この原理によって、第2次大戦後、先ずアメリカのローレンスバークレー国立研究所で、93~106番あたりまでが次々と発見された。並行して、ソビエトでも100番台の元素を幾つか発見したと主張され、いくつかはその後公式に認められている。より最近になって、ドイツのGSI 研究所で1996年までに107~112番を発見した。その頃には、ロシアに変わった後のドブナ原子核共同研究所が114番を発見した。このように、20世紀の終わり頃には、ドイツの GSI 研究所と、ロシアのドブナ研究所(アメリカのローレンスリバモア国立研究所と共同)が競って発見していた。それぞれ cold fusion 法、hot fusion 法という違う方法で攻め込んでいったのである。その過程では、118番元素を発見したというデータ捏造事件がアメリカのローレンスバークレー研究所で発生するようなことまでがあった(当事者らによってすぐに捏造と判明)。

このように、超重元素の発見はアメリカ、ロシア(ソビエト連邦)、ドイツに限られており、発見後国際機関での審査を経て、発見者と認定された者が命名を行ってきた。そのため、それらの元素名には著名な科学者の名前にちなんだもの(例えばキュリウム)の他に、国名(例えばアメリシウム)や地名(例えばバークリウム)にちなんだものになった。

113、115番、117番、118番が昨今命名に至りつつある元素である。ちなみに、ドイツの GSI 研究所は cold fusion 法でより重い元素の発見に挑んでいたが、その限界が112番にあったのである。それより先のものは実際には到達できない領域であり、より優れた実験装置を持っていた理研が113番元素を発見することができた。

3. 日本に於ける研究

我が国に於ける元素の発見の歴史は古く、戦前、小川正孝博士が惜しいところで逃した75番元素がある。加速器による原子核の研究も仁科芳雄博士らによるサイクロトロン建設が第2次大戦中も続いたが、大戦後しばらくは加速器の製作も困難な状況に陥った。その後、東京大学附属原子核研究所(核研)、理化学研究所(理研)などで加速器による原子核実験が行われるようになり、急速に世界に追いついた。その中で、当然、超重元素の探索も原子核物理学者の頭の中にはあった。

超重元素を作り出すには、重い原子核を別の原子核にぶつける必要があるので、重イオン加速器が必要である。我が国に於ける重イオン加速器の研究拠点は終始理研であったので、理研が超重元素探索の我国に於ける拠点である。1984年に、その頃に理研から核研に教授として移った野村亨博士を中心として、GARISという装置を製作してのプロジェクトが始まった。その中心人物が1984年当時は九州大学院生で核研の委託学生だった森田浩介氏である。野村博士は核研移籍後も理研の客員主任研究員としてGARIS計画を主宰し、森田氏を理研の研究員として迎えそれを推進した。森田氏はGARIS 計画に専念していたが、計画は全国規模だったものの他には強く関わった研究者はこの時期にはいなかったようである。GARIS は1988年に完成をみた。しかし、当時理研の加速器であったリングサイクロトロンのビーム性能が超重元素探索には合ってなく、GARISによる超重元素探索は多大の努力にもかかわらず不毛に終わってしまったと言っても過言ではない。このまま何もなければ、消えていく運命にあったかもしれない。

ここで、歴史の偶然が訪れた。理研に於けるリングサイクロトロンの次の加速器であるRIBF の建設が2000年頃から始められ、そのためにGARIS が設置されていた場所を空けなければならなくなった。行き先はRIBF の前段加速器であるリニアック(RILAC)の下流であった。それにより、GARIS に入って来るビームも変わることになった。リニアック加速器は以前からあったものの、RIBFの前段加速器という新たな役目が加わり、加速されるイオンビームのエネルギーと強度(イオンの個数)の大幅な向上のための改造が行われた。そのためにリニアック加速器に6台の装置(IH型キャビティ)が付加された。その副産物として、GARIS にはマッチしたビームが入射されるようになり、性能が発揮されることになった。

ここでもう一つの偶然が加わった。それが東大に関わるものである。原子核科学研究センター(CNS)は1997年に核研を高エネルギー加速器研究機構(KEK)とCNSに改組する形で設立された。立ち上げに伴う予算処置がなされ、その内、平成12年度(2000年度)に上記の6台の装置の内4台を東大の予算で設置した。理研と共同で、RIBF の建設を進めるためのものであった。名称もまさに重イオンエネルギー増幅装置となっている。現在の備品伝票を下に示す。これは4台まとめてのものである。金額は2億5千万円なので、当時も今もかなりのものである。


 

また、4台の内の2台が写っている写真もすぐ下にある。ビームは右から来て左に抜けて行く。


 

この重イオンエネルギー増幅装置の東大予算による設置は、CNS 初代センター長の石原正泰教授(現名誉教授)と理研の矢野安重主任研究員(現理研特別顧問)の決断によるものであった。

この装置によりエネルギーは約2倍となり、RIBFの前段加速器としての性能は大幅に向上し、RIBFが全体として高い性能を出せるようになった。一方、GARIS装置への入射ビームに関して言えば、2つの原子核が融合する際に乗り越えなければならない、クーロン障壁エネルギーという山を越えられるようになって、以前には不可能だった実験がリニアック加速器単独でも可能になった。この改造の当初の目的はRIBF の全体性能の向上を図るものでしたが、超重元素探索にプラスに働くことは予期されていたと考えられる。このように東大の寄与だけで実験ができた訳ではないものの、それがなければデータは取れなかったのである(CNSはこのように初期に貢献し、その後の共同研究にも少しは参加していたが、現在は実験に参加する人がなく、歴代センター長ともども残念に思っている次第である)。

もう一つ都合がよかったのは、リニアックは前段加速器なので、RIBF 本体への入射を行う時期には超重元素実験はできないが、それは年間高々数ヶ月の程度なので、それ以外の時期には専有することができた点である。これにより、長期間の連続実験が可能になった。超重元素探索は、ビーム強度とビーム照射時間の積に比例してイベント発生の確率が増えるので、いくつもいい方向に重なったことになる。

以上述べてきたように、元々のGARISプロジェクト、RIBF建設を機にリニアック入射への切り替え、リニアックの改造への東大CNSのタイムリーな寄与、などの成果と、背景にあった超重元素探索への連続的な指向と森田氏の努力、理研加速器チームのたゆまぬ努力、などが相まって113番に結びついたと言える。

森田氏は優れたGARIS装置を作ったことと、30年くらいに渡って献身的に打ち込んできたことが評価されたのだと考えられる。一方では、超重元素探索は極めて稀なイベントを待つことになるので、ビームの質と量(時間も含む)に大きく依存する。その意味で、運転現場から、戦略を考えたトップまでを含んだ、理研加速器部門の貢献も忘れるべきでない。

日本の加速器の水準は産学ともに極めて高く、113番元素の発見はその結実でもある。その水準の高さは、常に広い視野と異なる時間スケールで原子核物理の発展を見ながら、研究を進めてきた厚みのある核物理コミュニティに源がある。これは基礎科学を発展させるために必要な要素の一つであるとも考えられる。すぐに成果を求めるのではなく、常に学問の基盤を高め続ける事の重要性の証明を、ニホニウムの発見が与えているのではないだろうか。

関連リンク:113番元素名の「ニホニウム」正式決定にあたって(総長談話)

 
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