令和4年度東京大学大学院入学式 総長式辞

令和4年度東京大学大学院入学式 総長式辞

東京大学大学院に入学および進学されたみなさん、本日はまことにおめでとうございます。ご家族や関係者の皆様もさぞお喜びのことと思います。心からお祝いを申し上げます。

この春から、みなさんは、自分が所属する研究科の専攻や研究所に通学することになります。東京大学には本郷・駒場・柏のメインキャンパス以外にもさまざまな施設が存在します。研究教育活動の拠点は全国15都道県にまたがっており、そこにはスーパーカミオカンデのある岐阜県飛驒市の神岡宇宙素粒子研究施設や、東日本大震災で大きな痛手を負った後に再建された岩手県大槌町の国際沿岸海洋研究センターなども含まれます。本学のすべての施設を足し合わせると東京ドーム約70個分にもなり、その99%が木々で覆われていることをご存知でしょうか。北海道・千葉・埼玉・愛知などに広大な演習林があるからですが、世界的に見ても演習林、海洋、宇宙に関する研究所、農場や医学部などをすべて備える総合大学は珍しい存在です。みなさんには本学の特性・資産を存分に活用し,それぞれの分野で世界のリーダーシップを担うにふさわしい成果をあげていただきたいと思います。

東京大学は、国連主導の国際キャンペーンである「Race to Zero」へ、日本の国立大学として初めて参加しました。これは、2050年までに温室効果ガス排出量実質ゼロを達成するための行動を、世界に呼びかけるものです。カーボンシンクとして機能する演習林を活用しながら、都市部キャンパスの省エネ化や脱炭素への転換を進めることで、本学自体のカーボンニュートラルを実現してゆきたいと思います。グリーントランスフォーメーション(GX)は、社会全体で取り組むべき課題ですので、新たな知を創出できる大学の役割は非常に大きいと考えています。

東京大学は自律分散型の巨大なコミュニティで、約11,000名の教職員、14,000名の学部学生、そして15,000名の大学院生から構成されています。このコミュニティの構成員はもちろん、さまざまな回路を通じて構築されてきた内外の人的ネットワークも、本学の最大の財産です。ただ、この2年間、新型コロナウィルスの感染拡大に伴い、海外への渡航が大きく制限され、その人的ネットワークの更新や拡大がとどこおっています。みなさんのなかには、海外留学の予定を延期せざるを得なかった人もいるでしょう。本日の入学式に参加できないままの海外からの留学生もいます。オンラインツールがずいぶん活用されるようになりましたが、それは人と人の直接対話を無用にするものでは決してありません。現在も続くオミクロン株の猛威による往来の制限のなか、私たちは、さまざまな工夫を重ねて世界との相互の再接続(reconnection)を試みてゆかねばなりません。本日、東京大学に入学したみなさんも、これからの大学院生活において、このコミュニティの新しいメンバーとして、自身の研究に邁進するとともに、国内外とつながり直す実践に積極的に加わってほしいと思います。

昨年、東京大学は、目指すべき理念や方向性をめぐる基本方針として、UTokyo Compassを作成しました。そのなかで、より良い未来を共有するためには、不公正や差別の理不尽、さまざまな社会的弱者の存在に対する鋭敏な感性をもち、課題と真摯に向きあう主体的な姿勢が必要であると述べています。その上で、未来を実現するプロセスにおいて「対話」を重視してゆくという方針を掲げました。対話とは、たんなる話し合いや情報の交換ではなく、知ろうとする実践です。知ろうとするからこそ、違いが見えてくるのです。そして違いがあり、多様であるところから始めるためには、相手の見ている世界を想像する能力を身につける必要があります。

たとえば、見ている世界の色そのものが違うこともあります。人間の目の網膜には3種類の錐体細胞があり、三色型の色覚をもっていますが、赤と緑に対応する光センサー遺伝子の多型により白人男性で約8%の色覚異常があらわれるといわれています。一方で、霊長類以外のほとんどの哺乳類が錐体細胞を二種類しかもたない二色型で、この視覚の変化が進化とも関わっていることが知られています。

ところで、二色型と三色型が混在する霊長類であるクモザルを使って、果実採食成功率(注:果物を採って食べる、その成功率のこと)の違いを調査した、おもしろい研究があります。本学の新領域創成科学研究科の河村正二(かわむら しょうじ)先生のグループの研究です。緑色の葉から赤系の果実は見分けやすいので、食べる果実もとりやすいだろうという単純な予想に反して、三色型色覚が果実採食において必ずしも有利ではないという結果が得られています。これは、熟れた果実を見分けるには、明るさのコントラストが最も利いているためであると考えられ、たとえばカモフラージュをする昆虫などの捕食には二色型の方がより有利であることも明らかになっています。識別に使われるのは、色合いや明るさのコントラストや輪郭への敏感さなど様々であり、また嗅覚など視覚以外の感覚も成功率に関与しそうであることがわかってきました。色覚の多型は、二色型、三色型に単純に分けられず、いくつかのタイプがあることが知られており、生物学的には、そうした多様なタイプの個体がいることは集団の生存にとってメリットでもあります。

話を人間社会に戻しましょう。集団のなかの多数派を「標準」とし、そこから外れている人は少数派とし、あるいは何かが欠けていると考えてしまう傾向が人間の社会にはあります。そういうとらえ方は、見えやすいものだけを見るという安易な理解であり、世界の見方を広げる機会を自ら閉ざしているともいえます。たとえば、看板や掲示板をつくるときに、ついつい見分けやすいといわれている配色で塗り分けると、少なからぬ少数派がそのために不便を感じるということがよく起こります。色を見分けにくい人びとのために彩度や明度を工夫する、もしくは色なしでも理解できるようにデザインし、その上で強調のために副次的に色を添えるようにしようというのが、その反省にたった近年の流れです。知識では知っていても、身近に実践していくのは難しいことです。知識が行動に結びつくためには、自分とは異なる属性の人が見ている世界を想像する能力が必要となるでしょう。

多数派を「標準」とすることで、それ以外の少数派の利益や権利が後回しになってしまうことは、社会にはたくさんあります。

2019年に、英国のジャーナリストのキャロライン・ペレス(Caroline Criado-Perez)によるInvisible Women: Exposing Data Bias in a World Designed for Menという本が出版されました。2021年に『存在しない女たち』というタイトルで日本語にも訳されています。

長い間、都市計画、交通システム、公衆衛生、政治参加、労働環境、製品開発など、多くの分野で女性に関するデータが著しく不足し、意思決定者はもちろん、設計プロセスを担当する人たちの大部分を、官民を問わず男性が歴史的に占めてきました。そのために、女性の意見やニーズを取り入れることなく、計画や開発が行われ、女性たちの生活や健康やキャリアに大きな被害が生じていることを指摘した本です。

担当者に男女差別等の悪意がなかったとしても、「気づかなかった」ことによって、少数派とされた決して少なくない人たちに不利益をもたらし、不具合を押しつけてしまうことがあるということです。たとえば、スマホのサイズです。画面の大きなものがどんどん開発されています。見やすくて男性の手にはちょうどよいかもしれませんが、女性には大きすぎて不都合なことがあるとも聞いています。また被験者が男性に偏ったデータをもとに開発された医薬品、平均的な男性をモデルにしたダミー人形だけを使っての車のシートベルト開発、さらには災害時の復興住宅にキッチンのない住宅を建ててしまったという事例までがあるとなると、苦笑では済まされなくなります。人は、そこに存在していない人びとの便宜や不都合には気づきにくく、不公正や違和感に思いがいたりにくいのです。

こうした無意識のバイアスをなくすにはどうすべきか。自分から声をあげることも大切です。意思決定の場に参加し、対話をすることが必要です。このとき他者の言葉や存在を受容しないと、対話にはなりません。そこでは、他者の声に耳をかたむけることの重要性が浮かびあがってきます。声の大きな多数派の都合だけが通りやすくなっていないかをチェックすることは、いろいろな属性の人が参加しやすい仕組みを作りあげていくうえでも、重要なことです。

残念なことですが、東京大学の構成員分布がダイバーシティに乏しいことは長年指摘されており、その改善が大きな課題となっています。この点については、まだまだ発展途上ではありますが、現状がどのようなことを見えにくくしているのか、大学院生としてキャンパスに集うなかで意識してみてください。見えやすいものに惑わされず、聞こえにくい声に耳を澄まし、自分の理想をあきらめず、他者の思いとふれあう対話の能力を身につけていくことが、将来、社会の中核を担うみなさんには強く求められています。

道はひとつではありません。用意された正解にどれだけ早くたどりつけるかを競っていた受験のための勉強とは異なる、問いや選択肢そのものを自分で創りあげることが、とりわけ大学院では求められます。ここで議論してきた、多数派と少数派という分け方自体が、社会の多様な立場や属性の人びとを単純な二項対立に落としこんでしまう危険性から自由ではないのだ、とも考えられます。

二項対立への単純化に陥らないためには、どうしたらよいでしょうか。たとえば、男性と女性という区分の理解をめぐって、古来、さまざまな試みがなされてきました。その一つが、文学作品を通して異なる性の立場を経験してみる実験です。かつて、英国の詩人コールリッジ(Coleridge)は「偉大なる精神は両性具有的でなければならない(A great mind must be androgynous)」と述べましたが、多くの文学者が、他の性からの視点を取り込む試みを繰り返してきました。

英国の作家ヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf)の作品に『オーランドー(Orlando)』という小説があります。青年貴族オーランドーは、三十歳で深い眠りに落ち、目が覚めると女性に生まれ変わります。興味深いのは、女性となった主人公が女性の衣装をまとうことで、自分の心よりも、周囲の対応や視線が一変する体験をする、その戸惑いや不安の描写です。オーランドーが360年も長生きをするという設定になっているのは、そうした変化で気づくことには表面的でない深い意味があり、長い時間をかけて理解し受け止めていく必要性が象徴されているとも言えます。

時間をかけて理解することの意義において、あらためて注目したいのが、「ネガティブ・ケイパビリティ(Negative capability)」です。これは英国の詩人キーツ(Keats)の言葉で、すぐには解決できない事柄を受けとめて向かいあい、不可解さや不確かさに耐えて取り組み続ける能力を意味します。帚木蓬生(ははきぎ ほうせい)は、著書『ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える能力』[朝日新聞出版、2017年]のなかで、ネガティブ・ケイパビリティのことを「性急に証明や理由を求めずに、不誠実さや不思議さ、懐疑のなかにいることができる能力」であると述べています。これは、短時間での解決や、即時の反応といったスピード感が求められる今日、あらためて注目すべき見方でしょう。

UTokyo Compassが重視する「対話」とは、ただ自分から話しかけることではありません。相手の声に耳を傾けなければなりません。それは、時に理解しがたいことがあっても切り捨てずに向かいあう態度であり、ある意味で「ネガティブ・ケイパビリティ」に通じます。そうした態度は、研究上の未知の課題に直面したときにも役立つでしょう。みなさんも、これからの研究や生活でなかなか答えが導き出せず、悩むこともあるはずです。そのような時には、友人や教員、あるいは未知の人びとの声に耳を傾ける事も必要になるでしょう。「ネガティブ・ケイパビリティ」の可能性を折に触れて思い出し、粘り強くいろいろな問題に取り組んでいただければと思います。

2月の終わりに突然起こった理不尽な軍事侵攻は、誰もが望んでいなかった破壊や悲劇、あたりまえの日常生活の喪失が広範に、また強引に引き起こされてしまう、世界秩序の脆さをあらわにしました。この状況は、日常的な対立がたかまって戦争にいたるのではなく、武力の行使という戦争状態こそが、互いの対立を強め、頑なものにする、さらには人びとの不幸や憎しみを増大させ、問題の解決をいちじるしく困難なものにしてしまうということを、私たちにあらためて思い起こさせました。だからこそ、被害の拡大を防ぐ観点からも早期の平和的解決が強く望まれる一方、学術の実践を通じて、非常時が強いるさまざまな不幸からの脱却に、いかに貢献できるかが、いま大学に問われているのです。厳しい対立状況のなかでも、本日述べてきた「相手の見ている世界を想像する能力」、そして「理解しがたいことがあっても切り捨てずに向かいあう態度」を大事にしつつ、対話や交流の実践が果たす役割をあらためて見つめ直すことが求められます。

東京大学は、いま困難のなかにある学生や家族や研究者や関係者のみなさんを支援するため、特別受け入れプログラムを開設しました。同時に「東京大学緊急人道支援基金」を立ち上げ、支援の輪を広げつつあります。
 こうした取り組みは、東京大学自身もまた「世界に開かれ、自由な知的探求の空間を構築する」という、その使命を果たすために、未知の人びとの声に耳を傾け、粘り強く取り組んでいく、その第一歩であることに他なりません。

ご存知の通り、近年、日本の研究基盤が弱くなっているのではないかと懸念されています。国の財政難に伴い、若手研究者の安定的ポストが不足していると言われており、大学院博士課程への進学率も2000年に17%だったのが、2018年には9%にまで減少しています。しかし、これからの社会に、若い研究者の柔軟な発想による新たな科学技術の推進は不可欠です。本学としても、大学院生のみなさんへの支援を充実させてゆかなければならないと考えています。 その一つが、昨年度から始まった高度人材育成プログラムであるSPRING GXです。これは、社会全体でGX実現に向けて活躍する人材を、あらゆる分野に規模感をもって輩出することを目的としたプロジェクトです。東京大学はGXをより広く捉え「社会の変革」と位置づけることで、理工系に限らず全学の大学院生を対象とし、毎年600名に人材育成プログラムの提供および経済的支援を行います。こうした制度を活用して研究に没頭する時間を確保していただければと思います。気候変動や生物多様性、貧困の問題など人類に共通する地球規模の課題解決には、各々の専門知だけでなく、分野を横断するような広い視野からの探究も必要です。みなさんがこれから行う研究においても、ぜひグローバルシチズン(地球市民)の一員としての視点を忘れないでいてください。

大学院入学まことにおめでとうございます。みなさんのこれからの活躍を期待しています。

令和4年4月12日
東京大学総長  藤井 輝夫

関連リンク

カテゴリナビ
アクセス・キャンパスマップ
閉じる
柏キャンパス
閉じる
本郷キャンパス
閉じる
駒場キャンパス
閉じる