東アジアの研究者だからこそ正せた 「イスラーム写本絵画」への先入観
異国を訪れた際、言葉などわからずとも、目で見た現地のものを通してその国に対する興味がグッとかき立てられることがあります。人々の顔立ちや服装、建物や街並み、見慣れぬ食べ物……。現地で昔から息づいてきた美術作品もその一つでしょう。
東洋文化研究所の桝屋友子教授が研究しているのは、イスラーム美術、つまり、イスラームが主要な宗教であるエリアで育まれた美術の歴史。時代的にも地域的にも非常に広い分野ですが、桝屋教授が特に力を入れてきたジャンルの一つは、写本絵画です。
写本とは手書きで内容を写した本のことで、写本絵画とはその写本を飾る彩飾や挿絵のこと。イスラーム社会で最も重要なクルアーン(コーラン)の写本に始まり、科学書、文学書、歴史書などへと広がる写本絵画の文化は、アラビア半島から西へ地中海沿岸にまたがるアラビア語圏と、イランを中心とするペルシア語圏とで、それぞれ発展を見せました。
目で見える情報を研究者として検証
従来、ヨーロッパのイスラーム美術研究者の間では、この写本絵画の歴史において重要な転換点があったことが指摘されてきました。13世紀に大モンゴル帝国が西アジアまで領土を広げたのを機に、イル・ハーン朝(1258-1353)以降の写本絵画、特にペルシア語圏の写本絵画に直接、中国の影響が認められるようになった、というのです。
確かに、写本絵画を見ると渦巻き入りの雲や龍といったいかにも中国らしいアイテムが確認でき、その指摘はもっともなように思えます。(図1)しかし、東アジア出身の美術史家にとっては直接のものだとは感じられませんでした。
「絵を見て、中国っぽくないと感じたんです。山水画を見ればわかりますが、中国の画家は何世代にもわたって高度な絵画伝統を作り上げてきました。しかし、これらはそれと全く次元の異なる表現だと思いました」
東アジア美術に基づいた印象を機に、美術史家としての検証がそこから始まりました。取り組んだのは、『歴史集成』という写本絵画。ラシード・アッ=ディーンという14世紀初頭の政治家がまとめた歴史書です。桝屋教授がこの本の中国古代史を扱った部分をつぶさに調べていくと、新しい発見が次々に出てきました(図2)。
女帝の肖像画にヒゲ
「たとえば、表情や衣紋の描き方が同時代の中国の絵とは明らかに違い、人物の白目部分に中国の絵画では用いない銀が使われていました。皇帝が下位の者用の帽子をかぶっていたり、夭折したはずの王が大人として描かれていたり……。則天武后のはずの肖像にヒゲが生えていたのには驚きましたね」
桝屋教授は、一連の分析をもとに、これらの写本絵画は、中国のことをよく知らない中国人以外の、しかもアラビア文字の読めない画家が描いたものだと結論づけ、2014年2月に著書『イスラームの写本絵画』(名古屋大学出版会)で発表。東アジア以外の研究者だと見逃してもおかしくない部分に気づけたことが、大きな成果を生みました。日本人であり、中国の歴史、そして美術そのものに通じていたからこそ導けた新説だと言えるでしょう。(図3)
次なる未踏の地の開拓
ただ、この新説への反応はまだ小さい、と桝屋教授は言います。
「いつもと違い、今回は日本語で発表したので、英語ではまだ研究成果を発表できていません。世界中でもこの分野の研究者はそう多くありませんが、国内だと本当に数が限られていて……」
研究者が少ないことは、未踏の地が多いことを意味します。イスラーム美術では不明な部分がまだまだ多く、新発見のチャンスが残されています。それだけやりがいがある分野なのです。
10年ぶりにやっと2番目の弟子が育ちつつある、と頬を緩める桝屋教授。いま彼女と共に取り組んでいるのは、エジプトの古都フスタートから出土した陶片約390点の体系化です(図4)。明治・大正期の洋画家児島虎次郎が集めた、奇跡のコレクションとも呼ばれる大原美術館(岡山県倉敷市)所蔵の逸物。「言語に頼らず、目から一瞬で直接文化を伝える力が美術にはある」と確信する教授と後継者たちが、日本からイスラーム美術の美を発信し、東西の文化を架橋する日は、そう遠くない未来に訪れそうです。
取材・文:高井次郎
取材協力
桝屋友子教授
東洋文化研究所