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Feature Stories
田中館教授の協力で初飛行したル・プリウールのグライダー© 村岡正明氏 提供
田中館教授の協力で初飛行したル・プリウールのグライダー
© 村岡正明氏 提供

日本の知、空を翔(かけ)る

東京大学が拓く航空宇宙工学

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工学系研究科・工学部
2012/08/15

1909年12月5日の朝、第一高等学校グラウンド(現東大農学部グラウンド)に、竹の骨組みに白布を張り、鉄線を巡らせたグライダーが運び込まれました。これに綱を結び、大勢の学生が全速力で引っ張ります。すると機体はスーッと浮き上がり、高度3.6mで15mほど滑空し、フワッと着地しました。乗っていたのは、男の子です。「これが非公式ながら、日本でのグライダーの初飛行だと思います。ここから本格的な航空研究が始まったのです」と、東大大学院工学系研究科航空宇宙工学専攻の鈴木真二教授。

東京帝大附属航空研究所創設に貢献した田中館教授。田中舘愛橘会 提供

東京帝大附属航空研究所創設に貢献した田中館教授。
田中舘愛橘会 提供

開発したのは、仏国大使館附武官のル・プリウールと海軍大尉の相原四郎、そして東京帝国大学理科大学(現東大理学部)教授の田中館愛橘。ル・プリウールは、仏のパンフレットに載っていた図面に基づきグライダーを製作しましたが飛ぶことができず、知人の相原が、田中館に紹介したのです。以後3人で協力して開発を進めてきました。当初は車で引っ張る予定でしたが、故障して来られなくなったため、体重の軽い子供を載せ、人力で引っ張ってみたのです。12月9日には不忍池の沿道で、車で引っ張る試験が行われ、ル・プリウールが飛び、公式初飛行となりました。

「このグライダーは、世界的にみても非常に進んでおり、エンジンとプロペラを付ければ、動力飛行ができるくらいまでいっていた」と鈴木教授。しかし、翌年6月にル・プリウールが帰国の途につき、3人のグライダーに動力を積む機会は失われてしまいました。

日本で初めて動力飛行に成功したのは、陸軍大尉日野熊蔵と徳川好敏です。両者は1910年4月に仏国に派遣され、飛行機学校で学びました。その後、飛行機を購入して帰国し、同年12月19日に独機と仏機で成功させました。

その頃、東京帝国大学造兵科の出身で元海軍技師の奈良原三次は、自力で機体を製作し、1911年5月5日に仏製エンジンを載せ飛行に成功しました。ライト兄弟の動力初飛行が1903年12月17日ですから、遅れることわずか7年半で国産機が飛んだことになります。

田中館、航空研究所をつくる

田中館はもともと地磁気や地震の研究者でした。1907年8月にパリの国際度量衡総会に出席して飛行船を目の当たりにし、英国の研究者から航空力学の本を寄贈されたことが、航空研究を始めるきっかけとなりました。

帰国後、早速に日本で初めての風洞をつくりました。長持ち(着物などを入れる蓋付きの木箱)の一端から他端へ空気を送り込めるようにし、側面に付けたガラス窓から、中に吊るした模型の様子を観測できるようになっていました。グライダー製作でも、風洞実験が行われたのでしょう。

1938年に周回航空距離の世界記録を達成した航研機。喜多川秀男氏 撮影。所沢航空発祥記念館 所蔵

1938年に周回航空距離の世界記録を達成した航研機。
喜多川秀男氏 撮影。
所沢航空発祥記念館 所蔵

田中館は航空研究には基礎が重要だと痛感していました。そこで1918年に東京帝大附属の航空研究所をつくり、工学部造船学科内に航空の講座を設けました。講座は1920年に航空学科へと発展しましたが、世界的にも早い設置で、例えば、マサチューセッツ工科大学でも、学部に航空学科が設立されたのは1926年のことです。

航空研究所はすぐに日本の航空研究のメッカとなりました。その金字塔は「航研機」(航空研究所試作長距離機の略称)の開発です。独製エンジンを改造し、国産の機体に搭載した航研機は、1938年5月13日から62時間以上も関東上空を飛び続け、周回航空距離10651.01kmの世界記録を打ち立てました。これは現在に至るまで、日本唯一の国際航空連盟公式認定の記録です。

海外技術の導入から始まった航空機産業も、30年代に入ると独自開発が本格化し、航研機はその象徴でもありました。航空学科の卒業生はこれらの開発を担い、日本の航空産業の屋台骨を支えました。ゼロ戦の設計・開発で有名な堀越二郎もその一人です。「航空界の将来を見据えて研究教育体制をつくった田中館は、日本航空界の父といえるでしょう」と鈴木教授は強調します。

7年の空白を経た日本の空模様

世界のトップレベルに並んだ日本の航空界は、1945年8月の敗戦によって、GHQ(連合国総司令部)からすべての航空活動が禁止され、航空学科も廃止となりました。7年後の1952年にサンフランシスコ講和条約が発効されると、禁止が解除されるようになり、1954年には東大の航空学科も再開されました。そして再開の象徴として国産民間旅客機開発が始まったのです。

1957年に第2駒場キャンパス内に(財)輸送機設計研究協会が設立され、基礎設計が始まりました。そして1959年に設立された特殊法人の日本航空機製造により、60人乗りで1200mの短滑走路も使えるプロペラ旅客機「YS-11」の開発・製造が進められました。これには本学航空学科の戦前・戦後の卒業生が多数携わりました。1962年に初飛行を行ったYS-11は徐々に名声を上げ、1973年の製造終了時までに182機生産され、世界12か国に輸出されました。

ペンシルロケット(東京大学工学部1号館前広場に展示)

ペンシルロケット(東京大学工学部1号館前広場に展示)

戦後は宇宙開発の幕開けでもありました。戦時中に一式戦闘機「隼」の設計にも関与した、本学生産技術研究所教授の糸川英夫は、1955年3月にペンシルロケットの最初の発射実験を行いました。長さ20cm余のロケットで、当初は水平に発射されていましたが、その後、上方に打ち上げられるようになりました。

予算の制約から小さな固体燃料(火薬)ロケットの開発から始め、これを徐々に大きくして実用化しようというのが糸川の計画でした。その目論見通りに開発は進み、1964年には宇宙航空研究所が本学に設立され、1970年2月にはラムダロケットが日本初の人工衛星「おおすみ」を打ち上げました。その後、1981年には全国大学の共同利用機関として宇宙科学研究所へ、2003年にはJAXA宇宙科学研究本部へと組織が変わり、 糸川教授の成果が引き継がれています。現在、東大ではJAXAにより設置された社会連携講座によりロケットエンジンシミュレーション技術の高度化に関する教育・研究が行われています。

21世紀の航空ビジネスをつくる

日本初のジェット旅客機となるMRJ(三菱リージョナルジェット)。三菱航空機(株)提供

日本初のジェット旅客機となるMRJ(三菱リージョナルジェット)。
三菱航空機(株)提供

話を航空機に戻すと、ビジネス面での成功が難しかったYS-11の経験から、政府の方針が変わり、民間航空機は欧米の航空機会社との共同開発が主眼となりました。日本企業は1970年代以降、米国ボーイング社の767、777の共同開発に参加し、分担を15%、20%と上げてきました。そして2000年代の787では、35%とボーイング社と同じ担当割合になりました。しかも、同社が手放したことのない主翼が含まれており、炭素繊維複合材料での開発製造が進められています。

2008年、YS-11以来半世紀ぶりに国産旅客機「三菱リージョナルジェット(MRJ)」の事業化が決定されました。三菱重工株式会社が主要出資者である三菱航空機株式会社が開発の主体で、70、90席の2クラスの機体開発が目指されています。優れた運航経済性、客室快適性、環境適合性などの利点があり、すでに日本、米国、香港のエアラインとリース会社からオプション、基本合意を含め230機の発注があります。

「現代航空論-技術から産業・政策まで」東京大学出版会

航空機製造では、設計、製造、販売、そして整備・修理・大規模修理というアフターサービスまでカバーせねばなりません。しかし、YS-11から半世紀近くたち、民間機製造に関する制度やビジネスモデルをつくり直す必要があります。また、航空輸送に関しても世界情勢は大きく変化しています。そこで三菱重工によって2009年に『航空イノベーション総括寄付講座』が本学に設けられ、航空の新世代を拓くための研究と教育が始まりました。

講座を担当する鈴木教授たちは、『現代航空論』という教科書を最近上梓しています。「航空技術はもちろん、政策から航空機製造産業の特質までを扱っており、世界にも類を見ない画期的な教科書だと自負しています」。

このような講座から巣立つ若者は、世界の空をどのように変えていくのでしょうか。

参考文献

村岡正明著『航空事始』(光人社NF文庫)
前間孝則著『飛翔への挑戦』(新潮社)

取材協力

鈴木真二教授

鈴木真二教授
東京大学大学院工学系研究科
航空宇宙工学専攻
航空宇宙システム学講座

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