3つの心を持つ日本のシェイクスピアリアン 研究者、翻訳家、劇作家の顔をもつ教授
没後400周年を機に、あらためて熱い視線が注がれているウィリアム・シェイクスピア(図1)。演劇でも映画でもテレビでも書籍でも、関連のコンテンツが続々登場しています。ただ、名前は知っているけれど舞台に足を運ぶ機会はなくて……という人もとりわけ日本には多いのではないでしょうか。
今回スポットをあてるのは、イギリスから遠く離れた日本においてシェイクスピア研究を牽引してきた総合文化研究科の河合祥一郎教授です。その大きな特色は、ただの研究者ではないこと。研究者の顔のほかに、翻訳者、そして劇作家の顔も併せ持っているのです。
芝居の上演を意識した翻訳
「一般的な研究者は机に向かうのが仕事ですが、私の場合はまず芝居の上演という目的があり、そのために翻訳と研究がある、という感覚です。過去にどういう上演があり、どういう翻訳があり、どういう研究があったのかを長いレンジで捉え、それを演劇の現場に反映する。現場で得た知見は次の研究と翻訳にフィードバックしていく。その繰り返しです」。
翻訳家・劇作家としての教授にとって、原語のリズムは見逃せません。シェイクスピア作品では韻を踏む表現(押韻表現)が頻出しますが、意味に重心が置かれた従来の日本語訳ではあまり反映されてきませんでした。学生時代に通訳の手伝いで通った富山県利賀村の稽古場で女優・白石加代子さんの演技に衝撃を受けて以来、役者が魂から台詞を発するのに接してきた教授は、台詞の意味内容のみならず表現形式も重要と考え、近年の翻訳では原文の押韻表現の全てを訳出しています。
「大変な作業で、ひと晩考えてもうまい訳が出てこないこともあります。しかし、これはやはり研究と翻訳と上演という3方向からシェイクスピアに接してきた私がやるべき任務。そう覚悟を決めています」(図2)。
シェイクスピア研究の集大成
いわば三位一体の活動の成果を、教授はこのほど一般向け書籍(『シェイクスピア 人生劇場の達人』中公新書・2016年)にまとめました。そこで詳らかにした事実の一つが、時空を操る「シェイクスピア・マジック」は、日本の狂言と相通じること。舞台装置をつくりこむ近代演劇と異なり、シェイクスピア劇では役者がいるだけで、緞帳もなし。全ては観客の想像力に任されます。
「「ヘンリー5世」の冒頭に「役者が馬と言ったら馬があると思ってください」という台詞があります。これはまさに、役者が舞台を一周し、「何かといううちはや都じゃ」という狂言の世界と同じです。一言言葉にするだけで、時間は飛ぶし、場所も飛ぶ。役者と客が空間を共有するのが演劇の本質だという考え方が息づいているわけです」。
Myriad-minded Shakespeare(万の心を持つ~)という言葉があるように作家本人の正体がつかみにくいのは、エリザベス朝ではカトリックとプロテスタントの宗教対立が強かったためではないか、正義を目指す人間が「あれかこれか」に苦しむのが悲劇であり、多様な人々が「あれもこれも」と違いを認めて終わるのが喜劇ではないか、「心の眼」で見た真実を映し出すのが鏡であり、現実においてその鏡として機能するのが演劇ではないか……と、示唆に富む論考は他にも目白押し。高校2年のときにラジオ「百万人の英語」で初めて意識して以来、40年に亘って取り組んできた成果を、エッセイではなくあくまで研究紹介という形で凝縮した一冊です。
シェイクスピア研究の古今東西
どう解釈するかが主だった昔とは違い、現代のシェイクスピア研究の流れは、世界各国でどのようにシェイクスピアが受容されているかに移っています。教授の仕事もこの流れを汲むもの。
さて。我々は、没後400年のいまこそシェイクスピア作品に踏み込むべきか、それともやりすごすべきか。教授とこの本を知ってしまったあなたにとって、それはもはや問題ではありません。……などと力んで書きたくなるのが人情ですが、シェイクスピア劇場の達人たる教授は、きっと“As you like it”と笑うでしょう。
取材・文:高井次郎
*冒頭の写真は彩の国シェイクスピア・シリーズ第13弾『タイタス・アンドロニカス』上演の一場面です。
(写真提供:彩の国さいたま芸術劇場、写真家:高嶋ちぐさ)