東京大学創立130周年記念式典

 

『私と東大』

 大学時代、つまり東京大学に関して10分間の予定で話をしろというのが与えられた課題でございます。ところが、江崎先生と私、同じように物理をやっていたんですが、経歴を見てみるとずいぶん違うんですね。江崎先生、私よりたった1年半、年上なんですけれど、学年からいうとずっと早くいっちゃうんです。その理由は、皆さんご存じですから、ここでは理由は言いません(笑)。
  大学を出まして、大学院に入って、それでアメリカへ留学して学位をとるということになるんですが、実は私が旧制の高等学校に入ったのが戦争の終わる半年前なんです。その後、戦争が8月に終わって、高等学校3年間終わって、それから東大の物理学科を受けて入りました。なぜ物理学科を受けたかというのは、これもまたここでは申し上げませんけれども、物理を特にやりたかったわけではないんです。
  ただ、その頃はほとんど全部の日本人が食うや食わずであえいでおりましてね。学生も、ほとんど全部の学生が学費を稼ぐというよりも、食べ物を稼ぐために、毎日のように家庭教師とか何とかしなきゃならん、そういう時代でございました。 
  ですから、ほかの人のことはわかりませんけれども、とにかく私の場合、高等学校時代も、大学時代も、教室に出ることは1週間のうちに1日か1日半くらいで、あとは稼いでいたというのが実情でございます。
  そういうわけで、私、学生としてここの大学に所属したんですけれども、学生時代の思い出は、「辛かった」とか、そんなことしか残っていないんです。しかし、ご縁があって、私、その後、ここの大学の理学部物理学科の助教授に採用されまして、それから何十年の間、そこで学生を持って、育てていった。これはいろいろな意味で、私にとっていい経験だったと思います。

 先ほどの経歴の紹介の時にもありましたけれども、ノーベル賞をもらう1年近く前に、2002年の3月、ちょうどこの会場で、理工系の学生の卒業式で、卒業生に対して話をしろと言われました。この大学の卒業生は人数が多いですから、卒業式も理科系と文科系とに分けてやるんですね。何をしゃべろうかなと思って苦心したんですけど、「いつも東京大学の学生について感じていることをはっきり言ったほうがいいだろう」と思いました。
  私はそのとき恥を忍んで、自分の理学部物理学科の卒業成績の写しをスライドに用意してきました。
  「今日、卒業するあなた方、半分の人は卒業成績が半分以上の成績だ(笑)。残りの半分は半分以下の成績だ(笑)。もう勝負は決まったと思っている人が大部分かもしれないけれども、実はそんなことでは人生の勝負は決まるものではないんですよ。私はここに自分の卒業の時の成績を皆さんに見せるけれども、見てもわかるように、これはどん底に近い成績だ。じゃ、どん底に近い成績の人間は将来の見込みが何もないのかというと、決してそんなことはないんだよ。それはこういうことなんだ。私がこの大学に就職して、助教授として働き始めて、すぐ感じたこと……それ以前からも感じていたんだけれども、強く感じたのは『ここの学生は学校の成績のことばっかり、頭に詰まっている。どうやって卒業成績、あるいは学年末の成績で良い点をとって、順位を上にするかということばっかり気にしている』ということだ。たしかに、筆記試験で良い点をとってそれで上の順位にいくことは大事なことには違いないんだけれども、それだけで人間の能力が測れると思ったら、間違いだよ。そういう能力は、『全部、教室で先生の言うことをよく聞いて、理解し、記憶して、それを答案に書く能力』、要するに受け身の認識能力だろう。受け身の認識能力だけでは、人生で自分の仕事はできないし、研究もできないよ。それとは別に能動的な能力、これをどうやって伸ばすか。人間の総合的な能力は、最初に言った、受動的な、要するに筆記試験でわかるような能力と、能動的に自分がこれをやろう、こういうふうにやろう、そういう能動的な能力、それの掛け算で決まるんじゃないかと思うよ。だから、どっちがゼロになっても、仕事は達成できないよ」。
  そのような話をしたんですね。

 学生が成績ばかり気にしている、そのような状況に対して、ある時、私は二つの試みをやりました。
物理学科というのは、駒場の教養で非常にいい成績をとった連中が来る学科なんです。その連中も、やはり今言ったように成績のことばっかり頭にある。私は「何とかしなきゃいけない」と思って、物理教室の教室会議というのにかけまして、「駒場から来た3年生の中で、希望者があれば、ある程度の装置を貸してやるから夏休みに自分で設計した実験をやって自分で解析して結果を出しなさい。それは一切、点とか単位には一切関係しないよ。だけど、やりたかったらやらせてあげよう」という試みを始めたんです。そうしたら、おもしろいことに、点取り虫ばっかりだと思った物理学科の新しい学生の中から、「私、やりたい、やりたい」という人がけっこう出てきましてね。『夏休み希望実験』と言うんですが、それからもずっと続いて、今でも、単位とか点に全然関係のない実験に一生懸命になる学生がけっこう出ています。これは、良かったことだと思うんですね。
  もう一つ、物理学科の会議に「大学院の入学試験で、筆記試験だけを重点に置いて合格を判定するのを少し考え直そうではありませんか」と提案しました。「やる気がどのくらいあるかというのを判定するようなことをもっと取り入れましょうよ」と言いまして、筆記試験だけでなく、面接試験に重点を置いたやり方に変えたんですね。
  その次の年、大学院を受験した、ある学生は、筆記試験では点が下で入れないはずでしたが、面接点がグーンと良かったんですね。だから、そいつは大学院に入学できたわけだ。彼は私の研究室に来たんですけど、それが何年か後に良い仕事をしましてね。やはり東京大学の特別栄誉教授というものになっています(笑)。ですから、筆記試験だけで人間を判断するというのは、やはり抜けているところがあると思うんです。 
  私自身、点が悪かったら、そういうことばかり言って、自分を弁護しているようにも聞こえるかもしれませんけどね(笑)。やはり、人間、実社会に出ても「やる気があるかないか」というのが非常に大事なファクターになると思うんです。私は「自分のところに毎年来る大学院学生一人ひとりに『自分がやりたい』と感じるようなテーマをどうやって渡してやるか」ということが先生として一番大事なことだと思っていました。ですから、私は何かを教え込もうとか、何とかというより、「おまえのやりたいことはこういうことじゃないのか。これじゃないのか」ということばかり気にしておりました。
  少し早いかもしれませんが、ここで一応、お話の終りとさせていただきます。(拍手)

『東大と関わって良かったこと』

 良かったことと言えば、この大学にはいい先生が何人かおられたことですよ。コセコセしていない良い先生がね。たとえば、私は物理学科を卒業して「大学院にでも行くか」と考えたわけですが、その当時、大学院の入学試験があったら私は入れなかったと思います。でも、その頃はのんびりしたもので、人の良さそうな先生を捕まえて、「先生の研究室に入れてくれませんか」と頼んだら「ああ、いいよ」と答えてくれました。それで入れたんです(笑)。もっと具体的に言うと、大学院にいた山内恭彦さんは、実を言いますと、高等学校の大先輩でしたから、「先輩、頼みますよ」といって入れてもらって、それで大学院に入れたんです。成績、成績とガチガチ言わないところがまだあった、というのは私にとっていい大学だったなと思います(笑)。

『困難にどう立ち向かい、どう克服したか』

 それでは、困難だったなと思うことを一つだけしゃべらせてもらいます。それはカミオカンデという実験を始めた最初の頃です。今から約40年ちょっと前に、理論でノーベル賞をもらった米国の学者が新しい理論を発表したんです。ところが、「理論でノーベル賞をもらった先生だから、次の理論も正しい」と思い込んではいけないんですよ。
  その新しい理論と言うのは、従来、「無限に寿命があって、いつまでたっても安定していて、パッと消えることなどないと信じられていた原子が、ある寿命でパッと消えてなくなる」という理論なんです。本当かいな、というわけで、世界中の実験学者がそれを見つけようとした実験を計画しました。実は、当初、カミオカンデもそれを探そうということで考えられた実験なんです。
  その理論が本当だとすれば、それを一番安く、正確に捕まえる方法は、地下深い所に水を貯めて、その水の中の水素原子がパッと消えてなくなる時の光を観測すれば良いと考えました。それを文部省(現・文部科学省)に話して、予算がついたんですね。穴の掘り広げ賃も含めて4億何千万円かついた。やれやれと思ったら、ニュースで聞こえてきて、アメリカで私の尊敬する、私よりずっと年上のライナース(Reines)という研究者が、ニュートリノを初めて発見してノーベル賞をもらった人なんですが、そのライナースが中心になって、まったく同じやり方の装置の建設を始めているというわけですよ。聞いてみたら、向こうのほうが予算を10倍持っていて、蓄える水の量も6倍くらいなんです。
  もし、そのままやっていたら、図体のでかいアメリカの実験が「見つかった、見つかった」と5つくらい見つけた後で、日本のカミオカンデが「うちでも一つ見つかりました」となるだろう、と(笑)。「こんな情けない、二流の後追い実験をやるために、国民の血税を使っていいのか」と私は悩みました。ものすごく悩んで、悩んで、どうしたらいいだろうかと眠られないくらい悩みました。
  その段階で文部省に行って、「アメリカがこういう計画をやっているから、うちにも10倍の研究費を出してくれ」と言ったって通るはずがないんです。「与えられた予算で、どうやって図体のでかいアメリカの実験と競争して勝つか」をさんざん考えたあげく、結局たどり着いた結論は、「一つひとつの球の、光に対する感度を桁違いに大きくする方法はないか」ということでした。金が増やせないんだから、使う球の数は増やせませんから。しかし、そんな方法は、その時点で世界の市場にないですから、まったく新しい大きな球を開発するよりしようがなかったわけですね。
  そこで、付き合いのあったある会社の社長さんを大学へ呼んで、3時間以上かかって口説きに口説きました。「どうしても必要なんだから、あなたの会社とうちの研究室が共同で開発しよう」とね。それで1年以内にでき上がったのが、こんなでかい、光を使わない球なんです(光電子増倍管)。大学の中にもところどころに展示してありますから、ついでがあったら、ごらんになってください。あの球の開発に成功したから、日本のニュートリノ物理学というのは成功を収められたんです。それが、私が「困ったな」といって、一番、頭を悩ましたことでした。

『東京大学に期待すること』

 せっかく国立大学というステータスをやめて独立行政法人になったんですから、やはりこれまでできなかった「世界に対して大学を開く」ということを本気になって考えてほしいですね。たとえば、従来は法律上できませんでしたが、日本国籍でない優秀な人を教授にとるとか。それから、英語という言葉が世界で通用する度合いは日本語に比べたら桁違いに大きいわけで、これは事実として受け止めなければならない。アジアのインド、中国、インドネシアなどの優秀な学生がこの大学に集まって来るように、英語の講義をどんどん増やしてほしい。これからの東京大学に望みたいことです。