平成17年度入学式(大学院)総長式辞

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式辞・告辞集 平成17年度入学式(大学院)総長式辞

式辞

国立大学法人東京大学総長 小宮山 宏
平成17年(2005年)4月5日

 

 東京大学大学院に入学された皆さん、修士課程から博士課程に進学された皆さんに、東京大学を代表して心からお祝いを申し上げます。皆さんの中には、東京大学を卒業された方も他の大学を卒業された方もおられますし、外国から来られた方、あるいは社会人の経験をお持ちの方、さまざまな経歴の方もおられます。そうした多種多様な経歴をお持ちの皆さんをこうしてお迎えできますことを心から喜んでおります。
  本日、皆さんを歓迎する私の式辞は、二つの要素からなっています。ひとつは、大学院で研究し勉強する環境としての知の現状について、第二は、大学の役割と責任の果たし方についてです。 皆さんは、ユーレカという名前のついた図書館やセミナー室が、世界の各地にあるのをご存じでしょうか。ギリシャの時代に、アルキメデスが金の王冠の純度を量る方法、それをお風呂の中で突然考えついて、ユーレカと叫んで裸で飛び出したという故事に基づくものです。ユーレカは分かったという意味です。「分かった」には、授業中に何か今まで分からなかったことを先生から聞いて、「なるほどそうか分かったぞ」という場合や、人の話を聞いて話の脈絡が分かったなど、さまざまな意味があるでしょうが、アルキメデスのユーレカはそういうことではありません。長い間考えたけれども、どうしても分からなかった、あいまいだった、そういうことが明確に分かることです。自分が分かったということが、自分自身にはっきり分かるのです。皆さんは、そうした瞬間、そういう経験をすでにきっとお持ちでしょう。それが貴重ですね。だれが何と言おうとも、自分は分かった、その実感が自信となり、やがて人として、研究者としての自立につながるのだと思います。
  分かったというのは、一種の快感だと思います。私自身にとってそれは現在でも生き甲斐のひとつですし、友人の多くもそのように考えています。アルキメデスのユーレカがそうであったように、分かったという至福の瞬間は、多くの場合、苦しい思いの後に前触れもなく突然訪れるのが一般的です。それは、深く深く考えた人にだけ訪れるご褒美のようなものでしょう。皆さんは、多くの学問領域の中から、たったひとつの領域を選択しました。ひとたび選択した以上は、そのことにためらいをもってはいけません。潔く、その領域に深く沈潜してください。それが、分かったという貴重な経験をするための、おそらく唯一の方法であろうと、私はそう考えております。
  さて、大学に対する社会からの要請は極めて多岐にわたります。教育と研究は大学の本務ですから、当然でしょう。ところが最近は、産業に貢献しているか、ベンチャー企業を輩出しているか、地域振興の核となっているかといった、さまざまな要請が加わり、それらを社会貢献という言葉でくくり、大学の責任は、教育と研究と社会貢献であると言われるようになっております。しかし考えてみれば、教育も研究もそれ自身が社会における大学の貢献ですから、社会貢献を教育研究と併置することに、私はいささか違和感を覚えます。このことについて少し考えてみましょう。
  大学の存在意義は、これまでも陰に陽に常に問われ続けてきております。東京大学はまもまく一三○周年を迎えますが、その間、何度かの戦争や、高度経済成長といった、その時々の歴史的、経済的な状況に応じて、大学はさまざまな要請に曝されて参りました。それが現在は、国際的な経済競争力の問題、高齢化や少子化、過疎化といった問題、環境やエネルギーの問題など、日本の社会が抱える困難を克服するために大学も貢献せよという形をとっているのです。しかしそれに対する私たちの答えは、教育と研究を通じて貢献するということです。つまり、皆さんに立派な人材になって頂き、教職員とともに素晴らしい研究成果をあげて頂くことが大学の本分なのです。したがって社会貢献とはもっと直接的に社会と関われということを意味するわけです。この事態を、私達はどのように受け止めたらよいのでしょうか。
  私には、現在の知の状況に関する本質的な問題が、背景として存在しているように思えます。それは、学術と社会の距離が拡がったということです。その原因の一つは、学問領域の細分化という点です。学会の数は、学術会議に登録されているものだけでも九○○をゆうに越えます。これらは主要な学会のみであって、その他小さな学会がいくつあるのか、見当もつきません。このおびただしい学会の数は、学術の細分化を反映しています。 科学というのは細分化する傾向を本質的に有しているのです。たとえば、ニュートンは運動の法則を発見しましたが、彼はさまざまな運動の中で、考察する領域を、質量で表現できる物質の運動という形に区切ったことで運動の法則を発見しました。メンデレーフの場合は、物質の中で、生物体はもちろんのこと、混合物や化合物なども除外し、あくまでも元素に領域を絞ったことが、周期律の発見につながりました。このように、科学は対象領域を明確に区切ることで発展を遂げてきましたから、科学の高度化というのは必然的に領域の細分化を伴ってきたのです。
  新しい知識の多くは、こうした細分化した学問分野で生まれます。研究の先端分野では、精魂傾けて、いわば錐で堅い岩に穴を穿つようにして、新しい知識が産み出されています。一方で社会は、たとえば、環境問題といった包括的な問題への答えを求めたり、あるいは、逆に極めて特殊な生産活動における限定的な知識を求めたりします。したがって、社会の要請が学会から発せられる学術論文だけで満たされる可能性というのは、極めて低いものと考えざるを得ないでしょう。空に向かって投げ上げた針が、岩に錐で穿った穴の中にたまたま収まるといったほどの可能性になってしまっているのです。つまり、これまで大学が伝統的に行ってきた知の発信方法は論文の発表という形でしたが、もはやその形だけで、一般社会に大学総体としての存在理由を確認して欲しいと要求しても無理な状況にあります。大学の研究成果が役に立たないといった声もときに耳にするのですが、研究内容が十分に把握されていないという方が実情に近いのです。 実は、大学の内部においても、他人の研究を理解できにくいという状況が生じております。理解できないというのは細部の問題ではありません。細部を理解できないのは、昔からおなじで専門が違えば仕方ありません。そうではなく、どういう問題を取り扱っており、何を明らかにしようとしているのかといった本質が理解できないのです。
  昔も同じだったのかというとそうではありません。二十世紀には、研究と社会との関係はもっと直接的でした。たとえば、ペニシリンの発見は傷の化膿から人を守り、製薬業を一新させましたし、アンモニアの合成法の発明は肥料産業を創成し、食料の増産を可能にしました。二十世紀以前には、研究成果が人の生活と産業に直結しやすかったのです。現在の先端研究の多くはそうではありません。例えば、工学という私自身の研究分野を考えてみても、ひとつの研究成果が、それだけで経済価値を生むというよりはむしろ、他の多くの科学技術と一体となって、初めて産業に寄与する、そういった性質の研究成果が多くなっております。それが細分化した学術と複雑化した社会との関係の実体なのです。
  基礎的な学術分野ではどうでしょうか。今年の一月、木星の衛星であるタイタンに探査衛星が到達しました。地球からタイタンへのロケットの運航は、リンゴが落ちるという現象と同じ、ニュートンの運動の法則で支配されております。本日御出席の皆さんの中でも、ニュートンの運動の法則に関する理解の深さは人それぞれでしょうが、ロケットとリンゴの運動が同じニュートンの法則で支配されていると言う私の言葉を信じるとすれば、まあそんなものかなと直感できるでしょう。しかし、小柴先生がノーベル賞を受賞されたことで耳にするようになったニュートリノと、物質の根源との関係、これは私には直感できません。
  学術と直感、学術と生活、学術と産業、つまり学術と人との距離が遠くなっているのだと私は思います。この状況は、大学が説明責任を果たすことを困難にしています。しかし、それが知の現状の本質なのですから、知の府である大学自身が、解決に責任を持つべきであることはいうまでもありません。
  ところが、大学というのは自律した個人の集団です。研究者は、それぞれの分かったという実感、ユーレカに基づいて、何をすべきかを確信して行動しています。その確信はときには崩れ、変化する場合もあるのですが、その変化も他からの強制によってではなく、主体的になされます。この自律性が学術の発展には不可欠であるということを、人類は歴史の教訓から学んでおります。そうであるとすれば、総長が大学のためになし得ることはほとんどないようにも思えますね。
  私は、自律分散協調系という生命体を表現する概念を、大学運営の指針としたいと考えております。例えば、心臓や肝臓といった臓器はからだの中に分散して存在し、それぞれが自律的に動いていますが、互いに協調しており、総体としての人の生命が成立しています。自律分散しつつ協調するというこの概念は、まさに大学のあるべき姿を象徴するものなのではないでしょうか。
  人には脳があって神経があります。それによって体の隅々まで情報が共有されているから、自律分散的な要素が協調的に機能し、生命の営みがなされているわけです。大学の中で、研究者どうしがお互いに理解し得ないという現在の状況は、いわば自律分散系に模することができるかもしれません。
  情報を共有するための最も効率の良い方法は、人が交流をすることです。皆さんは、互いに交流を深め理解し合う努力をしてください。友人間で学問について語り合ったり、他の研究室のセミナーで発言したり、さらには分野の異なる複数の教授を指導教授として要請するといった、さまざまな努力が可能でしょう。それは教員よりも、むしろ、みなさん学生の方がやりやすいという面もあります。教員は、歳をとってだんだん素直にものを尋ねたりしにくいとか、かえって窮屈な面もあるからです。
  大学の側も、手をこまねいているつもりはありません。自律分散系に協調の仕組みを持たせるために、たとえば、学術統合化プロジェクトをこの四月一日にスタートさせました。統合の対象の第一弾はヒトです。ヒトに関して、ゲノムという視点からの人、ニューロンという視点からの人、代謝という視点からの人など、いくつかの視点から、現在の最先端の知識を総動員してヒトを表現します。ヒトの他に、モノ、地球、宇宙を含め、四つのプロジェクトを計画しています。
  実は、自然科学のすべての研究は、この四つを座標軸とする四次元空間の領域として表現されるという極めて大胆な仮説を、密かに私はたてております。この企画が成功すれば、全体像の中に個々の研究を位置づけることができましょう。それによって、学術の細分化により、知の全体像を見失っている私たちが、全体像を構築する手段を得ることになると、そのように考えているのです。大胆な仮説は密かに考えているということですので、細部には立ち入らないことにいたしましょう。
  この試みはまさに今スタートしたところですが、さらに密かに期待していることがあるのです。私は自然科学の研究者ですので、自然科学の統合化プロジェクトを企画したのですが、おそらくこれを知った人文科学の皆さんが何らかの動きをされるのではないかと期待しているのです。そうなれば、東京大学は総合大学ですから、学術の全般で統合化の試みが動き始めることになります。
  すでに申し上げたように、科学は本質的に細分化する傾向を有しています。私たちは、この細分化という流れに対して、統合化というもう一つの流れを作り出そうとしているのです。それが、世界のリーディングユニバーシティの責任であろうと考えているのです。
  さて、始めに申し上げた、本日の二つのテーマ、知の現状と大学の役割、それに関連した東京大学の説明責任の果たし方について、私としての結論を述べましょう。
  大学の存在理由は、教育と研究、それに加えて、社会における知の焦点になるということだと思うのです。教育と研究に加える役割は、レンズが光を焦点に集め、焦点からの光が遠く遙かに発せられるように、知の焦点となることなのだと思います。社会が困難を抱えたとき、解は知によって生まれます。社会から人々が集まり、大学人とともに、人類の英知を集めて、新しいコンセプトを産み出す場が大学なのです。それが、大学というものがこれまで果たしてきた、そしてこれからも果たすべき役割なのです。
  二十世紀以前は、学術と社会との距離が近かったために、知の焦点としての役割を果たすことが比較的容易だったのです。しかし、学術領域の細分化と社会の抱える問題の複雑化によって、学術と社会が遠くなったのです。このことによって生じる困難を、例えば、学術統合化プロジェクトなどによって克服していきたい。研究を知の全体像の中に位置づけるのです。それは、自律分散的な研究者が主体的に方向を定めることを支援するでしょう、教育の効果を高めるでしょう、そして、社会が抱える問題と人類の英知とを交叉させること、つまり大学が知の焦点となることを容易にするでしょう。結局、拡がってしまった学術と社会との距離を、再び接近させてくれるのだと思います。
  大学の果たすべき責任は、教育、研究、そして知の焦点となることであると思います。東京大学は、世界が認めるリーディングユニバーシティとして、トップレベルの人材を輩出し、トップレベルの知を生産し続けます。そして、世界の知の焦点として、二十一世紀が抱えるさまざまな困難に対する戦いの、先頭に立ちたいと思います。
  皆さん、自らが選択した学問分野に深く沈潜してください。分かったという確かな実感を得てください。皆さんが、輝かしい研究成果を挙げられますことを心から祈念いたします。同時に、学術統合化プロジェクトに象徴される、知識を統合し、部分を全体の中に位置づけようとする試みにも注目していただきたい。一つの分野に徹しつつも、頭の中に知の構造を作る努力を意識的に行うことによって、自らの研究の確かな位置づけを行ってください。そして、世界でトップの専門知と幅広い視野とを併せもった、知の先頭ランナーとして、次のステップへと進んで頂きたいと思います。
  最後になりましたが、本日は多くのご家族の皆さんにもご臨席いただいております。東京大学大学院の入学生、進学生は、知の先頭ランナーとなるべく、私たち教職員とともに、今スタートいたしました。どうか、暖かく見守っていただきますようお願いして、私の式辞の結びといたします。

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