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式辞・告辞集 平成18年度東京大学学位記授与式総長告辞

告辞

平成19(2007)年3月22日

東京大学総長
小 宮 山  宏


  本日、博士、修士、専門職の学位を授与された皆さんに、東京大学の教職員を代表して心からお祝いを申し上げます。また、皆さんを支えて下さった多くの方たち、特に、皆さんのご両親に、また結婚しておられる方にはその配偶者の方にも、心からお祝いを申し上げます。

 私は、今からちょうど40年前の1967年に東京大学工学部化学工学科を卒業し、大学院に進学しました。この40年の間に東京大学は様々に変化しましたが、とりわけ大学院は大きく変貌しました。学生数からみましても、当時学部学生の総数12,227人に対して、大学院生は、修士、博士あわせて、3,705人に過ぎなかったのです。それが現在13,600人、学部学生は14,471人ですから、ほぼ学部に匹敵するまでになりました。
  とりわけ印象的なのは、大学院生の進路の多様化です。40年前、大学院は研究者の養成、特に大学の研究者の養成がその主たる目的と考えられておりました。それに対して、今日では、大学院修了者の活動の場は、大学や研究機関にとどまらず、多くの企業や官庁や国際機関などに広がり、その職務内容もきわめて多岐にわたるようになっています。
 
 私は、こうした大学院修了者の進路の多様化を、本質的に望ましいことであると考えています。皆さんも4月以降、多様な場において多様な活動を開始されます。そうした多様性が素晴らしいということを大前提として、私は皆さんに、是非ひとつの共通課題を果たしていただきたいと願っています。その願いとは、知のフロントランナーとして走り続けて頂きたいということです。
 私の言う知のフロントランナーとは、人類の知の最先端に立ち、自らの叡智を振り絞って未知なるものに挑戦し、困難な課題を解決して、私たちが住むこの世界を私たちの子孫にとって少しでも良いものにしようとする人々を指します。かつては大学教員が知のフロントランナーの有資格者であると考えられていましたが、大学院修了者の進路の多様化と並行して、知のフロントランナーのあり方も劇的に多様化しました。大学に所属しようと企業に所属しようと、研究者であろうと実務家であろうと、文系であろうと理系であろうと、それぞれの活動の場において、勇気と能力と責任感をもって、知の最先端に立ち、未知なるものに挑戦し、困難な課題を解決しようとする人はすべて、知のフロントランナーの有資格者です。皆さんは、知のフロントランナーとなるために必要な能力を、確実にお持ちです。あとは、先頭に立つ勇気と責任感を身につけて、それぞれの活動の場で知のフロントランナーを目指してください。私がこれからお話することは、知のフロントランナーを目指すうえで必要と思われる三つの勧めです。

 三つの勧めの第一は「鈍の勧め」です。
「鈍」とは鈍感の「鈍」です。しばしば「運・鈍・根」と3つ続けて、「事を成し遂げるのに必要な3条件」の意味で使われます。この場合、「鈍」は愚直を、「運」は幸運を、「根」は根気を指します。私は「運・鈍・根」のうち、「運」を重視しません。幸運が時に重要な役割を果たすことは否定しませんが、科学者は幸運を当てにしてはいけないからです。私は、「根」も重視しません。根気が成功に欠かせないことは事実ですが、根気をあまり強調すると、無意味な精神主義に陥ってしまうからです。

 「運・鈍・根」のうちで私が重視するのは「鈍」、つまり愚直です。愚直とは、愚かなほどに正直なことです。より正確に言えば、周囲から愚かに見られるほど、自分の信念に忠実に行動することを指します。優れた能力を持つ人が、周囲の目には愚かに映るというのは、彼、あるいは彼女が、他人の評価や社会の流行を安易に受け入れることをせず、あくまで自らの信念に則って行動するからです。外部からの信号に同調するのではなく、自らの内部にあるジャイロスコープに従って行動する人間が、私のイメージする愚直な人です。  
  彼、あるいは彼女は、付和雷同しません。しかし同時に、頑なでもありません。彼、あるいは彼女の信念は、確実な根拠に基づいて考え抜かれたものであり、それゆえに単なる流行に付和雷同することはありません。しかし、自分よりも優れた見解に出会ったときは、それまでの見解を潔く変更する決断力を持っています。実は、こうした愚直な人間像こそ、私が長年理想としてきた研究者の在り方なのです。
 研究者は登山家に似ています。誰も解いたことのない課題に挑戦し解答を見出すのが研究者の使命ですが、登山家も、誰も登ったことのない山に初登頂し、誰も歩いたことのないルートを初制覇することに、生き甲斐を感じるからです。そして、単に生き甲斐を感じるだけでなく、他の人々に先んじて業績をあげることによって社会から評価を受けるという点でも、研究者と登山家は似ています。
  愚直な研究者を登山家に例えれば、彼が目指すのは、彼が登るに値すると確信する山です。周囲に他の登山家の姿はほとんど見かけません。余りに険しい山で、頂上がどこにあるかすら定かではなく、これまでに多くの登山家が挑戦してことごとく退けられ、膨大な時間とエネルギーをかけても登山に失敗する可能性が高いと、他の登山家たちは知っているからです。愚直な登山家も、もちろんそのことは知っています。しかし、この山は登る価値があると確信するがゆえに、ひたすら頂上を目指します。既存の常識に捉われず、思い込みを排して、ありとあらゆるルートを試み、時には迂回することも躊躇せず、一歩一歩着実に頂上を目指します。その試みが成功するとは限りません。しかし、成功したとき、それは世界的業績と称えられることになるのです。
  愚直さは、研究者としてもっとも重要な要素であると私は確信していますが、研究者が愚直であり続けることは、次第に難しくなりつつあります。それは、短期間のうちに、目に見える形での成果を求める傾向が、強まりつつあるからです。企業など利潤を上げることを目的とする組織では、成功の見通しの乏しい研究を長期にわたって続けることは困難です。大学は利潤を目的とした組織ではありませんが、研究費の多くが競争的資金によって賄われており、競争的資金を継続的に獲得し続けるためには、研究者は絶えず研究成果を挙げ続けなければなりません。こうした環境では、成功の確率の低い大きな問題よりも、成功の確率の高い小さな問題を選ぶ傾向が支配的になってしまうのです。
  再び登山に例えれば、研究者が成功の確率の高い小さな問題を追い続けるということは、登山家が登りやすい山を選んで登山するようなものです。多くの業績を積み重ねても、人類の知の境界を大きく拡張するような成果は生まれないでしょう。既成の知識体系をブレークスルーするような新たな発見は、愚直な研究から生まれる可能性が高いのです。愚直な研究者であり続けることは、困難なことです。そのことを前提としたうえで、それでも私は皆さんに、心のどこかに、愚直な研究者を理想とする意識を持ちつづけて頂きたいと思っています。

 三つの勧めの二つ目は、「俯瞰の勧め」です。俯瞰とは、高い場所から見下ろすことです。このことについては、やや立ち入った説明が必要でしょう。
  三たび登山の例を使うと、私は時にはヘリコプターで山頂に到達することも必要だと思っています。今申しましたように、私は一歩一歩着実に頂上を目指す愚直な登山家を高く評価します。しかし、私たちの持つ資源は、時間にしても能力にしても限りがあり、常に愚直な登山をする余裕はありません。限られた資源を有効に使って、多くの仕事をなすためには、自分がもっとも大切だと確信する対象に対して愚直に挑む一方で、時にはヘリコプターを使って一気に頂上に降り立つことも必要なのです。
 この両面を使い分ける能力は、膨大な情報の海の中で仕事をする現代の研究者に不可欠な自己管理能力なのです。問題は、何のためにヘリコプター登山が必要なのかということです。それは、高い位置から山々の全体像を俯瞰し、自分の立っている位置や目指すべき方向を確認するためです。研究者の場合であれば、学問全体の中で自分が行っている研究の位置や意味を捉え直すためです。
  この捉え直しの作業は、研究者が専門化の罠から自らを解放するために不可欠な作業だと私は考えています。理系と文系とを問わず、ほぼ全ての学問領域で、研究の専門化が急激な勢いで進行しつつあります。このことは、すでに大学院で学ばれた皆さんが良くご承知のとおりです。知の最先端に挑み、知の境界領域を少しでも拡大しようというとき、研究者が極めて限定された領域に時間とエネルギーを集中的に投入するのは当然の研究戦略であって、研究の専門化はもはや不可逆的な傾向です。
  しかし、考えてみてください。知は本来、さまざまな要素が密接に関係しあう構造的なものです。知の構造的な性格を無視して、いわば一点突破の形で研究を進めた場合、袋小路にはまり、行き詰る可能性が高いと、多くの若い研究者を見守った経験から、私は断言します。そして、袋小路から抜け出す最善の方法は、ヘリコプター登山をして、頂上の高みから、それまで自分の立っていた場所と、進もうとしていた方向を眺め、全てを相対化してみることだと、同じ経験を踏まえて、私は断言いたします。
  私は、総長に就任以後、教養学部で学術俯瞰講義を行ってきました。講義担当の先生は、ノーベル賞受賞者の小柴名誉教授をはじめ、それぞれの分野で赫々たる研究業績を挙げてこられた方です。こうした大学者はいずれも、愚直な登山とヘリコプター登山の両方を実践されてこられた方です。そうした大先生にお願いして、その学問分野の全体像の中にご自身の研究を位置づけていただく試みが、学術俯瞰講義なのです。学術俯瞰講義はあくまで、高度な専門研究を行うそれぞれの研究者から見た学問分野の全体像であり、それぞれの研究者を離れては成立しません。その意味で、学術俯瞰講義は概説講義とは似て非なるものです。
 
  私が申し上げた「俯瞰の勧め」とは、皆さんに皆さん自身の学術俯瞰講義を行っていただきたいということです。東京大学の学術俯瞰講義と違って、この講義の聴衆は皆さん自身ですから、これは完全に皆さん自身のための講義です。講義の時期はいつでもよいのですが、大学院を修了して10年目、20年目、30年目と、およそ10年おきくらいが適当でしょう。というのも、私の経験では、10年に一度位の割合で大きな壁にぶつかるからです。
 知の最先端を目指して愚直な努力を繰り返して壁にぶつかったとき、どうか皆さん自身の学術俯瞰講義を試みてください。ヘリコプターに乗って高い山の頂に降り立ち、広く周囲を眺めわたし、自分がそれまで立っていた位置と目指していた方向が適切なものであったかどうかを、確認してください。知の巨大な構造の中で、皆さんの研究が持つ意味を改めて考えてみてください。その自己相対化と再検討の作業は、必ずや皆さんに勇気と新たな飛躍のためのヒントを与えてくれるはずです。

 皆さんが知のフロントランナーを目指すうえで必要と思われる三つの勧めの最後は、「教えの勧め」です。  
  皆さんは本日大学院を修了しますが、さまざまな分野で知の革新が加速度的に展開されている現在、皆さんが大学院で身につけた知識はあっという間に古びてしまいます。皆さんの学びの過程は本日で終わるのではなく、一生続くことになります。このことは皆さん良くご存知ですから、改めて申しません。私が申し上げたいのは、皆さんが自ら学び続けるだけでなく、教え続けていただきたいということです。
  大学はいうまでもなく教育を主要な任務とする組織ですが、大学だけが教育組織というわけではありません。教育組織の目的は人材の育成にあります。人材の育成を行うという点に着目すれば、企業もまた教育組織の役割を果たしています。学生時代にだらしなかった人間が、企業に就職して数年後に見違えるように配慮の行き届いた人間に変容した事例を何度も経験しました。あるいは企業の方が大学より教育力は上なのかもしれません。その企業の教育力が、最近低下しているように感じられます。目先の収益を上げることを重視して、人材養成という手間と時間のかかる任務を放棄し、大学に即戦力となる人材の育成を求め、あるいは他企業から即戦力を引き抜くという傾向が、見受けられるようになっています。私はこれを由々しき問題だと感じています。資源の乏しい日本が繁栄を持続する鍵は、優れた人材の育成にあります。さまざまな組織の教育力を高めることが日本の未来を保証すると、私は確信しています。
  皆さんは、単に皆さん自身が知のフロントランナーとして未知なるものに挑戦し困難な課題を解決するだけでなく、その活動を通じて、多くの人材を育ててください。
  私は過去30年余り、大学という場で研究と教育を行ってきました。研究と教育は別々のものではありません。研究することで教育に対する新たな意欲を掻き立てられ、教育することで研究に対する新たな刺激を受けてきました。個人としてはさほど能力に恵まれない私が、数十年にわたって研究の第一線に立ち続けることができた最大の原因は、人に教えることを重視してきたからだと、私は考えています。教えることは、教えられることだと申します。まったくその通りだというのが、私の偽らざる実感です。皆さんもどうかそれぞれの活動の場で人を育て、人を育てることで自分自身もさらに大きく育ててください。

 本日、学位を取得して社会のさまざまな分野に進出される皆さんは、東京大学を巣立つのであって、東京大学に別れを告げるのではありません。東京大学を巣立っても、皆さんは東京大学のコミュニティの一員です。私たちの目の前には、地球温暖化や資源の枯渇、社会的格差の拡大や人口の爆発、文明の衝突や生命倫理など、人類のこれまでの知識では解決できない問題群が山積しています。皆さんは、大学に所属しようと企業に所属しようと、研究者であろうと実務家であろうと、文系であろうと理系であろうと、それぞれの活動の場において、フロントランナーの勇気と能力と責任感をもって、これらの問題に挑戦してください。
  皆さんの努力が報いられることを祈りつつ、私の式辞を終えることにいたします。

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