平成23年度入学式(大学院)総長式辞

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式辞・告辞集  平成23年度入学式(大学院)総長式辞

平成23年度東京大学大学院入学式総長式辞

平成23年(2011年)4月12日
東京大学総長  濱田 純一

 このたび東京大学大学院に入学、進学なさった皆さん、おめでとうございます。また、ともにこの日をお迎えになったご家族の皆さまにも、心からお祝いを申し上げたいと思います。
 この四月の大学院入学、進学者は、全体で四六二七名です。その内訳は、修士課程が二九〇九名、専門職学位課程が三七〇名、そして博士課程が一三四八名です。また留学生は、このうち五三四名で、全体の一一%あまりを占めています。皆さんがこれから、学問研究のさらに奥深い世界で大いに活躍なさることを願っています。

 例年ですと大学院の入学式は、武道館で行われます。しかし、今年は、この小柴ホールで、各研究科から代表の皆さんだけに出席してもらい、ごく小さな規模で挙行することとしました。これは言うまでもなく、東日本大震災と、その後の状況を考慮したものです。
 今年の入学式をどうするか、中止の可能性も含めてさまざまな観点から検討を行った結果、このような形で式典を実施するという判断を下しました。その理由として、これから学問研究の新しいスタート台にたつ皆さんが、気持ちを引き締める場がやはり必要だろうという思いが、もちろんありました。しかし、それと同時に、そしてそれ以上に、こうした時期だからこそ、これから皆さんがさらに深くかかわっていこうとしている学問、とりわけ「科学」というものの社会の中での立ち位置を、しっかりと確認しておく機会を設けるべきだと考えました。

 科学という言葉を、私たちはいまごく日常的な言葉として用います。また、皆さんは、学部、あるいは修士課程での勉強・研究を通じて、科学というものについて、それぞれのイメージを形成してきていることと思います。私自身振り返ってみると、科学という言葉については、おそらく皆さんの多くと同じように、子どもの頃から科学雑誌などで何とはなしのイメージを持っていました。ただ、それは、自然現象や技術工作の分野でもっぱら使われる言葉、といった感覚でした。それだけに、大学に入ってはじめて、「社会科学」という言葉を聞いて、社会にかんする研究の分野でも科学というものがあるのかと、大変驚いたことを覚えています。
 今日、科学という時には、自然科学を指す狭い意味で用いられることもありますが、より広義には、概念、論理、証明の厳密さという方法によって、特徴づけられる学問であると言ってよいと思います。さらに言えば、そうした概念の広がりの下では、学問と科学は基本的に同義と言うことも出来ます。今日は、こうした広義における科学という用語法を前提に、お話したいと思います。

 科学が果たした歴史的な役割という観点から見た時に、今日的意味での科学の誕生が、非合理的な心理や考え方、行動様式に囚われがちであったとされる、ヨーロッパ中世世界からの脱却の場面に位置することは、ややステレオタイプに過ぎるかもしれませんが、よく知られているとおりです。ルネサンスの精神的土壌の上に展開された一七世紀のいわゆる科学革命は、天動説から地動説への転換に代表されるように、人々の世界観やものの考え方に根本的な変化を生みだしました。こうした傾向が自然科学に限らず学問全般に見られることは、人類の主知主義的合理化の発展を描く中でマックス・ヴェーバーが用いた、「魔術からの解放(Entzauberung)」という言葉でも知られています。
 もっとも、このような「魔術からの解放」という科学の役割は、必ずしもヨーロッパにおける近世の始まりという、遠い話にとどまるわけではありません。第二次世界大戦後の日本においても、この「科学」に対する一種の渇望と呼んでもよいような空気が生まれました。こうした空気は、とくに社会や法、さらには歴史を対象とする分野において、科学という視点の重要性が強調された状況に典型的に示されています。それは、戦前の神話的な歴史観、権威的な国家体制、あるいは情緒的な共同体としての社会観などに対する反作用であったことは、言うまでもありません。
  このような経緯を経ながら、日本でも科学は、その制度的発現による社会の近代化、そしてその技術的発現による高度成長への貢献を通じて、人々の信頼を勝ち得てきました。魔術からの解放としての意味のみならず、科学は、社会の進歩、経済の発展にとっての原動力、シンボルとして、多くの人々に受け止められてきたのです。もちろん、個々にはさまざまな議論が、原子力開発、環境破壊、臓器移植や遺伝子操作などの問題をきっかけに行われてきました。しかし、科学の意味そのものを根本的に疑う議論は、ほとんど無かったように思います。

 最近において、科学の意味、ということに対する問題意識が広がったのは、意外な方向からでした。皆さんもご承知のように、科学研究にかかわる予算について、ここ数年来の政府予算の編成過程で、削減の動きが出てきました。それを、科学の進歩ないしその社会的意義に対する無理解、あるいは科学研究者の説明不足といった言葉で片付けるのは簡単です。しかし、その背景として、少なからぬ人々の科学に対する受け止め方と、科学研究に携わる者の意識との間に、ぼんやりとした仕切り幕が存在していたように感じます。それは一言で言えば、科学に対する曖昧な信頼と裏腹になった曖昧な不信です。
 もう一つ、科学が直面したのは、何より、このたびの東日本大震災というすさまじい出来ごとからの問い掛けです。科学に対するこちらの問い掛けは、きわめて本質的なものです。科学はこれまで、自然や社会の解明に向けて、営々とした努力を積み重ねてきました。その結果、かなりのレベルにおいて、自然が恣に人々の命や財産を奪うことを阻止するとともに、自然が社会にもたらす恵みをより大きなものとすることに成功してきました。しかし、科学によって地震や津波の規模を想定し、それに耐えうるように科学の力を結集したはずの巨大堤防が、無残にも破壊されて数多の命が失われたこと、あるいは、科学の知恵によって原子の力を制御し、電力という、産業や日々の生活に不可欠な基盤を提供していた原子力発電のシステムを、容易にコントロールできないまま、多くの人々が生活の場からの避難を余儀なくされ、あるいは不安におののいている状況は、科学の力に対する無力感、あるいは懐疑を生み出すに足る十分な出来ごとです。

 もちろん、巨大堤防にしても原子力発電所にしても、現実の形としてそれを作りだすファクターとして働いているのは、科学の成果だけでなく、財政の論理であり、政治や行政のスタンスであり、あるいは企業経営の発想です。科学の社会的な活用は、それが自然科学的なものであれ、あるいは社会科学的・人文科学的なものであれ、科学だけではなく、リスクの受忍限度の議論などをはじめ、利益衡量や価値選択に基づく、さまざまな社会的取引の産物です。ドイツの社会学者であるウルリヒ・ベックなども指摘しているように、科学の合理性と社会の合理性はしばしば異なるのです。
 ただ、現実はそうであるとしても、科学の社会的な活用というのはそんなものだ、そうした妥協やリスクがあることを織り込んでおかなければしょうがないのだという風に、簡単に割り切りたくはないと、私は思います。そうした割り切りに寄りかかってしまうと、人々のより多くの幸せと豊かさを目指す科学の、ぎりぎりまでの進歩はあり得ません。むしろ、なぜ科学がその問題を解決できないのか、という人々の厳しい視線を正面から受け止めながら、科学で対処できる事柄の範囲を拡大していくために全力を尽くすということが、科学に携わる者の原点であろうと思います。

 たしかに、いつの時代においても、あらゆる課題に科学がきちんと答えを出せるわけではありません。答えを出せない、あるいは、出来ない、ということを明示することも、科学の一部です。たんに科学の夢や希望を明るく語るだけでは、科学に携わる者の役割は果たせません。やや強い言葉で言えば、そうした素朴な明るさは、社会に新たな魔術をもたらすだけのことです。科学に対する曖昧な信頼は、曖昧な不信とともに、非合理的な判断につながります。しかも、そうした世界の方に、人々が心ひかれることもあるのです。
 フランスの数学者であったアンリ・ポアンカレの『科学の価値』という本の冒頭近くに、次のような一節があります。ここでは、私たちの先輩である吉田洋一先生の翻訳をお借りしたいと思いますが、「真理がどんなに残酷なものかをわれわれはよく知っている。そのため、むしろ、幻想の方が真理よりも、もっと心の安まる、もっとわれわれを力づけてくれるものなのではないか、とつい疑ぐるようなことになってしまう。というのは、われわれに信頼感を与えてくれるのは、この幻想にほかならないからなのである。そうはいっても、いったんこの幻想が消え去ったとき、人はなお希望を失わず、引き続き行動する元気をもちこたえていられるだろうか」、というものです。
 人間が陥りがちなこうした弱さに、自らも陥らず、そして人をも陥らせない役割が、科学に携わる者には求められています。科学は精神安定剤ではないのです。人々の期待に力の限り応えながら、同時に期待の圧力に屈しない知的廉直が、科学には求められます。科学の世界に生きる者に求められているのは、科学の領分の拡大に全力を尽くすことは当然として、今の科学で出来ることと出来ないこととの区分を明確に示すとともに、その限界を乗り越えるために苦闘している姿を率直に見せることです。

 魔術を克服すべく生まれた科学が、再び新たな魔術を生み出すのではなく、科学の本領を突きつめていくことで、科学の社会的な活用のために、一定の社会的取引を行わざるを得ない場面であっても、最大限に合理的な判断の基盤を提供するという、重要な役割が、この時期だからこそ改めて思い起こされてよいように思います。そこからこそ、未来へのたしかな希望が生まれます。科学に携わる者としての誇りを忘れずに、皆さんがこれから健闘なさることを祈って、式辞を終えることといたします。

 

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