平成25年度卒業式総長告辞

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式辞・告辞集 平成25年度卒業式総長告辞

平成25年度卒業式総長告辞

 

 皆さん、ご卒業おめでとうございます。このたび学部を卒業する学生の数は、合計3,084名になります。うち留学生は57名です。東京大学の教職員を代表して、皆さんに心よりお祝いを申し上げます。また、ご家族の皆さまにも、この晴れの日を共にと多数ご出席いただいており、感謝申し上げたいと思います。今年度の卒業式は、まだ安田講堂の耐震改修工事が続いていますので、昨年度と同じくこの有明コロシアムで執り行っていますが、多くの皆さんにとって、日本武道館での入学式以来はじめて再び一堂に会することが出来たという意味で、思い出深い卒業式になるだろうと思います。まことに月日が経つことのはやさを感じます。

 卒業してからの皆さんの進路はさまざまでしょう。引き続き大学に残って大学院へ進学する人もいれば、社会の現場に出ていく人もいます。どういった道を歩むにしても、皆さんには、「逃げない」という一言を、心に留めていただければと思います。これからの長い人生の間には、思いがけないことが起こります。といいますか、思いがけないことが起こるのが当たり前です。そうした時に戸惑うことなく、社会でいかに困難な場面に遭遇しても、あるいは研究の上で大きな壁に突き当たっても、「逃げない」というその言葉を思い起こして、正面から状況に向き合ってもらいたいと思います。

 私があえて、「逃げない」という強い言葉を用いて呼びかけをしている理由は、皆さんが、とりわけ豊かな知識を持ち、鍛え抜かれた思考力を具えた存在であるはずだからです。この東京大学では、皆さんの知的な力を、あるいは社会的な力を最大限に伸ばせるようにと、教職員が工夫を重ねてきました。皆さん自身も、そのように努めてきたことと思います。それによって培われた力をいかなる状況下であれ十全に発揮することは、皆さんに対する社会からの期待であり、また皆さんの社会に対する責任でもあります。

 もっとも、逃げるということは、ある意味で人間の本能の一部のようなところがあります。とりわけ災害や事故などによって身体に直接的な危険が及ぶ場合など、逃げるのは当然であるとも言えます。また、日々の仕事や暮らしの中でも、さまざまな事象に直面して逃げたいという気持ちがしばしば生じるのは、自然なことでもあります。しかし、自分の知的な力、精神的な力を振り絞ることで、社会にとっての危機を乗り越え新しい道を切り開くことが求められているような場面では、最後まで逃げないで取り組みを続けることが、皆さんのようなエリートの責任です。

 いま「エリート」という言葉を使いましたが、東京大学がその依って立つべき理念と目標を示している東京大学憲章は、育成する人材について、「世界的視野をもった市民的エリート」という言葉を用いています。この憲章が制定された経緯を記した当時の文書を読むと、エリートという言葉を使用することについては最後まで慎重論があったと述べられていますが、それは、この言葉が持つ特権意識的な負の側面を危惧したためであろうと想像します。ただ、最終的には、「歴史的、社会的な自己の使命・役割を自覚する」ことをエリートの資質として捉えるという理解の上に立って、この概念が憲章の前文の中に組み込まれました。

 さらに、ここでは、単なる「エリート」ではなく、「市民的」という形容がなされていることに注意しておきたいと思います。この点については、「国境をこえて地球大で活動する存在という意味で『市民』を理解することから生み出された表現であった」という説明が、やはり当時の文書にあります。今風に言えば、グローバルであるという資質を意識した表現ということで、きわめて的確に現代的な課題を見通していたと思いますが、ただ正直なところ、そうした含意と「市民」という言葉とのつながりは、これだけではまだ少し分かりづらいところがあります。

 この「市民的」という概念については、憲章の制定当時に教育学部長をお務めになっていた藤田英典先生の、「民主制時代のエリート」という言葉が背景にあったという話を聞いたことがあります。その言葉の説明は、先生が書かれた『教育改革』という本の中に記されていますが、それによれば、「民主制時代のエリートの特徴・要件は、卓越したメリットの保持者でもなければ、むろん権力保持者でもない。そうではなくて、社会生活のさまざまの場面で、そこに参加し、そこでの活動や集合的な意思決定をリードする資質をそなえた者である」、ということです。また、「どれだけ多くの価値を身体化したかということよりも、身体化した価値を他のメンバーとどれだけ共有できるかが重要だ」、そして、「孤高性ではなくて、参加性(献身性)・共生性(公共性)が問われるということである」、とも記されています。

 これらを要するに、「市民的エリート」という時には、一つには、「歴史的、社会的な自己の使命・役割を自覚する」、そしてもう一つには、自分が培った力を社会的参加を通じて他の人々と共に生きるために活用する、といった含意が込められているだろうということです。私は、このいずれの要件を皆さんが満たしていくにあたっても、「逃げない」ということは基本として求められる姿勢であると考えています。

 まず、「歴史的、社会的な自己の使命・役割を自覚」していること、という要件について言えば、「自覚する」という言葉の中には当然、その自覚に相応しい行動をとる、ということが求められているはずです。「逃げない」というのは、そこでの行動に当然に組み込まれて期待されている態度です。かくいう私自身もこれまで、人生の中で逃げたいと思ったことが何度もありました。また、正直に言えば、時折は実際に逃げたこともあります。しかし、逃げないで正面から課題に取り組んだ時の結果は、多くの場合において、自分が成長するきっかけとなり、社会に役立つ成果を生み出し、あるいは人から信頼を受ける機会となったとも感じています。

 とはいえ、先ほども言いましたように、逃げるというのは普通の人間にとってはきわめて自然な行動です。そして、そうした行動様式には、意外なほどの広がりがあります。これはいわば古典に属する本ですので、皆さんの中にも読んだ人が、あるいはタイトルだけでも聞いた人が少なからずいると思いますが、エーリッヒ・フロムというドイツ生まれの社会心理学者の著作で、『自由からの逃走』というものがあります。この本は、私が教養学部に入ってすぐに、たぶん社会学の講義だったように思いますが、課題図書といったような形で読まされた本です。受け身で読まされた本ではあるのですが、その詳細な分析的記述によって、はじめて学問というものに触れることが出来たような新鮮な感動を受けたことを、いまでも記憶しています。

 きっと皆さん一人一人も、学部生活の間に、そのように強く記憶に残る本に触れた経験をしたことと思いますが、この『自由からの逃走』という本は、一九四一年、第二次世界大戦が始まって間もなくの時期に刊行されました。全体主義の潮流が世界に広がっているという時代状況を背景に書かれたものですが、近代化によって自由というものを手に入れたはずの人々が、なぜナチズム、ファシズムというような自由の価値とは正反対のイデオロギーを受け入れてしまうのか、受け入れてしまうどころか望みさえするのか、ということが、心理学的な、精神分析的な手法によって描かれています。

 そこでのキーワードが、「自由の重荷」という言葉です。この本の序文の中でフロムは、次のように述べています。ここでは、かつて東京大学で教鞭をとられた日高六郎先生による訳を使わせていただきますが、すなわち、「自由は近代人に独立と合理性とをあたえたが、一方個人を孤独におとしいれ、そのため個人を不安な無力なものにした。この孤独はたえがたいものである。かれは自由の重荷からのがれて新しい依存と従属を求めるか、あるいは人間の独自性と個性とにもとづいた積極的な自由の完全な実現に進むかの二者択一に迫られる」、というものです。

 この文章は、いわば自由の逆説について述べられたものですが、ここで「自由」という言葉を「エリート」という言葉に置き換えて考えてみて下さい。皆さんがしばしばエリートであると社会から見做されることを真剣に受け止めようとする時、そこでは、普通は容易には得がたい誇りと同時に、期待される役割の重さ、その重圧というものをきっと感じることと思います。すでに皆さんの多くは、子どもの頃から、あるいはまた東大生として、多かれ少なかれそうした二つの面を感じながら生きてきたであろうと思いますが、これからの人生において、エリートとしての孤独や不安、周りの期待などの重荷に耐えかねてエリートたることから逃げるのではなく、この東京大学において世界的にも最高水準のレベルの学問を修めてきたことに相応しい役割を、皆さんに果たしていただきたいと願っています。

 そうした重荷は、仕事の上で難しい課題に直面した時など、とりわけ痛切に感じられるはずです。研究生活においても、論文の執筆や実験の成果に行き詰った時に感じることがあるでしょう。行き詰った場面で、安易に他の人の文章を窃用したり、あるいは実験データをねつ造したりするといった行為は、まさしく逃げているということに他なりません。皆さんが、この大学で多くのことを学んできたのは、困難な課題に出会って「逃げない」ためです。逃げないことによって、自分自身に誇りを持ち、自分を成長させ、また社会により大きな貢献を行ってもらうためです。その過程で失敗もあることは、問題ではありません。

 「逃げない」という姿勢は、他の人々とのかかわりを持つ場合にも大切になります。先ほど、「市民的エリート」という言葉の説明のところで、「市民的」という概念には参加や共生という要素が含まれていることに触れました。皆さんも経験していると思いますが、他の人々と共に考え何かを実現するということは、しばしば、一人で課題に取り組むより大変な場合も少なくありません。そこでは、自分とは違った生き方をし、異なった考え方や価値観を持っている人たちとコミュニケーションをしていくという「重荷」が、新たにくわわるからです。そうした状況においても逃げないことを、「市民的エリート」は求められています。

 このような協働の場面で皆さんには、ある分野の専門家という役割を期待されることも少なくないだろうと思います。その意味で、東京大学の卒業生がそうあるべき「市民的エリート」像は、メリトクラット的な要素をやはり抜きにしては考えられないと私は思っていますが、重要なのは、その専門性をどのような形で発揮するかということです。さきに大阪大学の総長をお務めになった鷲田清一先生は、臨床哲学という分野を提唱されたことで知られていますが、「パラレルな知性」という言葉を使っておられます。東日本大震災と原子力発電所の事故を踏まえた科学のありよう、科学者のありようを論じる中で用いられている言葉ですが、それによって鷲田先生は、専門家として当然に期待される「専門的知性」と同時に、場合によってはそれを棚上げしてでも一般の人たちと一緒にさまざまな観点・視線から状況を議論し考えることの出来る「市民的知性」を求めています。そうした「市民的知性」の不可欠の要素となるのは、豊かなコミュニケーションの能力とともに、専門性の枠組みにはとらわれない、他の人々に対する想像力-他の人々が置かれている状況や、その心情、あるいは考え方などに対する想像力-でしょう。

 このような「パラレルな知性」を、まさしく「市民的エリート」は求められているのだと、私は思います。「パラレルな知性」の担い手であることは大変です。しかし、皆さんが、「市民的エリート」として、逃げないでこうした役割を果たすことによってこそ、フロムが描いたような自由の逆説に陥ることなく、無力でも孤独でもなくなるチャンスを得ることができるはずです。フロムは、「自由の重荷」からの解放の道を、個人が自発性をもって外界にかかわっていくことに見出そうとしていました。それが、「積極的な自由」という言葉で呼ばれていたものです。この答えそのものは観念的・抽象的であるという評価を必ずしも免れえない気はしますが、ただ、いまお話ししたように、皆さんが参加や共生を求められる場面で、逃げることなく他の人々とかかわっていく時、そこでは、フロムが「積極的な自由」という言葉で期待していたものと相通ずる、一つの具体的な像が姿をあらわしてくるように感じます。

 いま学部での学業を終えて新しい世界に一歩踏み出そうとしている皆さんが、これから出会うであろうさまざまな課題に、決して「逃げない」で正面から向き合い、東京大学憲章が目標とする「市民的エリート」としての姿を具現していってくれること、そのことを心から願って、私からの告辞とします。皆さんのご健闘をお祈りします。



 

平成26年3月25日
東京大学総長
濱田 純一


 
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