平成26年度東京大学学部入学式 祝辞

式辞・告辞集 平成26年度東京大学学部入学式 祝辞

 みなさん。今日は、本当におめでとうございます。
 みなさんは、研鑽の甲斐あって今日こうして自分の目指した大学での新しい一歩を踏み出そうとしておられます。今みなさんそれぞれの心の中には、希望に満ちた将来への夢と無限の可能性への期待とが広がっていることでありましょう。孔子はその晩年、一生を顧みて「吾十有五にして学に志す」と申しました。みなさんもまた、ちょうど同じような年齢で、今この東京大学という最高学府で本当の学問というものに志をたて、思索に没頭する機会を与えられたのです。ここで過ごす何年間の青春の時は二度と帰ることはありません。それは、みなさんのこれからの人生の基礎を造る上でかけがえのない貴重な時間なのだということを心に刻んで、悔いのない一日、一日を送っていただきたいと思います。

 同時に、今日のこの日は、みなさんにとって大学生としての第一歩であるだけではなく、新しい人生への第一歩でもあります。みなさんのほとんどの人は、もう直ぐ成人を迎えられるはずです。成人(coming of age)とは、一人前の大人として社会の一員となることを意味します。ご両親の暖かい庇護の下でここまで育んでいただいた雛鷲が、一羽の大鷲となって大空に飛び立つ日が来たのです。これから自分自身で切り拓いて行く新しい人生は自分にとってどうあるべきかということ、言い換えれば、「人は何のために生きるのか」ということを、みなさんのこれからの人生の課題として問い続けていってほしいと心から願うものです。

 我々は、今日いまだかって経験したことのないような激動の時代に生きています。それは、「グローバル化」という未曾有の地殻変動が世界を襲い、これまでの国際システムを揺るがせているからです。特にわずか150年前に開国という激動を通過してきたばかりのわが国にとっては、この大変動にどう立ち向かっていくのかという問題は、国の将来を左右しかねない最大の課題を投げかけているように思われます。「グローバルに活躍できる人材の育成」ということが昨今合言葉のように叫ばれているのも、そのような危機意識の現われともいえましょう。
 私は、そういう考え方自体に反対なわけではありません。しかし、「グローバルに活躍できる人材」とは、いったいどういうことを意味しているのかについて、もう一度深く考えてみる必要があるのではないかと思うのです。
 比較的最近まで、わが国では「国際化」という言葉が流行していました。今日「グローバル化」と呼ばれる状況と,かつて「国際化」といわれた状況とは同じことなのでしょうか。人によっては、この二つの概念は同じものだという人もあります。私は、「国際化」ということと「グローバル化」ということとは互いに似通った概念ではあるけれども、両者の間には質的な相違があると考えています。国際化(Internationalization)というのは、文字通り、国際関係つまり国と国との間の関係が緊密化することを指しています。19世紀半ばに、それまで200年余りにわたって鎖国政策を採り続け、国際関係というものにほとんど無縁であった日本が開国を求められたとき直面したのは、まさしくこの「国際化」という問題だったのです。明治政府は、この問題を国と国とが接触する接点となる場所をポイントとして抑え、そこを重点的に国際化の手段とすることによって乗り切ることを図ったということが出来るでしょう。(たとえば、政治面でいえば外務省、経済面でいえば関税制度。学術文化面でいえば翻訳文化、さらにそれらを総合的に象徴するものとしての鹿鳴館体制などが、そういう接点としてのコンタクト・ポイントの役を果たしたといえます。) それは、ちょうど物理学で100Vで機能する回路と200Vで機能する回路という電圧の異なる二つの閉鎖回路を接続させるために、両回路の接点に変圧器を入れて両システム間の調整をはかるのと同じ手法と見ることが出来ます。
 ところが、グローバル化(Globalization)と呼ばれる現象は、世界が一体となって一つの社会が生まれることを意味します。そこでは、それぞれの社会が国境で仕切られていた状況に代わって、異なった社会同士が国境を超えて直接に面と面でぴったり接触しあうという状況、さらに究極的には面としての接触すらも消滅して、グローバルに広がったひとつの社会の中で交流が行われ、競争が展開されるという状況が生まれます。それがグローバル化という現象なのです。
 そういう状況においては、「グローバルに活躍できる人材」」という特別なカテゴリーの人間を育成するという、いわば「ハウ・ツーもの」的お手軽アプローチでは対応することは出来ません。「学問に王道なし」という言葉があります。王様だけに許される学問の近道がないように、グローバル化という世界を覆う滔々たる流れに対抗してその中を生き抜いていくために必要なのは、我々一人一人が実力をつけることなのです。 

 長い歴史を通じて、日本という島国は、外敵に侵されることもなく、独自のきわめて均質的な社会を作り上げてきました。その中でもっとも重要な美徳とされてきたのは、「和をもって貴しと為す」(聖徳太子十六条憲法)という考え方でありました。それは、他に類を見ないような素晴らしい社会道徳の原理であるといえます。しかし、異なった価値意識、多様な文明観が入り交う今日の国際社会の中では、「和」は自ずから生まれるものではなく、社会を作っている多様な人々を説得することによって、初めて実現するものなのです。

 私は、今から半世紀以上も前に、この大学を卒業して直ちに英国ケンブリッジ大学に四年間留学する機会に恵まれました。そこには、日本が第二次世界大戦の敗戦に打ちひしがれていた時期に私が学んだ東京大学からは想像も出来ないような、真理の探求と人間の育成を目指す大学の姿がありました。東京大学に入学後、大学というものに失望と幻滅を感じていた私にとって、このことは「大学とはこんなにすばらしいところだったのか」と感嘆させられる強烈な体験でした。今日の東京大学は、濱田総長以下諸先生方のご努力で面目を一新しています。決して新入学のみなさんを失望させるようなことはありえないと私は確信しております。それにもかかわらず、私がみなさんにこの私の経験をお話しするのは、外国の大学に留学する経験がいかに大切なことかを私自身が身を持って痛感したからであります。
 外国留学から得られるものには、いろいろな側面があります。私が外国留学を強くお勧めするのは、それが外国語習得の近道だからというような功利的な理由からではありません。もちろん外国語を身につけることが重要であることは、後でも触れるように、グロ-バルな環境の中で仕事をしていく上で当然なことです。しかし、私自身の体験からみて、外国で、しかも大学で、生活を送ることが一番大切だと考えるのは、それがみなさんに「他流試合」の機会を提供するからに他なりません。徳川時代の武士にとって一番大切なことは、いざというときに備えて、武芸、中でも、剣術の腕を磨くことでした。当時日本の国内には大名お抱えの多くの剣道師範がおり、それぞれに道場を開いて剣術指南をしておりました。これらには、それぞれ流派があり、柳生新陰流だとか、宮本二天一流だとかいうように、異なった刀さばきで剣を教えていたという伝統があります。当然のことながら、同じ師匠から同じ流派の剣さばきを教わっている限り、いくら腕が上がり免許皆伝を受けても、流派の異なる剣士と戦うときには勝手が違うことがありえます。他流試合とは、そういう異なった流派の道場を訪れて試合をすることによって、自分の腕を磨くことをいうのです。

 私の専門分野は国際法です。ケンブリッジ大学で国際法の研究をするようになって一番驚いたことの一つは、同じ国際法でありながら私が日本で勉強してきたこととケンブリッジで学んだことの違いがあまりに大きいことでした。それは、単に知識の具体的内容がどうこうという問題ではありません。学問的にいえば、それは、問題に取り組む方法論、さらにはその背景となるものの考え方、論理の進め方というようなことに関わる問題だったのです。他流試合は、そういう異なった文化との直接の接触、対話を通じて、グローバルな世界における異文化との対峙の仕方を教えてくれるのです。
異なった文化環境に身をおくことによって、それまで自分が当然と思っていた自国の文化が実は自国の歴史的、地理的環境から生まれたものという面を持っているのだということに気づかされるのです。さらにもっと大切なことに、外国の大学で学生仲間や先生方などの人たちと議論する機会をもつことによって、今まで自分でも気が付かなかった自分の社会や文化が備えている美点について新しい再発見をするということも決して稀なことではありません。異文化を体験するということは、そういうことなのです。

 みなさんは「常識」ということがどういうことかご存じだと思います。我々が常識という言葉で意味しているのは、多くの場合、英語でいえば”conventional wisdom“ という言葉に当たるのではないかと思います。つまり、ある社会の中でみんなが当然そうだと習慣的に受け入れていることであって、よく吟味してみたときにそれが本当にそうなのかどうか、それが本当に「健全な判断」であり「良識(good sense, bon sens)」に合致しているのかどうかということとは別なことであることが多いのです。外国に出て、その国の社会の中で生活をするということは、そういう日ごろ常識だと考えていたことが、実は何の合理性の根拠ももたない、自分が生まれ育ってきた社会の中の習慣的な約束事に過ぎなかったのだということを悟らされる経験の連続だということが出来るでしょう。そして、この感覚は、これからの世界の中で、異なった歴史的、文化的背景を持った社会の中で育ってきた人たちと一緒に議論をし、一緒に社会生活を送っていく上で極めて大切なことなのです。

 日本には、昔から「出る杭は打たれる」という諺があります。それは、なるべく控えめに、目立たないように行動することが美徳とされてきた日本の伝統的社会の知恵と見ることも出来るでしょう。和の精神を大切にし、穏和で波風の立たない社会を理想にしてきた伝統社会では、個性的であることは悪徳とさえみなされてきたということが出来るかもしれません。しかし、それは、同時に現状を改革しようとする意欲の芽を摘んでしまうことになりかねないという面も持っています。米国の大学では[出る杭]にならないように発言を控えていたら、クラスで完全に無視されてしまいます。グローバルな場で競争していかなければならない今日の国際環境の中で日本が他国に遅れをとりかねない状況も、そういうところから生まれていると見ることも出来ます。

 世界の中で、異なった文化的、歴史的背景を持った生活環境の中で育ってきた人たちと一緒に生活し、ただ仲良く付き合うだけでなく場合によっては互角に戦わなければならないという今日の国際社会において役に立つ存在と評価されるためには、自分の個性がはっきりと確立しており、自分の主張で周りを説得する力を持つことがますます重要になっていくでしょう。そういう説得の力を身につけることを可能にするのは、広い体験と深い思索に基づいた自己の鍛錬と、それを通じて備わってくる人格と教養の力だと思います。教養というのは、単なる該博な知識の集積ではありません。自分自身の直接体験だけでなく、読書という間接体験を通じて、物事の本質を見抜く洞察力と判断力を身につけた人こそ、真の教養ある人というにふさわしいのです。相手を説得できるためには、言葉が決定的な重要性を持つことは、いうまでもありません。自分の考えていることを相手に的確に伝えることは、相互理解の第一歩だからです。しかし、それには、伝えるべき内容が十分に説得力を持つことが大前提となります。私は外国語習得の重要性をいささかも軽視するものではありませんが、より本質的に重要なのは言葉によって伝えようとする内容であり、そこに現れるその人の人格と教養の深さなのではないでしょうか。

 今日の私の話の最初に、「新しい人生の第一歩を踏み出すみなさんには、“人は何のために生きるのか”ということを考えて生きてほしい」ということを申しました。この大学でこれから学ぼうとしているみなさんも、数年後には、社会人としての人生のスタートを切ることになります。研究者としての人生を目指す人もあるでしょう。企業に入って力を発揮する道を選ぶ人もあるかと思います。公務員として社会のために役立つ仕事をしたいと志す人もいるでしょう。みなさんがそれぞれの人生において、これまで自分が社会から受けてきた恩恵にどういう形でおかえしをすることが出来るのかということを念頭において、大学生活を送っていただきたいと念じてやみません。

 よく、今の若者たちは内向き志向だといわれます。私はそんなことはないと思います。むしろ、今日の混乱した世相の中で、「自分は何をしたらよいのか」と自分の理想を摸索する若者が多いのではないかと感じます。そういうみなさんには、三年前の東北大震災のときに日本の若い人たちが示したすばらしい同胞愛と社会連帯の行動が世界中の人々の賞賛を呼び起こしたことを思い出していただきたいのです。国際社会も、国内社会と同じように、ひとつの人間社会です。そこに住む人たちは、それぞれに個性を持ち、希望に燃える人間集団です。私は、60年にわたる自分自身の経験を通じて、世界各地でこういう人たちが東北大震災の災害にも劣らないような紛争、難民、極度の貧困などの災害の中でがんばっている姿を目のあたりにしてきました。みなさんには、同胞愛と社会連帯の精神に立って、同じ地球社会に属するこの人たちのために何をすることができるだろうかということを考える姿勢を養っていただきたいと思うのです。そういう姿勢こそが、「グローバル化する世界の中で活躍できる日本人」を創っていくことになるのだと私は確信いたします。

 本日は、まことにおめでとうございます。

平成26年(2014年)4月11日
国際司法裁判所前所長・裁判官  小和田 恆

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