日本の社会をよくするために
女性の視点とパワーに期待

大学院法学政治学研究科 教授
柿嶋 美子
Yoshiko KAKISHIMA

柿嶋 美子

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柿嶋 美子

~両親の期待に応えて進学校へ~

 子どもの頃は、何でも「なぜ?なぜ?」と訊くので、「お前は理屈っぽい」と随分言われました。うちは、母も父も、「自分にも他人にも厳しい」、そして良い意味でも悪い意味でも、強い上昇志向のドライブが掛かっている人たちでした。中学受験をして進学校に進みましたが、受験勉強も、今のように塾弁を持って小学生が夜遅くまで塾に行くというような異常なことはなくて、模試を何回か受けて勉強するくらいでした。

 中学受験をしたのは、少なくとも私の目には、母が私より弟をかわいがっていると思え、そのことを悲しく感じており、勉強を頑張ると、母親が私の方を向いてくれると感じ、それが嬉しかったからです。子どもなんてそんなものです。いじらしい存在です。母は仕事を続け、仕事を通した関わりを続けたかった人でした。今から思うと、母は、自分の夢を私に託したかったのでしょうね。

~坂本龍馬と剣道に夢中になった中高時代~

 受験して入った中学でしたが、実はあまり楽しくありませんでした。小学校から上がって来た同級生は裕福な家庭の子が多くてあまりなじめませんでしたし、中学生の私はニキビがあって容姿にコンプレックスがあり、成績も下がって辛い時期でした。父に、「このままじゃダメになりそうだから、転校するか?」と聞かれたくらいです。

 そんな私を救ってくれたのが坂本龍馬でした。当時は弟が反抗期で、妻であり母であるだけでは幸せになれなかった母、実力があるのにそれを発揮する機会を奪われ壁に突き当たっていた悲しく苦しそうな母の姿と、仕事が本当に面白そうで、明るく楽しく人生を生きていた父の姿を見ていました。女としての自分に自信がなかったこともあって、男の方が面白そうな人生を歩めそうだと思い、男のように生きようと決意しました。そのような時期に父の日にたまたまプレゼントとした『竜馬がゆく』に出会い、非常に感銘を受け「龍馬になろう」と決めたんです。

 中学・高校時代は龍馬がバイブルという時代でした。龍馬の影響を受けて剣道を始め、初段を取りました。大学進学の際に東大を選んだのは、「龍馬のように天下国家のことを考えるなら東大だろう」と思ったのと、父が東大法学部出身の部下を家に連れてきたときに「こいつは凄いんだぞ?」と頼もしそうに紹介してくれ(その人の頭上から後光がさしているような感じがしました)、東大に行ったら何か凄いことやものに出逢えそうな気がしたということもありました。尊敬する父が、あんな風に言うんだから・・・と。

~東大剣道部に入部、初の女子部員に~

 東大学生時代は剣道ばかりやっていました(笑)。剣道部に入部したいと思って訪ねて行ったら、当時は女子の剣道人口は少なく、女子はいませんでした。「「女子部員を入れると風紀が乱れる」という意見もある。(昨年は女子入部を断ったけど、彼女と違って君は)、有段者だから、男子との稽古についてこられるようなら、という条件付きで入部を認めよう」と言われました。後からわかったんですが、しごいて追い出そうと考えていた人たちもいたようです。こうして女子部員第1号になりました。着替える場所探しから自分でやりました。孤独でしたが、剣道大好きでしたから。

 卒業後の進路の準備にかからなければならない頃は、家族のことや恋愛で悩んだり、社会の中での男女差を感じたりと鬱積した時期で、自分のそれまでの生き方が大きく間違っていたのではないかと思え、すっかり自信を失ってしまっていました。本来なら就職活動まっしぐらでなければならなかったのでしょうが・・・。剣道ばかりやっていて勉強していなかったので、大学院へ行くのも一つの選択肢かもしれないと。ただ、学問を一生の仕事にしたいとかいうような気持ちではなく、モラトリアム的な姿勢でした。そんな時、ゼミの先生であった後の私の師匠が、コンパの後お声をかけて下さり、そのことを友人に話をしたら「先生の助手にしてもらえるかもしれないよ」(私はその時まで、「助手」という制度そのものも知りませんでした)と。学問というより、先生のご人格に強い魅力を感じた故の選択、でも言ってみれば消去法的選択(「学問」に対して失礼ですが)で、大学に残りました。

~ハーバード・ロースクールに留学~

 1977年から東大法学部の助手として働き始めましたが、「早いうちに留学して来なさい」という先生の勧めで、24歳になった1978年から2年間ハーバード・ロースクールに留学しました。一生懸命勉強しましたし、苦労もしましたが、得られたものもとても大きく豊かで、自信回復に繋がりました。「第二の青春」と呼ぶべき貴重な経験でした。アメリカの学生は長時間勉強しますが、楽しむことも上手で、どんな時にも笑いを忘れません。それに、先生と学生は対等という考えがあって、先生にも堂々と反論します。日本だと先生に反論することに心理的なハードルがあるように感じます。

 私は先日、大学の英米法の最初の授業の時に、ディズニーランドで手に入れてきた、ディズニーキャラが沢山ついた特大の「シルクハット」をかぶりました。何年教師をやっていても最初に学生の顔を見るときは緊張しますし、学生も同様でしょうから、なんとか笑いをとりつつ興味を持ってもらおうと考えたわけです。授業はハードでも、どこかにユーモアの要素は入れたいと思っています。

~帰国して結婚、法学部助教授に~

 留学中に母の入院手術があって一時帰国しました。その時に親から見合いの話があり、母が病気なのにそばにいられないという申し訳なさもあってお見合いをしました。その後、相手が結婚を望んでいるというので、帰国後に結婚しました。研究者だとなかなか出会いもないし、女性としての自分に自信もなかったので、相手が望んでくれるのならばと、決断しました。

 帰国後再び東大に勤務し、1983年に助教授になり、96年に教授になりましたが、法学部初の女性教授ということで注目され、やりにくさもあったものの、なるべくそういうことは意識しないようにしました。

 夫は私がやりたいということはなんでもやらせてはくれましたが、基本的に仕事人間なので育児を分担してくれるというわけではありませんでした。その分、私の両親にはずいぶん協力してもらいました。娘は二人いますが、彼女たちがティーンエイジャーの頃は、父親に対する態度も思春期特有の、とでも言えばいいのか、まあそんな感じでしたが、今では仲よくなっています。

日本社会をよくするために、女性にがんばってほしい

~日本社会をよくするために、女性にがんばってほしい~

 私の専門は英米法で、ジェンダーと法などの授業も行っています。学生に教えていて感じるのは、男女を比較した場合、東大の中でも女子は男子よりも出過ぎない、言い過ぎないことを良しとする傾向があることです。(東大も日本社会の一部で、そして、日本社会では、男の子に対しても、そうした価値尺度が物差しとして大きな力を持っていますから、当然のこことしてそうなっているとも言えますが。)ジェンダーの授業をやっている時でさえ、女子学生よりも男子学生が、教壇に立って話していると(ちょっと下品な表現ですが)「食らいついてくる」手応えを感じます。発言についても。もちろん元気な女の子もいますが、全体の傾向として。こうした傾向を何とか変えられないものかと思います。

 私は高校時代、男のように生きると決めたと言いましたが、それは途中でできなくなりました。それをやっている限り、過労死する自由を手にするだけで、世の中は変わりません。競争は大事なことですが、ゲームのルールを変えない限り、社会は変わらないんです。少子高齢化が進み、暗くなるばかりです。今の若い人達がもっと明るく元気になれる社会を作るために、これからの女性には、「このまま男たちに任せておいたら、日本に未来はない」というくらいの気概を持ってほしいと思います。自分や家族の幸せだけでなく、社会全体の幸せを考える視点を持って、世の中を変えていってほしいです。それをチャーミングなやり方で実現してほしいと思います。これから東大で学ぶ女子学生には、「男たちにできないことが沢山ある(そうすれば良いのはわかっているけど、保身のために、今までのやり方に縛られ、人の目を気にしてできないことが多いのです)。私たちがしっかりしなきゃ」、という大きな気宇と気概を持って欲しいです。

(2012年6月取材)

女子中高生の理系進路選択支援プログラム
※本インタビューは科学技術振興機構(JST)による「女子中高生の理系進路選択支援プログラム」の支援を受け、作成しています。

プロフィール:
柿嶋 美子(Yoshiko KAKISHIMA)
東京大学大学院法学政治学研究科
教授

1977年東京大学法学部卒業、同年東京大学法学部助手。1980年にハーバード・ロースクールにてLLM取得。1983年東京大学法学部助教授。1991年法学政治学研究科助教授、1996年より現職。2011年7月~2012年6月、東京大学男女共同参画室室長。

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