研究を続ける上の支えとなったのは
「これがやりたい」というパッション(情熱)

人文社会系研究科 教授
白波瀬 佐和子
Sawako SHIRAHASE

白波瀬 佐和子

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白波瀬 佐和子

~小学校時代の夢は科学者~

 私は三人きょうだいの一番上ですが、のんびりしていてぼんやりした子どもでした(笑)。

 小学校時代は算数と体育が得意で、文章を書くのは好きでしたが国語は嫌いでした。「月に行くってどういうことだろう?」「万病に効く新薬を発見したらすごいぞ」などというようなことを考えていて、元々は理系だったのかなと思います。いろんなものになってみたかったのですが、「科学者」というのは将来の夢の上位ランクにありました。身近に科学に携わる人がいたわけではなく、具体的な専門分野の知識も全くないままに科学者という職業に漠然と憧れていたにすぎないのですが、「何かを発見したい」「新しい物を開発したい」と思っていました。

~なでしこがあったら、プロサッカー選手に~

 幼い頃はのんびり屋さんだったんですが、小学校ではリレーの選手にもなったことがあって足が速かったし、サッカーが大好きで男の子たちとサッカーをしていました。もし、その当時に「なでしこジャパン」があったら、絶対にプロサッカー選手を目指していたと思います。

 中学からは地元の私立の中高一貫校に入りました。といっても両親は全く教育熱心ではありませんでしたが、中学入学後すぐに家を引越す予定があったので、途中で転校させるのはかわいそうだと思って、私立校に入学させたようです。

 高校では理科系クラスにいて、一応数Ⅲまで勉強しました。ただ、父には「女の子は短大でいい」と言われていて私はお嫁に行って幸せになればよいと考えていたようです。当時の私はいかんせんのんびりしていましたので、そんな父の考え方に強く反発したり反旗を翻したりといったこともあまりなかったのですが、結婚するまでずっと親元にいるのもなんだかしっくりこなくて、とにかく4年制大学に行きたいと申し出ました。そこで父が出してきた条件が、「寮に入る」「家政学部にする」の二つでした。私は京都府北部に住んでいたので、父が許してくれそうな大学を考えて同志社女子大学の家政学部を受験しました。

~大学で、自分の将来を本気で考える~

 田舎で、よく言えばおおらかに育って、悪く言えば世間知らずだった私は、大学入学を機に親元を離れてはじめて「ああ、私のやりたいことはこれじゃないな」という気持ちが芽生えました。のんびりしていた私も、ここで初めて自分の将来について真剣に考え始めたわけです。このまま大学を出て結婚というのはどうもぴったりこない、どうしたら今の状況から脱出できるだろう考え、とにかくもう少し勉強して大学院に進もうと決心しました。自分でそう決めてからは真剣に勉強しました。人生で初めて、本気で勉強したと言ってもいいかもしれません。

 大学では哲学やフランス文学、社会学概論というように一般教養科目を手当たり次第履修して、経済学にも興味を持ち始めていました。目をかけていただいた先生からも「研究者になったらいいんじゃないか」などと勧められたので、その言葉にも励まされて、お茶の水女子大学大学院に進学し、そこで「家族社会学」と出会いました。

~アメリカ留学、その後オックスフォードへ~

 大学院修士課程での2年間は、いざ入学してみたものの将来が見えなくて、苦しい時期でした。そこで突破口を見つけたのが、海外でもう一度勉強し直すということでした。そこでまず、英語を勉強するためにハーバード大学のサマースクールに参加しました。ここにきて、自分を試してみたいという気持ちが高まって、アメリカでもう少し勉強したいと親に交渉しました。もちろん、日本を離れて父を説得するのは大変でした。親にしてみれば、秋になったら戻ってくるはずの娘が、「アメリカに残る」と言い出したんですから。長い手紙を書いて、結婚資金として用意してあるお金を使わせてほしいと頼み込み、なんとか承知してもらいました。父からも長い長い手紙が来ました。それが父から貰った最初で最後の手紙です。

 その後、ハーバード大学院で1年間社会学を学び、そこで社会階層論とジェンダー論、社会統計学・計量分析手法を学びました。その後、社会階層・移動論の研究者としてヨーロッパのみならず米国でも高い評価を受けているジョン・ゴールドソープ先生の指導を受けたくて、オックスフォード大学大学院に移り、本格的に博士論文に取り組みました。そこではチュートリアルといって指導教員と1対1で指導を受けますから、かなり密度の濃い内容でした。先生から受けた指導が、いまの研究者としての私の基礎になっています。留学生だからといって容赦はないわけで、本当に鍛えられましたね。ゴールドソープ先生には今でも感謝しています。

~結婚、出産、帰国、博士論文執筆~

 パートナーがアメリカの大学で教鞭をとることになったので、ニューヨークに移り1989年に結婚しました。正直、特に結婚にはこだわっていなかったのですが、これ以上親を心配させるわけにはいかないと思い、アメリカから一時帰国して日本で結婚式を挙げました。翌年男の子が生まれ、1995年に2人目の男の子が生ました。この頃は子育てに時間がとられ、論文も2年に1本のペースくらいの超スローペースでした。その頃不安がなかったかというとうそですが、ずっと取り組みたいテーマも決まっていましたし、細々とでも研究を続けることができればよい、とくらいに考えていました。

~国立の研究所、筑波大を経て東大へ~

 日本に戻って、まだ下の子が生まれたばかりでしたし、それほど積極的に職を探していたわけではないのですが、所属がないと論文を投稿することもできないので困っていました。そんな中お茶の水女子大の非常勤助手のお仕事をいただくことができました。形はどうであれずっと研究していければよいとのんびり構えていたものの、ここで1つ大きな壁にぶち当たりました。年齢です。日本の組織において年齢構成が重要で、実際にその頃年齢制限のために応募できないポストもありました。国立社会保障・人口問題研究所が組織再編で国研になるにあたり職員を年齢制限なしで募集しているのを見つけ、応募して幸い採用されました。研究所での仕事は、博士論文のテーマである社会階層・社会移動そのものでありませんでしたが、分野が少し違ったことが私の研究の幅を広げることになりました。すでに社会階層論の中にジェンダーという視点を入れて実証研究をしていたのですが、比較福祉国家論と人口学を、社会学をベースに融合するような政策科学の分野に強く惹かれるようになりました。

 2003年、筑波大学社会工学系で公共政策のポストが公募にでているのをインターネットで見つけて応募しました。研究所の仕事は面白かったのですが、一人の研究者として自由な立場で仕事がしたいと思ったのが、大学公募に応募した理由です。筑波大学では、都市工学や経営工学、数理経済学の先生方に囲まれてとても刺激的でしたし、楽しく仕事をさせいただきました。2006年、東京大学大学院人文社会系研究科に助教授として着任しました。東京大学はこれまで全く縁のないところでしたし、社会学研究室は日本を代表する社会学者を多く輩出したところなので、正直、私などで務まるか不安でした。それでも、同僚の先生方や学生(特にゼミ学生)たちにも恵まれてとても充実した研究・教育環境にいます。

~女の子だからといって、足踏みしないで~

 私が今の女子中高生に望むことは、東大に行きたいと思っているのなら女の子だからという理由で足踏みしないでほしいということです。東大だけがすごいとはいえませんが、日本の中ではとても恵まれた教育環境にある大学の1つだと思います。中学・高校生のみなさんにはいろんな可能性があるので、やりたいことにどんどんチャレンジしてもらいたいです。大学選びに限らず、「すごくやりたい」「やってみたい」というパッション(情熱)を大事にしてほしいと思います。「できる」という根拠がなくても、「やってみたい」という強い気持ちがあればそれなりの努力もするだろうし、その結果として道はできてきます。仕事についていえば、「女であること」と「いい仕事ができること」は決して反比例しません。自信をもってやりたいことをやってください。

 最後に、一度決めたことは少し大変でも続けてみることです。私自身、沢山仕事ができる時期ばかりではありませんでしたが、細々とでもずっと続けてきたから今があります。当時のことを振り返ると、今の私は想像だにできませんでした。将来はわかりません。だから、やってみることです。

(2012年8月取材)

女子中高生の理系進路選択支援プログラム
※本インタビューは科学技術振興機構(JST)による「女子中高生の理系進路選択支援プログラム」の支援を受け、作成しています。

プロフィール:
白波瀬 佐和子 (Sawako SHIRAHASE)
東京大学人文社会系研究科
教授

京都府出身。1981年同志社女子大学家政学部卒業、1983年年お茶の水女子大学大学院家政学研究科修士課程修了、1997年オックスフォード大学博士号(社会学)取得。1997年国立社会保障・人口問題研究所、2003年筑波大学助教授を経て、2006年東京大学人文社会系研究科助教授。2007年職名変更に伴い准教授、2010年より現職。

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