ブルース・リーがきっかけで研究者に。学内
保育園に支えられ、子育てと仕事の毎日に感謝!

大学院総合文化研究科 地域文化研究専攻 准教授
谷垣 真理子
Mariko TANIGAKI

谷垣 真理子

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谷垣 真理子

~未熟児で生まれ、「元気に育って!」が親の願い~

 私は九州の大分県大分市に生まれ、大学に入学する前まで地元で育ちました。小学校・中学校は学区の学校に行き、高校も地元の県立高校でした。
私は予定日より2週間早く生まれた未熟児でした。母の母乳の出が悪かったので、保育器のなかで餓死寸前になったそうです。それで、「まりのように丸々とした子になるように」と願って、親が真理子と名付けたと聞いています。

~「私も東大に行く!」で東大を受験~

 母校、大分県立舞鶴高校はちょっと変わった県立の進学校でした。戦後の新設校で初代校長の肝煎りで校技はラグビー。全国大会では常連校です。偉大な先輩は、歌手の南こうせつ。「音楽かスポーツ(ラグビー)をやれ、そうでなければ勉強を」でした。

 東大進学を目指したのは、高校2年生の夏です。1年生の時、私と同じような成績の男子は先生から東大受験を勧められていましたが、私は勧めてもらえませんでした。

 高校2年生の夏に、東大在学生が母校訪問を行い、何人かと一緒に東大受験をくどかれました。ある先輩(司法試験に学部4年で合格)から「参考書なんかやらんでいいよ。教科書をきちんと理解すれば、受かるよ。教科書は300ページくらいやから、文庫本感覚でさっと読めばいいんよ。」と言われ本当に驚きました。東大がぐっと身近に思えた瞬間でした。

 「私も東大に行く!」で、東大への挑戦が始まりました。

~予備校抜きの受験勉強~

 数学が苦手だったので理系は早々にあきらめ、受験先は文科三類に決めました。高校の先生から「東大は3年になるときに学部を決めればいいんだから、行ってからゆっくり考えればいい」とアドバイスされました。

 一時期、数学の小人数の教室に通った以外は、予備校には行かず、わからないことは学校で先生に質問しました。赤本をのぞけば、使った問題集は学校で通常配布されたものでした。赤本を使ったのも3年の冬。受験勉強は、ひたすら「教科書を理解し、基本問題を解く」ことでした。

~ブルース・リーから香港への興味~

 何を勉強するかは決めていなかったものの、今の研究テーマには、中学のころすでにめぐりあっていました。私の研究テーマは現代香港論です。きっかけはブルース・リーでした。

 中学入学早々、友人に誘われるままに校則をやぶって『小さな恋のメロディ』『ロミオとジュリエット』など映画を観にいきました。そうして通った映画館で『燃えよドラゴン』の予告編を観て、ブルース・リーを「かっこいい!」と思い、気がついたら13回『燃えよドラゴン』を観ていました。
その時すでにブルース・リーは他界しており、天国のリー様が読めるように英語でファンレターを書こうと思いました。当時、英語の授業は代名詞でつまずき、かなりの低空飛行。ファンレターを書きたい一心で英語を猛勉強しました。また、古本屋で香港ガイドブックを買い、さらに北京放送の日本語放送を聞いたりしました。

 気がつけば、英語の成績はあがり、私自身はブルース・リーから、ブルース・リーという人を生み出した香港という土地に興味を持つようになっていました。

 人生の節目で、私は不思議に香港と縁がありました。雑誌の「海外ペンフレンド募集」記事で、香港の人を見つけて文通しました。1975年に大分ででフェスピック(FESPIC極東・南太平洋身体障害者スポーツ大会)が開催された時には、街で偶然、香港の代表選手と出会いました。これが、私が英語で話をしたはじめての経験で、その相手は香港の人だったのです。

~アルバイトと奨学金で自活~

 東大には現役で合格し、東大白金学寮(女子寮)に入寮しました。日本育英会、山岡育英会(3年時からは里見奨学会も)から奨学金をいただき、父の友人が紹介してくれた家庭教師のアルバイトを始め、東京生活が始まりました。最初の2ヵ月は親から仕送りをもらいましたが、もう大丈夫だよというと、本当に仕送りがなくなりました。父母はかなり無理をして私を東大に入学させてくれたのだと思います。

~負けてたまるか、地方出身女子の意地~

 大分から出てきた私にとって、東京では毎日が刺激的でした。家庭教師先では、東京の受験競争の厳しさに驚き、新宿の紀伊国屋書店ではビルがまるまる本屋さんであったことに驚きました。

 でも、いちばんとまどったのは、同級生の言動でした。クラスで喫茶店に行ったとき、「ここはいいから」とコーヒーを男子学生にごちそうされてびっくりしました。ある時「チーズケーキはちょっと。。。お金がきついの」と言うと、「え、そんなにお金がないの。かわいそうだね」「お金がないなら、大学に来なかったらよかったのに」と言われ、悲しかったですね。

 ところが、アジアからの留学生は、学費を稼ぐことが当たり前のことでした。香港からの留学生に「小学校5年生から家庭教師で文房具代を自分で工面した」と言われ、うれしかったのをおぼえています。

 やや昔かたぎな学生生活を送りましたが、自分で学費と生活費をやりくりしたのは、その後の私の大きな財産となりました。

~気温35度、湿度90%の香港で院進学を決心~

 もう少し勉強したい気持ちはあったものの、大学卒業後は就職を希望していました。ただ、男女雇用機会均等法の施行前の世代でしたので、同級生の男子には、会社案内がダンボール箱で3箱送られてきたのに、私のところにはハガキが3通来ただけ(当時エントリーシートはありませんでした)。いやでも男女格差を感じました。

 しかし、就職説明会に出てみると、周囲は何となく自分と同じように院進学をあきらめきれないような女子学生ばかりでした。「何時に仕事は終わりますか」という質問に、企業の方から「本当に弊社への就職を希望されているのですか」と聞かれ、恥ずかしかったのを覚えています。

 宙ぶらりんの気持ちをかかえながら、せめて卒論では大好きな香港のことに取り組みたいと思いました。当時はインターネットがありませんでしたので、資料は限られており、日本で資料の多かった台湾について書くことを周囲からすすめられたこともあります。しかし、香港までの航空券代を出世払いで貸してくださった教授がいらっしゃり、思いもかけず、卒論の資料集めのための現地調査が実現しました。気温35度、湿度90%の香港を冷房のない部屋で過ごしながら、院への進学を決めました。

 1983年、大学院の総合文化研究科の地域文化研究専攻に一期生として進学しました。

~香港留学と結婚~

 主人とは学部時代から付き合っていました。博士課程進学後、香港に留学する前に結婚を考えたのですが、「まだ学生だし、これから留学をするから」と、私の父が難色を示し、結婚したのは留学から帰国してからでした。1989年の5月に結婚しました。主人は留学に反対もせず、手紙をこまめにくれました。主人も地方の県立高校出身者で、私と同じように学費と生活費を自分で工面しました。同じような体験を持ち、私のことも仕事のこともよくわかってくれ、本当にありがたい存在です。

~東海大学で学んだ教育と研究~

 就職は予想外に早く決まりました。1989年9月から東海大学文学部に専任講師としてお世話になりました。所属は文学部文明学科で東アジア文明を教えることになりましたが、どう教えたらいいのか手探りの状態でした。

 大学からは、「この大学に入って本当に良かったと卒業生に感じてもらい、自分の子どもも東海大学に入れたいと思われるような学園にしたい」と言われ、教育の大切さを説かれました。一方、学生さんには「先生、論文書いているの?」とよく聞かれ、プロとして論文を書くことの必要性を学びました。

~東大駒場で、仕事と子育てを楽しむ~

 香港は1997年に中国に返還されましたが、翌年の1998年に東大から声がかかり、私も駒場にもどりました。1、2年生に中国語を教え、3、4年生にアジア研究を教え、大学院で院生の指導にあたっています。

 そうこうしているうちに、四十の大台にのり、もう子どもはできないかもしれないと思っていた頃、子どもを授かりました。生まれたのが2月なので申し込めるのは駒場キャンパス内の保育園しかなかったのですが、生後半年から預かってもらい、本当に助かりました。

 職場は私の妊娠・出産を好意的に受けとめてくれ、世間で言うような不愉快な思いをすることなく研究と教育を続けています。主人は会社勤めでしたが、早めに仕事から帰り、夜泣きする子どもにミルクをあげてくれました。親はともに遠方の地方で、直接手伝ってもらうことはできませんでした。

 高齢出産であったため、育児と介護が重なり、時にはつらいこともありましたが、やはり子どもが生まれてきてくれたことに感謝し、子育てできる喜びを感じています。

~自分の人生を自分で考えて、将来を決めてほしい~

 私はつらい時に「10年後の自分が、今の自分をどのように見るか」を考えます。10年後の自分があの時頑張ればよかったと後悔しないように、もうひとふんばりしています。

 高校生の皆さんには、「18歳を過ぎたら自分の人生に責任を持つのはあなたです」と申し上げたいです。周囲の人からいろいろ意見されると思いますが、「ほんとうにそれでいいのか、10年後の自分にはどうあってほしいのか」と一度は自分に問いかけてみてください。見ない夢はかないません。やりたいと思ったことには挑戦してほしいと思います。

(2013年3月取材)

女子中高生の理系進路選択支援プログラム
※本インタビューは科学技術振興機構(JST)による「女子中高生の理系進路選択支援プログラム」の支援を受け、作成しています。

プロフィール:
谷垣 真理子 (Mariko TANIGAKI)
東京大学大学院 総合文化研究科 地域文化研究専攻
准教授

大分県出身。1983年東京大学教養学部(後期)卒業。大学院入学後、1986年から1年間香港大学に留学。1989年9月同大学院総合文化研究科博士課程修了。同年10月より東海大学文学部に就職。専任講師、助教授を経て、1998年より東京大学大学院総合文化研究科に助教授として奉職。2007年より役職名変更により現職。博士(学術)。

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