研究も子育ても:
自分を信じて、好きな道を進む

大学院医学系研究科地域看護学分野 教授
村嶋 幸代
Sachiyo MURASHIMA

村嶋 幸代

インタビュー一覧 > 村嶋 幸代

~ナイチンゲールよりキュリー夫人にあこがれ~

 子供時代は化学の実験が好きでした。中学では化学部に所属していて、学校でも家の納屋でも試験管を振って実験をしていました。父親が農芸化学の出身だった影響かもしれませんが、実験をして何かを究めるのが好きでしたね。高校は越境して福岡市内の県立高校に通い、硬式テニス部に入りました。テニスで真黒になっていましたが、好きな学科は理科系でした。現在は地域看護学を専門にしていますが、ナイチンゲールよりも化学者・物理学者であるキュリー夫人にあこがれていました。

~「生活」に関心があり、理科二類から保健学科へ~

 大学を選ぶにあたって、親から言われていたことが二つあります。一つは「手に職を持ちなさい」ということ。勉強のために必要なお金は出すから、自分で生計を立てられるようになってほしいというのが母親の希望でした。もう一つは「結婚して子供を産みなさい」ということ。子供を産むと人生の色々な事がわかるし、人間の幅が広がるからと、強く言われました。ですから、「自分は仕事を持つことと子供を持つことの両方をやらなくてはいけない」ということは、インプットされていました。
 高三の時には化学系の学部のある大学を受験しましたが、受験勉強に集中できず、浪人しました。そして、浪人中に目に留まったのが受験雑誌「蛍雪時代」の隅に載っていた「東京大学の保健学科(現健康総合科学科)では、看護師と保健師の資格が取れる」という一文でした。資格には引かれましたが迷いもあったので、東大は入学時に進路を決めなくてもいいというのも魅力でした。福岡から東大は遠い存在でしたが、そこで初めて、保健学科に進める東大の理科二類の受験を決め、合格しました。

 当時の私は、生活や看護に興味を持っていました。親類には医者が多かったので強く勧める人もあったのですが、ちょっと違う事がやりたいと考えていました。「人間と生活を科学する仕事」「人を育てる、生きることを支える仕事」をしたいと思っていましたし、看護学というのは、病気の人や人の成長を支え、その人が自分の力で再生していくのを助ける学問、人間の本質に迫るサイエンスだという認識があり、この学問を追究したいと思いました。

 理科二類で学び、次の進路選択で保健学科に進みました。37人の保健学科の同級生の中で看護学を選択したのは7人です。この7人で東大病院などに実習に行くのですが、それぞれ関心を持つところが違いました。私は看護師の動線や効率など、マネジメントの分野に興味を持ったので、大学院の修士課程では「保健管理学」の教室に進学しました。後になって、この教室はかつて「公衆衛生看護学」という名前だったと知り、現在の私の専門である地域看護学や保健師の教育とのつながりを感じました。

~苦労が多かった子育てしながらの院生生活~

 大学院に進むことは自然な選択でした。大学の4年生というのは、若干の知識はついたけれど、それを世の中に生かすスキルを持っていない中途半端な状態だと思ったので、もっともっと力を付けたいと考えて修士課程に進学しました。
 大学4年の時に高校の同期生と結婚し、院生になった年の6月に女の子を出産しました。仕事として人を育てること、生きることに関心があったので、子育ての経験も「看護」の分野では役に立つだろうと思いましたし、当時は恐いもの知らずで、子供を持つ事がリスクだとは思い至りませんでした。
 でも、出産してからは大変でした。8月から大学院に復帰したのですが、まず保育園を探すのが大変でしたし、研究室の教員からは、「子供が可哀想だ!やめろ」と言われました。自分自身も、修士として求められる統計力や分析力などの力不足に悩み、しかも子供がいると、自分のために使える時間が少なくて、八方塞がりの辛い状態でした。無認可保育園の費用も大きな負担だったので、「やめようか」と思い悩む日々が続きました。しかし、修士をやめてしまえばこの子を抱えて家にいるしかない、やめたら社会から永久に取り残されてしまうという危機感がありました。また、子供は女の子だったので、ここで、子供を理由に仕事を辞めたら、将来、この子も同じところで躓くだろうし、それでは進歩がないと思って踏みとどまりました。それからは48時間サイクルで研究室に通いました。1日目はふつうの生活、2日目は昼も夜も研究室で研究するという暮らしです。若かったからできたんですね。

 修士の2年目には子供を「東大保育園*」に入れることができて助かりました。この園は東大病院の看護師が核になって作られた無認可保育園で、「東大に働き、学ぶ者」は誰でも、子供を預けることができました。この保育園があり、父母仲間や双方の両親など周囲のサポートがあったおかげで、何とか学業が続けられたと感謝しています。

 東大保育園の運営は父母会が行っていましたが、あまりに経営が大変で、数年後に文京区に移譲されて認可保育園になりました。しかし、認可されると、仕事を持つ人が優先されるので、‘好きで勉強している’学生の子供が利用するのは難しくなってしまいました。

*現在のたんぽぽ保育園(本郷キャンパス内)

~短大助手の仕事をしながら、博士号を取得~

 修士論文を書いていた時に、神奈川県立衛生短期大学で助手を探しているというお話があり、研究室の先生に勧められて就職しました。この大学には養護コースがあり、養護教諭2種の人材を養成していました。養護教諭というのは小中学校の保健室の教員です。9年間勤めましたが、毎年学生40人(20組)の教育実習先を確保するために、小中学校の校長先生にお願いの電話をするのが大きな仕事でした。このおかげで、人と折衝する力やマネジメント力がつきました。

 その間に博士号を取ることに決め、「学童の身長の地域差とその背景要因」をテーマにしました。身長・体重発達の地域差は何と関連しているか、という研究です。学校保健統計で、毎年の各都道府県の平均身長・体重が出ていましたので、まずそれを統計的に分析し、その後に、神奈川県に焦点を当てて、食生活や人々の生活と絡めて身長の地域差を調査・分析して博士論文にしました。

 その間に子供も二人できました。最初の子は卒論を終わって院生になった1975(昭和50)年に生んだのですが、二人目は修論を終わって短大に勤めていた1979(昭和54)年に、三人目は学位論文を取った後の1986(昭和61)年に生みました。女、女、男なので、同級生からは、卒子、修子、博男って言われています(笑)。子育ては大変でした。夫は研究所に勤めていて私より時間があったので、よく遊んでくれました。それでも時間が足りなくて、2番目の子が生まれた直後に福岡の私の両親が上京して近くに住んでくれました。保育園と学童、両親の手助けがあって、何とか子供たちは無事に社会人になりました。

~福祉の要に看護職がいるシステムを推進~

 博士号を取った後、聖路加看護大学に移りました。聖路加では、公衆衛生看護学を教えながら、中堅の先生たちと協力してカリキュラム改革などをやりました。その後、東大の大学院に「地域看護学」という教室ができ、初代の教授が私を呼んでくださって、1993(平成5)年から助教授として東大で教えることになりました。

 当時、デンマークの24時間ケアを見学する機会があったのですが、私はそこで、福祉の要に看護師が活躍している姿を見ました。24時間ケアの仕組みを作ったのは自治体で働き在宅看護をするホームナースでしたし、夜間帯のケアの責任者もヘルパーではなく看護師でした。ケア全体をマネジメントするのはナースだったんです。デンマークは福祉が進んでいると当時言われていましたが、その要に看護職がいることは日本には伝わっていませんでした。看護学の研究者が東大にいて、各国の看護学の研究者と直に交流をすることの重要性を感じました。

 その時に一緒に見学に行ったのが滋賀県水口町の保健師なのですが、その保健師が水口町のケアシステムを整えるという仕事を、ずっと一緒に協力して行ってきました。最初は住民のニーズを調査し、ニーズを拾い上げて町の条例改正をし、町立の訪問看護ステーションを作り、24時間ケアをシステムに乗せるという仕事をしてきました。1つの町だけでは限界があるので、その後、滋賀県の湖南市にフィールドを移し、規模を保健所の管轄地域に拡大し、その後、福岡県にまで対象を拡げて、地域看護システムの開発・検証を続けています。

~看護学は生活を科学することができる学問~

 高校生や社会の人達に知ってほしいのは、「看護学」は、心と体のメカニズムと生活の関係を解明し、より良い方向に向けて支援する方法論を探求するサイエンスだということです。看護学は、身体、心、生活、環境の4つをマネジメントすることにより、人間の治癒力を高める方法を開発します。
 看護学を基盤にした専門職としては、看護師・助産師・保健師の3職種があります。看護師は、相手の心身のメカニズムに働きかけ、その人を安楽にすることによって、生きる力、自己再生能力を引き出します。助産師は、女性の妊娠から出産、その後まで、ダイナミックに変化する時期を安全に乗り切るように支援します。少子化の日本にとっては重要な専門職です。また、保健師は、その多くが行政の第一線(市町村・保健所・国等)や産業界で働いています。社会や組織の問題は、健康問題として出てくることが多く、それを手掛かりに社会・組織に働きかけ、根本的な解決を目指します。

 保健師と助産師は、現代社会が抱える問題に、東京大学が解決策を提示する上で、非常に重要な専門性を備えています。また、仕事を行っていく上で、研究能力が求められます。両職種とも、その教育は全国的に大学院修士課程に移行しつつありますが、東京大学に不可欠な科学だということを、ぜひわかっていただきたいですね。看護学には、今までは女性の研究者が多かったのですが、今、特に東大では、男子学生も多くなり、伸び盛りの学問です。

 私の学生時代には、看護学を学べる大学は日本に3校しかありませんでした。平成23年度には学士課程が194校、修士課程131校、博士課程も62校と、大きく伸びてきています。つまり、世の中はどんどん変わるので、自分の力を信じて、自分の好きな事に取り組んで下さい。

 最後に一つ、私がこだわって実現したことをお話ししたいと思います。私が学業を続けるのを助けてくれた「東大保育園」が文京区に移譲され、認可保育園になったために、実質、学生が利用できなくなったことは、先にお話しました。私は、「自分は、東大保育園があったお陰で学業を終えることができたのに、今の学生は保育園を使えない」と、ずっと心の重荷になっておりました。その後、私は、男女共同参画室の担当者として、東大が運営する学内保育園を4つ作りました。そして、その基本方針に自分の思いを反映させました。つまり、利用対象者として、教職員だけでなく、ポスドクや学生を正式に位置付けたのです。また、東大の保育園は、東大が世界に伍していく時に、必要なインフラだという考え方です。

 東京大学に働き、学ぶ者たちが、研究や勉学と子育てを両立させて成長していくことは、豊かな社会や文化を育成することにつながると信じています。

右から小宮山宏前総長、村尾美緒准教授
(理学系研究科)、村嶋教授、辰野裕一元理事
(2011年12月取材)

女子中高生の理系進路選択支援プログラム
※本インタビューは科学技術振興機構(JST)による「女子中高生の理系進路選択支援プログラム」の支援を受け、作成しています。

プロフィール:
村嶋幸代(Sachiyo MURASHIMA)
東京大学大学院医学系研究科地域看護学分野
教授

1975年東京大学医学部保健学科卒業(看護師・保健師)、東京大学で博士号(保健学)取得。聖路加看護大等をへて2001年より現職。2003年4月~2011年3月健康科学・看護学専攻長。2006年4月~2007年3月東京大学男女共同参画室環境整備部会会長、2007年4月~2009年6月東京大学男女共同参画室室長。現在全国保健師教育機関協議会会長、日本地域看護学会理事長。専門は地域看護学。高齢社会におけるより良いケアシステムの構築やネットワーク形成をめざしている。

医学系研究科 地域看護学分野のページ

©東京大学