この本は、博士論文をもとにまとめた私のはじめての単著である。工学系分野にありながら、建築学科 / 専攻には歴史を専門とする研究室がある。研究対象やその方法はさまざまだが、そのなかで私は「都市史」を専門に、日本近世の都市空間を対象とした研究をすすめている。
本書の舞台となる城下町・江戸は————すでにそのすがたを大きく変えてしまってはいるが————私たちが暮らす東京の直接の母体になった都市である。これまで、私が専攻する建築学分野からも江戸を対象とした研究は少なからずあった。それらは、江戸がいかに計画、形成、開発されたのか、あるいは、近代化のなかで江戸がどのような継承と断絶を経て、東京へと再編成・再開発されていったのかといった、いわば空間の“変化”を問うものが多かった。というのも、建物のかたちやデザイン、その計画性や成立過程の考察を主たる関心事とする建築学の立場からみると、都市がそのすがたをドラスティックに変容させる時期は大変に魅力的で、空間史としてのダイナミズムを捉えることができるからである。
その一方、こうした“変化”がみられない時期については、これまでの研究ではあまり扱われてこなかった。いやむしろ、こうした時期を対象化する視点や方法すら提示されてこなかったように思われる。こうしたなか本書は、都市拡大が収束した18世紀初頭から19世紀までの“変わらない (ようにみえる)”江戸の都市空間の歴史を描くことを試みたものである。具体的には、インフラの維持や管理といった一見すると地味な人びとの営みを、都市空間を“かたちづける”建築的な行為として積極的にとりあげ、都市空間がいかに秩序化され、維持されていった / されてこなかったのか。そして、そのような都市空間はどのような実態をもって1世紀ほどのあいだ存続し、人びとの暮らしをとりまいていたのかを明らかにしようとしている。
このように書いていると、歴史的な町並み保存や建物の維持、ひいては持続可能な開発目標 (SDGs) などといった現代的な課題設定が、本書の起点にあるように思われるかもしれない。しかし、私の意図するところはまったく違う。むしろこのような課題設定そのものを歴史的なものとして把握すること。言い換えれば、“保存”や“維持”、“持続”といった聞こえの良い言葉にまとわりつくある種の政治的・社会的正しさや肯定的ニュアンス (保存すべき、維持すべき、持続すべき) からいったん距離をとって、“保存”とは何か、“維持”とは何か、“持続”とは何か、を歴史のなかで考えることが必要ではないかというのが、私の根底にある問いである。
本書はあくまでも研究論文をもとにした学術書であって、私がかかげた原理的な問いに十分に応えるものではない。ただ、こうした地道な作業のうえに、私たちが生きる現代都市を批判的にみる糸口を少しでも見いだせるのではないかと思っている。
本の目次
I 空間史研究への視座と城下町江戸
第1章 江戸町人地研究と本書の視角
第2章 江戸の都市史研究と建築史学
II 江戸町人地と道
第3章 道支配と管理体制——町人地における歴史的展開
第4章 道と「持場」——維持管理の空間構造
III 江戸町人地と堀川
第5章 堀川の空間動態と存続——「古町之川岸」の実像
第6章 江戸河岸の片影——神田堀と材木仲買
IV 都市空間をささえる人びと
第7章 境界領域の規制と空間認識——沽券地・庇地・公儀地
第8章 町空間の再生産と民衆世界——鳶人足と火災復興
終章 江戸町人地の空間構造、その史的段階