東京大学創立130周年記念式典

 

『私と東大』

 東京大学の130周年記念に講演をする機会をもったこと、大変光栄に存ずる次第です。

 私は昭和の戦争の中で育った世代です。日中戦争が始まった1937年の翌年(1938年)に京都の同志社中学に入学、それから真珠湾攻撃が始まる翌年(1942年)の4月に第三高等学校に入学、さらに敗戦の1年前(1944年)に東京帝国大学に入学しました。普通なら、三高の学生は京都大学に行くわけですが、私は「十数年住み慣れた京都を出たい」と思い立ち、東京帝国大学に参りました。戦争の中に置かれた人間は永遠の知識のようなものを求めたがるものです。高等学校時代、私は、ギリシアの自然哲学、物理学の世界観などに関心を持ちました。その当時、相対性原理などが現れ、物理学の分野では非常に革命的な発展が起こっていました。我々人類の自然観が変わったのですね。「20世紀は物理学の世紀だ」とさえ言われていました。それで、東京帝国大学理学部物理学科を志望したわけです。それで、1944年9月に理学部物理学科に入学許可されるわけですが、実は無試験入学でした。当時は物理学の人気が高く、成績いい理科系学生の多くが物理学に行った時代です。ところが、戦争中だということで入学試験がなかったんですね。もし、入学試験があったら入れなかったかもしれません(笑)。内申書による合否で9月入学。図らずもアメリカ式だったんですね。
  戦時中ですから、私も戦争による異常な体験をしております。3月9日、東京の大空襲で、私の下宿から焼け出されました。ご存じのように、下町は全滅して、罹災者100万、死者10万という最大の被害を受けたわけです。当時、多くの文科系学生は学徒出陣されていましたが、理科系学生は講義を受ける毎日でした。大空襲の翌日、田中務教授は、いつもと変わらず25番教室で「物理学実験第一」の講義をなさいました。戦争の話もされずに、いつもどおりやられたことに「東京帝国大学アカデミズムの存在感だ」と感じた記憶があります。

 1900年にマックス・プランクが「エネルギーも量子だ。粒々だ」と唱えました。この考えは古典力学を超える革新的な思想でありまして、我々学生に新鮮な刺激と強烈な感動を与えてくれました。私の学生当時、「量子力学」という学問は普及が限定された、やや秘蔵の学でありましたが、そんな量子力学を身につけることができたのは東大理学部で学んだおかげだと思っております。そのおかげもあって、大学卒業の10年後、東京大学に提出した「量子力学的トンネルダイオード」の博士論文がノーベル賞の授賞対象に選ばれました。博士論文がノーベル賞の授賞対象となったケースは、世界中でも、そう多くはないことだと思います。
  ところが、東京大学からは、この時、何の祝福も……(笑)。受賞当時、ものすごくたくさん祝電が来たのですが、私の秘書は、アメリカ人の秘書ですが、「なぜ、あんたの学校から来ないんだ」と言っていました。それはかまわないんです。たぶん、それもあって、今日は小宮山総長からこういう光栄な機会をいただいたものと考えています(笑)。

 トランジスタの発見は1947年ですが、この発見から私が学んだことは「真空管の研究をいくらやってもトランジスタは生まれてこない」ということでした。社会が安定している時代では「将来の現在の延長線上だ」と思いがちですが、変革の時代には個人の創造力により革新的なものが誕生します。「将来は(延長線上にあるのではなく)創られる」のだと思います。いつの時代も新しい分野は若手の活躍の場になります。大先生はあまりご存じない分野なので自由に研究ができました。エサキ・トンネルダイオードもその一つで、極端に薄さの限界に挑戦したものです。いろいろな苦心はしたんですが、電子の、いわゆる量子力学のヤヌス的な二元性というものに基づくトンネル効果の実験的検証に成功したのが私の成果です。
  東京通信工業(現・ソニー)に在籍していた頃、1957年に「トンネル効果」を証明した2枚ほどの短い博士論文を東大に提出しました。すると、東大の事務官は開口一番、「これは短すぎる」と言いました(笑)。短いと東大は受け付けてくれないのかと思いましたが、たしかに、非常に短い(笑)。その翌年の1958年、ブリュッセルの固体物理学国際会議において、私は「トンネルダイオード」に関する論文を発表しました。トランジスタを発明し、1956年にノーベル賞を受賞されたウィリアム・ショックレー先生が基調講演をされたんですが、その講演の中で「Most beautiful demonstration of Zener effect so far achieved is presented at this symposium by L.Esaki of Tokyo」と言ってくれました。私の研究成果を評価してくれたので、私の講演会場はもういっぱいになりまして。たぶん、だれにもわからないような英語を使っていたのに違いありませんから、余計に人気が出たという思い出があります(笑)。
  私に創造力があるとしますと、これは間違いなしに東京大学に負っているわけです。しかし、ここで私の偏見が許されるならば、それは戦中と戦後の混乱期、トップマネジメントが自信を失い(笑)、東京大学らしい正規の教育を受けず、自由奔放に大学生活を送れた結果ではないと言い切れないでしょう。ここに総長がいらっしゃいますが(笑)。どうも(笑)。
 
  ここからは「サイエンスの心」についてお話したいと思います。
  ノーベル賞受賞の際は英語で講演したのですが、ある出版社からそれを日本語訳にしてくれと頼まれました。私は、非常に文学的に、大江さんではありませんが、非常にいい文章を書いて渡しました。ところが、「これは本物じゃない」というクレームがついたわけです。自分の英語講演を私が日本語に訳したのに本物ではない……直訳を避けて読みやすい日本語にすると同一性が喪失するんですね。これは重大な問題提起なんです。西欧の論理的思考力が生んだサイエンスと、日本文化というものが次元を異にするということ、これは大変重要な問題です。
  では、そもそも「サイエンスの心(a Science Mind)」とは一体何か。これはラテン語で言うところの「Cogito ergo sum」、つまり、「考える、ゆえに我あり」ということです。サイエンスの進歩に貢献した自然哲学者や科学者達の論理的思考力のことです。三次方程式の解法のような数学的技術よりも論理的思考力を訓練することが必要であるように思います。

 動物は進化とともに予測機能なるソフトを生み出しました。動的適応性を最適化するために、環境(敵、獲物、競争相手、恋人の出現)に先んじて制御するという戦略を身につけました。これは因果律の逆を行く先行性です。例えば、弓を射られた時に、じっとしていると弓が当たるが、それを予測して避けるのは先行性ですね。その先行性により自分が主体性を持つことに気づき、「心」が芽生えました。その「心」が、やがて、「サイエンスの心」へと進化し、科学文明が築かれました。「サイエンスの心」こそ、latest product evolution、進化の最終成果だということを強調したいと思います。

 「サイエンスの心」は、まず疑問を発して、思考するという心です。これは、「疑わずに信じるべし」という「宗教の心」とまったく対照的であり、また、「やまと心」とも隔たりがあります。
  日本人の一つの真理は「やまと心」だと思いますが、「サイエンスの心」が理性的なマインドであるのに対して、「やまと心」は何事に対しても深い感情、ハートなんですね。西暦800年前後に仮名文字が発明されたことで、古今和歌集や源氏物語など「やまと心」の傑作が生まれました。それらは自然と人間、つまり、四季折々の美感と人間の恋愛過程の心情が中心課題で、論理的思考などは下積みでした。

 西欧では、二元論的に話を進めるということが大事ですね。知と情、偶然と必然、成功と失敗、勝利と敗北。量子力学では先ほどいったようにヤヌス的な粒子。両者の相対する観念で、両者の関係においていろいろなものを持ち出す。ところが、日本人は全体観のもとにとらえようとする傾向が強く、その典型的なものは「心」。心には、思考して判断する知性も喜怒哀楽する感情もすべて含まれているわけです。心を英語でいいますと、mind spirit sincerity、thoughtfulness、sympathy、heart ……これ全部が心なんですね。
  ところが、夏目漱石の『こころ』という有名な作品がありますが、ラフカディオ・ハーンは、『こころ』というタイトルを『the heart of thing』と訳すべきだと言いました。mindではないんです。日本人が「心」といったら、heartに重きが置かれる。これをもしmindととらえると誤解を招く。

 サイエンスの研究者の仕事は、ただ問題を解くだけではありません。サイエンスを進歩させることが決定的な仕事です。未知の問題を見出して解答を得るのがサイエンス。温故知新、「過去を尋ねて指針を得よ」という言葉はよく使われますが、「サイエンスの心」は「未来を尋ねて指針を得よ」ということですね。では、どのように未来にアプローチするかというと、科学の研究によってアプローチするわけです。
  「サイエンスの心」は決して自然科学や工学の研究者だけに必要なものではなく、社会科学や人文科学の研究者にも求められます。さらに、政治や経済の実務者にも求められるものだと思っております。
  ありがとうございました。(拍手)

『東大と関わって良かったこと』

 私が東京大学の学生だった頃は戦争時代でした。東京大学には、それなりにいろいろやっていただいた記憶があります。私は住むところがなくなるような事態になったんですが、戦後、寮を作っていただいたりしまして、生活はいろいろ考えていただいたように思います。それから、東京大学は、その当時、割と放任主義で自由がありました。それが私にとってマイナスにはならなかったように思います。日本経済新聞で「私の履歴書」というものを書きまして、最近、本になったんです。その本にも東京大学のことが書いてあるんですが、良い先生方が刺激を与えてくれたことが、私にとって決定的な出来事でした。良い先生というのは、むしろ老先生よりも若い先生方ですね。高橋秀俊さんは固体論ということを教わりました。数学では小平(○○)先生に教わりました。湯川(秀樹)先生にも教わりました。湯川先生は東大で兼任をされていましたから。それから、朝永(振一郎)先生も東大の先生ではなかったですが、原子核理論などを教えてもらって。その当時としては良い先生が刺激を与えてくれたと思います。

『困難にどう立ち向かい、どう克服したか』

 困難と言うと、生活上いろいろな人生の困難もありますし、研究上もいろいろな困難があります。でも、デモクリトスは「この世のいろいろなことは偶然か必然の帰結である」と言っていますね。たとえば、私がノーベル賞をもらったことは、本当に必然かどうかということですね。あらゆるものに必然と偶然の要素があるなら、たぶんノーベル賞をもらったことにも偶然の要素もあるわけです。つまり、チャンスの女神が微笑んでくれるということが非常に重要だと思うんです。
  大学時代の私は良い先生に恵まれましたし、良い友人達がいました。やはり東京大学では、全般的には非常にいい教育を受けたと思います。ですから、私などは、いろいろな点でかなりチャンスに恵まれたように思います。そうすると、私のノーベル賞もチャンスの女神のほうに渡したほうがいいのかもしれません。しかし、そうではないですね。ルイ・パスツールがこんなことを言っています。「Chance favors the prepared mind」。つまり、チャンスは preparedした人間のところにやってくる。つまり、私の功績は、そのチャンスを掴んだことだと思います。
  米国に住んでいた時期には多々、困難がありました。外国に住むことは学問的にも非常に困難があるわけですね。まず、最初に言葉の問題。次にその国の人々との考え方の違い。しかし、外国で生活したことは私にとって非常にプラスでした。難しかったけれども、それがプラスだったということですね。もう一つは、物理学が非常に国際的な学問であったということですね。やりがいがありました。やりがいがあるので、とことんまで限界に挑戦できました。それから、私の家内がいろいろ援助してくれたということ、彼女は絵描きなものですから、私のさっきのおもしろい絵(講演中に披露されたパワーポイント画像)は彼女が描いてくれたものです。
  研究面での困難と言うと、お金のことですね。私が研究を始めた頃は、研究費をどう得るかが大変難しかったですね。大学卒業後、当初は川西機械製作所(後の神戸工業)でしばらく研究をやったんですが、会社が経営難に陥りまして、研究ができなくなりました。それで、人を介して、東京通信工業(後のソニー)の井深(大)さんと盛田(昭夫)さんに会いに行ったわけですね。東京通信工業は500人くらいのベンチャー企業でした。井深さん、盛田さんと10分くらい話したんですが、お二人ともなかなかカリスマ性があって「これはおもしろそうだ」と思って入社したわけです。
  それから、米国に行ったもう一つの理由は、研究費が大きかった。IBMという大きな会社に勤めたんですが、実は私がやっているようなことは、会社に直接関係ないものですから、米国政府からかなりたくさんのお金をもらってやった。「この研究こそ良いんだ」と効果的にアピールして研究費をどう稼ぐか。私のやっていた研究に米国の研究機関は理解があったということですね。
  ノーベル賞をもらった後、カリブ島の学会に招待されまして、講演したんですが、学生から「あなたはノーベル賞をとるために幾らお金を使いましたか」という質問をされました。ノーベル賞は金がかかる、俺たちカリブ海は金がないからノーベル賞はとれないんだという考え方です。そのとき、初めて考えたんですが、私はうんと安くノーベル賞をとったということですね(笑)。ほとんど金がかからなかった。つまり、東京通信工業も、文科省などもほとんどお金をくれなかった。ですから、研究費をつくることが困難の一つでしたね。

『東京大学に期待すること』

 国際化するためには、世界に通用するような論理的思考力を身につけなくてはいけないと思います。米国社会では、研究の評価をする場合に「サイエンスマインド」により行います。ところが、日本では、「これは誰々教授の何とかだ」というような「ハート」でするわけですね。ですから、本当に日本が国際化するためには、サイエンスマインドを持って、世界から優れた人材を多数受け入れなければならないですね。米国の科学アカデミーの半分くらいは外国生まれです。19世紀に電話を発明したアレキサンダー・グラハム・ベルですら、スコットランド人でした。サイエンスの進歩は、一人のクリエイティビティだけではなく、ダイナミックインタラクションが必要です。いろいろな分野の交流を活発にして、良い人が来たら、フェアに評価する。米国は、我々が納得するような評価をしてくれます。
  ですから、学問、ことにサイエンスは非常に国際性を持っている。ですから、日本人の「心」を、サイエンスの「心」に近づくように訓練する必要があります。小柴先生がおっしゃったように、サイエンスは英語でやらざるを得ない部分があります。ですから、英語と数学で、形式論理なり、論理性をつなぐという訓練をやるべきだろうと思います。
  司馬遼太郎さんも言っておられますが、戦争中は理性が日本から失われたというわけですね。日本は戦争によってそれを経験したので、今度はもう少し論理的な思考力を持っていく必要があります。これからも東京大学は、きっちりした論理性を卒業生につけていただきたい。それが願いです。