東京大学創立130周年記念式典

 

『私と東大』

 私は、このように東大の演壇に座っておりますと、落ち着きが悪いという感じがいたします(笑)。
  東京大学を卒業した時の私は「研究者になる資格を準備することができた」と思って卒業したのではありませんでした。大学に入りましたが、自分は研究者になる実力がないということをはっきり自覚して、大学を去ることにいたしました。その代わり、「一生の間、フランス語と英語を一人で勉強して、必要な本を読める学力をつけよう」と思いまして、2つのことを私はいたしました。
  その一つは、1年間留年させていただきまして、基礎語学の講読が行われる教室にはすべて出席したことです。もう一つは、一生の間、語学の質問ができる友人を確保しておくということでありまして、フランス語ですと、清水徹さんというすばらしい学者、英語のほうは東京大学の名誉教授として、もしかしたらここにいらっしゃるかしれない山内久明君という英文学の学生、その二人と一生の友人になることに成功しまして、そして卒業いたしました。そして、一人で勉強したりしながら、それからいろいろ辛い経験もしながら小説を書いてまいりました。

 さて、そういう専門能力に欠けている人間がなぜ東大に来ることにしたかということでございますが、私は生まれて初めて夜行列車というものに乗って、そして途中で連絡船にも乗りまして、四国を離れ、また汽車を乗り継いで東京に参りました。そのように東京に向かって私を押し出したものは何かといいますと、この前、改定されてしまった教育基本法というものであります。
  私が10歳の時、日本は戦争に敗れました。そして、12歳の時に憲法が、そして、教育基本法が施行されたわけです。私は、その教育基本法というものは良いものだと思いました。特に、「普遍的でかつ個性的な文化」というものに、私達、どんな日本の子供も参加できると書いてありまして、これは私は良いと思ったのです。私は普遍的かつ個性的な文化に参加して、世界に向かって歩いていこうと思ったわけです。そして、手始めに東京大学に入りました。

 では、なぜ、他の大学でなく、東京大学に来たかといいますと……16歳の時に、岩波新書で『フランス・ルネサンス断章』という本がありました。そこに、ユマニスムという思想が説明してありました。それは「人間が人間らしく生きるということはどういうことか」ということを書いた本だと私は思いましたが、その著者が渡辺一夫先生という方でございまして、私はこの渡辺先生に習うということを決心して、東京大学に入りました。
  受験勉強なんかしたことがありませんから、1年間浪人して勉強して、2年間、駒場で基礎フランス語を習いまして、そして思い立ってから3年目に東大のある小さな教室で待っておりましたら、渡辺一夫という人が入ってこられました。これが私の考えていた一番上等な人間だと思いまして(笑)。ほんとうに満足したわけでございます。そして、その先生の教室に、そのあと3年間いたわけでございます。

 渡辺先生にお会いして、私は「ここにユマニストそのものがいる」と思いました。このような人のもとで勉強をして、自分もユマニスムという方向に向かっていきたいと思いました。そして、目のくらむような幸福な日々を過ごしたのでありますが、それは長く続きませんで、私にはフランス文学科の研究室に残る実力がないということがわかりました。
  先輩や同級生には非常に優秀なすばらしい人がおられます。そこで、「私はどうしようか」と考えました。私はめり込んでしまう人間なんですが、すぐ回復する人間でもありますので、すぐ楽観的になりまして、「小説を書こう」と決心しました。20歳の時でありました。
  戦争中の「子供の頃の生活」、戦後の占領時代の「地方の高校生の頃の生活」と、書くことはいくらもありました。その後は、小説を書く方法を勉強するために、研究室にたくさんあったフランスの新しい小説を読み始めました。秀才の方々は現代小説なんか読みませんから、私は自由にそれらを読みました。字引も非常にたくさんありますし、幸福な生活でした。
  そして、小説を書き始めたのですが、ありがたいことに、渡辺先生が、大学と縁が切れても、自分のところに話にきてもいいと言われました。そこで、先生の本をすべて読み続け、大学で基礎の学力をつけたこと、そして渡辺一夫先生という勉強する対象の思想家にお会いできたということ、2つを支えにして、それだけを支えにして、私の小説家としての人生をつくってまいりました。
  その、そもそもの出発点をつくってくれたのが東京大学であります。

 そこで、今、偉大なお二人の物理学者の間に、一人の小説家として座っていることができるわけでございまして。先ほども申し上げたように、私は12歳の子供の時に、あの教育基本法というものを読んで決心しました。
私は普遍的なものと個性的なものを2つとも成就したような、兼ね備えたような文化というものに参加するということで小説を書いてきた自分の一生が、その12歳の時の決心と、さらに、16歳の時の自分の先生のご本との出会いということで決まったと思います。
  まったく単純な人生を送ってまいりました。しかし、心から東京大学卒業生の一人であることに満足しております。(拍手)


『東大と関わって良かったこと』

 良かった点は、ほんとうにいい先生の話を聞くことができて、「聞く力」というのができたことだと思いますね。

『東京大学に期待すること』

 米国のコロンビア大学に、最後にはユニバーシティプロフェッサーとなったエドワード・ワディ・サイードという人がいました。白血病で3年ほど前に亡くなりましたが、私は彼と25年間も友人でした。彼は「米国では大学の研究が専門化し続けてきた。一つの専門分野がその中でもますます専門化していった。これが米国の大学の傾向である。そのように専門化した人物を社会も求めている。しかも、政府機関と大企業とが、そういう優れた専門家達を集めて吸収している。そのことが米国の社会を健全に動かす方向になっているのかどうか、自分は疑問を持つ」と言って、そのまま亡くなりました。私は、彼の疑問を受け継いでいます。そして、私は、日本の大学でも専門化が行われることは致し方ないと思います、科学は専門化する必要があると思います。
サイードの最後の願いは、「専門分野ではっきりした仕事をした人達が、やがて、ある年齢になって、集まって、『社会を憂えている。国家を憂えている。あるいは世界を憂えている』ということを話し合う場所、すなわち知識人としての場所が作られるべきだということでした。それに私が加えますのは、専門研究者として卒業して、仕事を始めて、何十年かたって、その知識人の場をつくるということでは遅いのではないかということです。「さまざまな形で、それぞれの分野に分かれて専門の研究をしておられる学生諸君が、その専門を深めていくと同時に、横のつながり、知識人のつながりというものを今から確実に高めていくべきではないか」と思っています。現に、私などは、特に大した専門家にはなれませんでしたが、ほんとうの専門家と友人になることで、この人生を豊かにすることができたと考えています。それを今から始めたほうがいいということを、東京大学の学生諸君に私は望んでおります。
  私の核心は「普遍性と個性」ということを子供の時に教育基本法で教えられたことです。私は世界のすべての言語は普遍的である、すべての言語は世界においてそれぞれ個性的であると考えています。小説家は何も発明することはないし、具体的な生産もいたしませんが、小説家にできることは、自分たちの言葉を論理的にも、感受性の表現力においても、すべてにおいて普遍的なものにし、個性的なものに磨くということです。それを私達のすばらしい先輩の作家達はやっておられますし、すばらしい思想家達もやっておられる。私は、そこに大いに希望があると考えます。これからそういう言語を創っていく人達が東大に現れつつあるし、現にいると信じています。