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海と希望の学校 in 三陸第15回

岩手県大槌町にある大気海洋研究所附属国際沿岸海洋研究センターを舞台に、社会科学研究所とタッグを組んで行う地域連携プロジェクト――海をベースに三陸各地の地域アイデンティティを再構築し、地域の希望となる人材の育成を目指す文理融合型の取組み――です。4年目を迎えたわれわれの活動や地域の取組みなどを紹介します。

翼よ、今日は海の日だ! ──根浜海岸の海開きで地曳網

北川貴士
北川准教授の顔
大気海洋研究所附属国際沿岸海洋研究センター
准教授
(写真1)
震災前(2004年7月撮影)の根浜海岸の様子(提供:釜石市)
海水浴をしている人々

前回第14回で、4月18日に「おおつち海の勉強室」がオープンしたことをお伝えしました(no.1547 / 2021.6.24)。オープニングイベントにお越しくださった方々が勉強室の前のそこかしこで「今度、勉強室を使ったイベントを一緒に開催しましょう」といった会話をされている様子にふれ、勉強室のオープンで個人・団体の間に新たなつながりが生まれることで、地域のネットワークはより強くなっていくのではないかと嬉しく感じ入っておりました。

われわれ「海と希望の学校 in 三陸」にも新たなつながりがいくつもできました。その一つの(株)かまいしDMCさんにお声がけいただき、7月22日「海の日」に大槌湾の湾奥に位置する根浜海岸で、海開きにあわせ地曳網を行うことになりました。

根浜海岸は陸中海岸屈指の海水浴場として知られ、震災前は毎夏8万人近くが利用していましたが(写真1)、10年前の震災による津波と地盤沈下により、延長450メートル、幅30メートルの砂浜の大部分が失われてしまいました。地曳網も震災前はイベントとして行われていたとのことですが、当時使用していた地曳網は流されてしまいました。2018年度から行われていた海岸の再生工事もようやく終わり、今年3月31日から一般にも開放されました。そしてこの夏、海開きにこぎつけ、それに合わせてかつてのイベントであった地曳網を再開してみようということになったわけです。

当日は曇り空ではあったのですが、海水浴を待ちわびた多くの家族連れが根浜海岸にやってきてくれました。海開きの神事のあと、早速、事前に募集した30名ほどの地元の子ども達とともに、当センターの網を使って地曳網を行いました(写真2)。地元の漁業者の方に投網していただいた後、子ども達が懸命に網を引くと、たくさんの魚が獲れました。マサバ、ウグイ、ウミタナゴ、クダヤガラ、ヨウジウオといった根浜おなじみの魚のほか、ハコフグといった見慣れない魚も獲れて、子ども達は興味深く見入っていました。海草のアマモもかかりました(写真3)。当センターの大学院生から網にかかった魚について簡単なレクチャーがなされ、大槌湾では回復してきている海草藻場で魚が生活をし始めていること、海が震災前の状態に戻ってきていることを子ども達は学びました。終了後も水槽に入れた小さな魚をずっと見続けていた子どもの姿が大変印象的でした(写真4)。

地域の方、参加者みなさまに喜んでいただき、とてもよい海の日の海開きとなりました。今後もこの地曳網を恒例イベントとして続け、根浜名物にできたらと思っております。

巨大な半円型に曲がった地曳網
(写真2)
地曳網の様子。復活のビーチで大きな網を皆で曳きました。翼よ、今日は海の日だ!
ケースに入った魚
(写真3)
採集された魚や海草など
水槽に入った魚
(写真4)
採集された魚を興味深そうに見つめる子ども達

「海と希望の学校 in 三陸」動画を公開中 → YouTube サイトで 海と希望 と検索!

制作:大気海洋研究所広報室(内線:66430)メーユ

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シリーズ 連携研究機構第37回「学際融合マイクロシステム国際連携研究機構」の巻

金範埈
話/機構長
金範埈先生

フランスとの共同研究の縁を全学へ

――発足は今年4月ですが、長い歴史があるとか。

当機構の元になったのは、生研とフランス国立科学研究センター(CNRS)との連携で1995年に発足した国際連携研究センター、LiMMS(Laboratory forIntegrated Micro Mechatronic Systems)です。CNRSには文理合わせて10の部局がありますが、その中の工学部門とのジョイントラボとして設置されました。CNRS側の研究員を生研内の研究室で3~5年間受け入れ、MEMS(Micro Electro Mechanical Systems)に関する共同研究を進める取組みで、現在は26人の研究者が滞在していて、いわば「プチフランスin東大」ですね。私は日本側の現代表で、2代前の代表は藤井総長でした

――総長は専門がマイクロ流体デバイスでしたね。

これまでに累計300人以上の研究員や学生を受け入れてきましたが、そうした研究者たちがいまでは様々な国の機関で重要な位置を占めるようになり、LiMMSはMEMSの分野でよく知られる存在となりました。このLiMMSを母体に、学内の連携も強化しようということで生まれたのが当機構です。生研、医学系、工学系、総合文化、新領域、情報理工、物性研、先端研から教員55名が参画しています。MEMSの主な活動の一つは医工連携で、そこには倫理的な問題や社会的な問題、感性的な問題も関係してきます。バイオ計測やQOL向上のための技術を高めるために人文系の視点も取り入れることが重要だと思っています

――学際融合マイクロシステム国際連携研究機構。名前がとても長いですが、何と呼べばよいですか。

私たちは「LiMMS機構」と呼んでいます。LiMMSの5文字は同じですが、機構のほうはLaboratories forInternational Research on Multi-disciplinary MicroSystemの頭文字をつなげたもので、従来のLiMMSとは少し違うんですよ。ナノサイズの分子をつかむチップで患者のDNAを解明する研究、がんになる前の細胞をマイクロ流体デバイスで調べる研究、マイクロニードルによるDDS(drug delivery system)といったバイオへの応用のほか、エネルギー、スマートセンシングも大きな柱です。今後は生研だけでなく参画部局でもCNRSの研究者を受け入れて共同研究を進めます

――これからの予定と抱負をお聞かせください。

LiMMS

10月にキックオフイベントを開催し、総長も登壇の予定です。LiMMSのロゴ(右)は富士山+日本がモチーフですが機構のロゴは富士山+東大を意識して作りたいですね。人に優しい予防医学やイノベーションにつながる技術の探求を深く広く進めていきます

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UTokyo バリアフリー最前線!第27回

バリアフリー支援室教務補佐員
山本 篤
ことだまくん

ボーダーレスな支援ツール

支援機器と聞くと、パラアスリートが使うような特注品をイメージされるかもしれませんが、一般に使われているものの中にも、障害のある人を支援するツールとして有用なものがあります。代表例は、iPhoneやiPadなどのスマートフォンやタブレットです。ピンチイン・アウト操作による拡大縮小表示・拡大鏡(デバイスのカメラを使用)・音声読み上げ(VoiceOver等)といった機能が標準で備わっています。

これらには、音声を認識して文字表示する音声認識アプリ(UDトーク等)や、手書きを遠隔共有するアプリ(MetaMoji Share等)、様々な色覚特性を持つ人の見え方を体験するアプリ(色のシミュレータ)など支援に活用できるアプリが多数あります。例えばスマホを使って、メールを音声読み上げ機能で読み上げる、写真や図等を指で拡大縮小、カメラを拡大鏡として使う、マスクで表情や口形が読み取りにくい場面で音声認識をさせるなどができます。そのため、障害のある人にとっては気軽に使える支援機器として、生活に欠かせない「インフラ」になってきています。スマホの音声読み上げアプリを駆使して、UTASの情報閲覧やITC-LMSでの履修手続きを行っている視覚障害学生もいます。聴覚障害のある私もスマホを肌身離さず携帯しており、職場やオンライン会議の発言を音声認識させています。

これらの機能は障害のある人だけではなく、障害のない人にとっても「使える」ものです。例えば、ICレコーダーの代わりに音声認識アプリを使って口述筆記や会議の議事録作成を行ったり、外国人との会話を翻訳させたりと、支援に限らず自由な使い方があります。

また、WordやPowerPoint等のOffice系ソフトやGoogleドキュメント等も、近年は音声入力や音声認識(字幕表示)といったアクセシビリティ機能が追加されてきています。簡単に試すことも可能なので、当室でも支援室紹介動画等を作る際には、PowerPointの字幕機能を活用しています。

このように、障害のある人にとって有用な技術や支援ツールは特別なものではなく、当たり前のものになり、障害者支援の垣根が低くなってきたと感じます。支援と聞いて決して身構える必要はありません。身近なものをぜひ活用してみてください。

音声認識画面(左)と色のシミュレータ画面(右)
スマートフォンとタブレット端末の画面
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ワタシのオシゴト RELAY COLUMN第183回

工学系・情報理工学系等事務部
財務課外部資金チーム
小林岳明

冷静と情熱の間で

小林岳明
私のデスク。中心トカゲ(すみっコぐらし)

8月2日午前。打合せ終了。所要時間約20分。デスクへ戻ると未読メール30数件。直後、チームメンバーから休暇申請の質問を受ける。所要時間約10分。デスクへ戻ると未読メール50数件。

真夏の列品館。蟬の声が遠く鳴り響く。ブラインド越しに足早に各々の目的地へ急ぐ教員、職員、学生らの姿が見える。このコロナ禍、皆、健康管理報告を入力、守衛さんに【入構可】の画面提示をして、正門をくぐってきたのだろうか?

私が次に取るべきアクションは? メールの確認?先月の月次申請の確定? それとも今日〆切の再委託契約書の確認作業?

手元の電話が鳴る。「27790・小林」の赤ランプが点灯している。迷うより先に受話器に手が伸びる。「もしもし?e-radの確定をお願いします。」所要時間約5分。アウトルックを見ると未読メール74件。私が次に取るべきアクションは? 心、体、時間、絡まる事情。諸事万端整えたいと思いつつ……また葛藤。

昼サッカーのメンバー
昼サッカー(FC東京U(仮)自由参加!)
得意ワザ:
ボールでアーチを描く事
自分の性格:
損得勘定が苦手。貧乏くじを引く
次回執筆者のご指名:
前田大輔さん
次回執筆者との関係:
昼サッカーの味方&対戦相手
次回執筆者の紹介:
豊富な運動量で頼りになる人
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デジタル万華鏡 東大の多様な「学術資産」を再確認しよう

第24回 医学部・医学系研究科図書情報
チーム図書整理担当係長
塩川由紀

病との戦いの記録

牛に疫神を踏ませている古い絵
『牛痘發蒙』より「保赤牛痘菩薩」(医学図書館所蔵)

保赤牛痘菩薩ほせきぎゅうとうぼさつ」は疫病除けの護符ではありません。この、牛に乗った菩薩が子供に手を差し伸べ牛に疫神を踏ませている絵は、医学図書館所蔵『牛痘發蒙ぎゅうとうはつもう』の扉絵です。著者の桑田立斎(1811-1868)は今でいう小児科医で、多くの子供たちに牛痘の種痘を行いました。牛痘種痘への誤解を解き効用を伝えるために、この啓蒙書を著し、扉絵は一枚物の摺物として配布して牛痘種痘の普及に努めました。天然痘から子どもを救うには牛痘法が一番良いということが書かれています。

立斎は「お玉が池種痘所」設立に拠金した83名の蘭方医のひとりです。安政5年(1858)に設立された「お玉が池種痘所」は、のちに幕府直轄となって「西洋医学所」と名を改められ東京大学医学部の前身となりました。その後も何度か組織の改編があり明治3年(1870)には大学東校という名で下谷にありました。上野移転が計画され工事も始まっていたところ、ちょうど講義に来ていたオランダの軍医ボードインの反対で移転は中止になりました。医学図書館には当時の上野移転計画図が残っています。

医学部に伝わった西洋医学所時代からの古医書や医学部の歴史に関する資料は、医学図書館史料室で所蔵しています。その一部を「医学図書館デジタル史料室」としてWeb上で公開しています。デジタル史料室では精神医学者の呉秀三(1865-1932)の旧蔵書も一部公開しています。室町から江戸時代の医師や蘭学者の書画を集め折帖に仕立てた『医聖堂前哲帖』には、蘭方医、漢方医両方の名前が見られます。2021年度は呉秀三文庫の書画、明治期の卒業アルバムを追加公開する予定です。

地図
『大学東校上野移転計画図』部分(医学図書館所蔵)
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インタープリターズ・バイブル第168回

情報学環教授
科学技術インタープリター養成部門
佐倉 統

マンガが現実になるとき

Eubrontes nobitai (エウブロンテス・ノビタイ)――中国で足跡化石が見つかった新種の恐竜の学名だ。発見者の邢立達(Xing Lida)准教授(中国地質大学北京校)は子供の頃から『ドラえもん』の大ファンで、のび太が恐竜に名前を付けるエピソードにちなんで学名を付けたという。マンガの世界が、科学によって現実のものとなった。

これは、日本のマンガ文化の世界的な影響力を改めて痛感するエピソードでもある。

授業でロボットものアニメの話題を出すと、アトム→マジンガーZ→ガンダム→攻殻機動隊→エヴァンゲリオンみたいな世代による違いはあるものの、総じて学生さんの食いつきはかなりいい。『スター・ウォーズ』や『2001年宇宙の旅』の話をしてもほとんど反応がないのと対照的だ。

そしてこれらのロボットアニメも、日本以外のいろいろな国に熱烈なファンがいる(考えてみれば『ドラえもん』もロボットアニメではある)。さらに、誰もが、好きな作品の話をし始めると止まらないのも万国共通だ。以前、編集に関わっていたある雑誌で台湾の知人に攻殻機動隊についてのエッセイを依頼したら、規定文字数の2.5倍ぐらいの原稿が送られてきて、往生したことがある。量が多い上に密度がやたらと濃くて、削るところが見当たらないのである。

マンガは科学技術コミュニケーションと相性が良いメディアだとも思う。題材と対象に応じた物語を組み立て、視覚的に訴えることはお手のもの。必要に応じて文章を付加して論理的な情報を補うこともできる。テレビドラマ化された医療マンガ『インハンド』の作者、朱戸アオさんにマンガとテレビの違いについてうかがったら、マンガは安上がりだとおっしゃっていた。テレビに比べるとはるかに少ない人手と費用で作ることできる、と。その分、作者の負担が大きいわけだが、関わる人数が少ないということはそれだけ作者の意見を色濃く反映させることができるということでもある。これも、科学技術コミュニケーションにおいてはむしろ説得力を増す要素となりうるところだろう。

マンガと科学技術、まだまだ新しいコラボの展開が可能なように思う。誰かチャレンジしませんか。

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蔵出し!文書館 The University of Tokyo Archives第33回

収蔵する貴重な学内資料から
140年を超える東大の歴史の一部をご紹介

帝大プールと水泳ニッポンの夜明け

オリンピックが幕を閉じました。暑さも話題となった今大会で、水泳はひとときの涼やかさをもたらしてくれたのではないでしょうか。しかし、水泳プールが普及したのはこの一世紀余のことで、近代オリンピックも当初は海や河川で競技が行われていました。

当時のプールの写真

画像は、大正から昭和初期にかけて使われていた本学プールです(「法学部卒業記念写真帖 昭和6年3月」F0025/S01/0015)。水着姿の男性4人が、プールの縁に足指をかけて両腕を広げ、今まさに水面に飛び込もうとしています。プールサイドで手を掲げる学生服の男性は、スタートの合図をする審判でしょうか。そして、プールを囲むように階上に設けられた通路には、大勢の観客が集まって選手たちを見つめています。

このプールは本郷の工学部水力実験室隣にあった実験用タンクを転用したもので、25×8メートルの大きさでした。1925(大正14)年の改修で温水プールとして通年使用が可能となり、その後1936(昭和11)年に第二食堂地下に室内温水プールが新設されるまで、水泳部の練習や競泳・水球・飛び込みの試合会場として使われました。「運動会報」によれば、学生たちは“タンク”や“谷底プール”と呼んでいたようです。

ここで泳いでいた一人が、一高から帝大在学中に選手として活躍し、のちに日本代表監督を務めた松澤一鶴です。NHK大河ドラマ「いだてん」では、同じく帝大出身の主人公、田畑政治とともに水泳界やオリンピックに尽力した人物として描かれ、水泳連盟結成のシーンではこのプールも登場しました。遠泳や古式泳法の泳ぎ手だった田畑や松澤が西洋の近代泳法を学び、水泳連盟を組織してオリンピックを目指す、そうした水泳ニッポン黎明期を象徴する場所がこのプールだったといえるでしょう。この夏は、日本水泳界の先人たちに想いを馳せながらパラリンピック競泳を観戦してはいかがでしょうか。

(特任研究員 逢坂裕紀子)

東京大学文書館