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すべての歴史は現代史であり、その物語(narrative)は望ましい未来を創出していくための資源です。
来たる創立150周年に向けて日々進められている年史編纂の現況を、当事者の声を通して隔月で伝えます。

明治から令和の東大女性史を詳述する一冊を制作中

百五十年史編纂室
加藤靖子
加藤靖子

通史篇とともに一五〇年史を構成するテーマ篇。その一つが「東京大学と女性」です。このテーマは百年史の頃はまだ単独で扱うのが難しかったものの、二百年史ではあえて切り出すまでもないテーマになっていると思われます。そこで、扱うなら今ということで選ばれました。巻の構成は検討中ですが、時代別に見れば、戦前、戦後の男女雇用機会均等法(1985年)以前、それ以後の3期となる予定です。編纂室メンバーを中心に分担執筆を進めています。

戦前も女性を受け入れていた?

戦前は公式には女性を受け入れてはいませんでしたが、学びの機会を完全に閉ざしていたわけでもありません。例えば、医学部では小児科教室で明治301897年に見学生として横山醇(兵庫県)を受け入れています。明治391906年には一般細菌学講習法研究生として油川太嘉子(滋賀県)が衛生学教室へ。杉田鶴子(杉田玄白家の子孫)、養老静江(養老孟司氏の母)のように「介補」として雇われる例もありました。当時は女医の臨床実習先が少なく、教授への直接交渉や個人的な人脈を通じて入局したようです。

大正期には限定的に開放が進み、公開講義が正式に女性に開放されたほか、聴講生としても女性を受け入れるようになりました。大正71918年8月に文科大学で行われた公開講義では宮本百合子(作家)、三角錫子(トキワ松学園創設者)、木内キヨウ(参議院議員)など著名人の名前とともに、18~63歳の女性が参加したと報道されています。大正91920年からは文学部が女性の受け入れを開始しましたが、これは東京女子高等師範学校や日本女子大学校当局からの教官個人への要請がきっかけで実現したものです。聴講生の多くはおそらく中産階級以上の家庭の出身で、松平濱子(関東学園創設者)、川戸(植村)環(社会活動家)、後に史料編纂所の嘱託となる谷森淳子などが含まれます。彼女たちに対し行動範囲を限定するなど大学側は消極的な許可だったようですが、一方で女子聴講生のトイレのために授業の合間に中休みを取る教官もいたようです。

学部生の入学開始は昭和211946年ですが、大学院では戦前にも女子学生がいました。先行したのは留学生で、中国出身の韓桂琴が昭和91934年に法学部の大学院に入学。日本人では昭和101935年に法学部の大学院に入った立石芳枝が初で、昭和131938年にも阿武俊子が農学部の大学院に入っています。

終戦前夜に文科省が設置した技術員養成所の半数は女性

戦況悪化が進む昭和191944年、理系研究者の助手を大量速成するため、帝国大学はじめ各地の高等教育機関に文部省科学研究補助技術員養成所が設置されます。東京帝大では第一工学部、第二工学部、医学部、農学部が対象となり、第一工学部では化学分析科、精密機器科、金属加工科、数値計算科、高周波電気工学科、設計製図科(船舶)、設計製図科(建築)、物理冶金科の8科が設置されました。入学者の半数近くが女性で、卒業時には科の総代となった女性もいました。この養成所については、百年史ではあまり言及されませんでしたが、今回は可能な限り紙幅を取ってまとめたいと思います。なお、戦後では最初に入学した19人の女子学生や入学者を女子に限定した医学部衛生看護学科、東大における女性学の受容などを取り上げる予定です。刊行をお待ちください。

東京女医会雑誌発行所『東京女医会雑誌』第79号、1937年6月号より(国会図書館デジタルコレクション)
東京帝大医学部小児科教室の介補が集う送別会の様子@上野風月堂。前列右から4人目が杉田鶴子。「この写真の当時は、他大の卒業生と留学生は専攻生、医学専門学校の卒業生は介補とされたようです。介補は1年程度専門の研究をする研究員的な職位です」(加藤)
東京帝大初の女子学生入学を伝える『サン写真新聞』誌面(1946年5月10日発行)
1946年、東京帝大に女子が初めて入学した旨を伝える『サン写真新聞』誌面。1期生は右表の19名でした。ピアニストの藤田晴子、言語学の大束百合子、西洋史学の三好洋子……東大の女性史を開拓したChallengers for Changesです。
◉1946年度東京帝国大学女性入学者一覧
氏名(旧姓) 年齢 学部 / 専攻 卒業 出身校 / 出身校卒年
舟橋徹子(白井) 21 経済 / 経済 1949.3 津田塾専門学校 / 1945
藤山和恵(米山) 21 農 / 水産 1949.3 東京女子高等師範 / 1945
村山安子 22 文 / 哲学(心理学) 1949.3 東京女子大学校英語専攻部 / 1945
村上さち子 23 文 / 哲学 1949.3 東京女子大学校英語専攻部 / 1945
難波治子 22 理 / 物理 1950.3 帝国女子理学専門学校 / 非開示
小木曽美代子(船本) 22 法 / 法 1949.3 日本女子大学校 / 1944
川上やまと(弓家) 22 経済 / 経済 1949.3 東京女子大学校英語専攻部 / 1944
戸田和子(藤平) 23 文 / 哲学(心理学) 1949.3 東京女子高等師範 / 1944
松本淑子 23 文 / 英文 1949.3 東京女子大学校英語専攻部 / 1943
代谷 康(栗原) 23 理 / 植物 1949.3 帝国女子理学専門学校 / 非開示
三好洋子 24 文 / 西洋史 1949.9 東京女子大学校英語専攻部 / 1943
半田寛子(金山) 25 法 / 政治 中退 津田塾専門学校 / 1941
大束百合子(平山) 26 文 / 言語 1949.3 津田塾専門学校 / 1940
川崎七瀬 26 経済 / 経済 1949.3 津田塾専門学校 / 1940
藤田晴子 28 法 / 政治 1949.3 東京都立第一高等女学校高等科 / 1938
江口裕子 29 文 / 英文 1949.3 東京女子大学校英語専攻部 / 1941
春木文枝 31 医 / 医 1950.3 帝国女子医学薬学専門学校 / 非開示
久保田きぬ子 33 法 / 政治 1949.3 日本女子大学校 / 1934
鈴木眞佐子 34 文 / 英文 1949.3 東京女子大学校英語専攻部 / 1934

野村由美「東京帝国大学1946年度入学試験における女子学生門戸開放の考察」『東京大学文書館紀要』第42号、2024年、別表の誤記を修正して再掲。

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UTokyo Brand Studio 実験中!第9回

文学部4年森 彩夏

シンプルに、的確に、伝える

五月祭で活況を呈する本郷キャンパスの傍らで、私たちブランドスタジオスタッフは、アートディレクターの瀬川浩樹さんとともに、2期生のスタッフ募集ポスターを制作していました。

「2026ブランドスタジオ学生スタッフ募集」のポスター画像。中央に「みつける あらわす ひろげる。」のキャッチコピーと、周囲に青い丸い目が特徴的な様々な顔の線画イラストが並んでいる

今回のポスターでは、スタッフ一人ひとりの似顔絵を用いました。似顔絵を描く中で印象に残ったのは、その人らしさを捉えるためには、細部をすべて忠実に描く必要はないということでした。絵をうまく描けるかと不安に思っていた私に、瀬川さんが「森さんは、口をにこっと描いたら似ると思う」とアドバイスをくださいました。どこにその人らしさが表れているのかを見つけ、そこを的確に表現する。その作業は、伝えたいことの本質を見極め、限られた要素で表現することにも通じるように思います。

実際、同じ目のテンプレートを用いていても、完成した似顔絵は一つひとつ異なる表情を見せました。口元や眉の描き方など、わずかな違いによって、それぞれの個性が浮かび上がります。完成したポスターには、多様な個性を持つスタッフの顔が並び、さまざまな人が集う東京大学の姿を、そのまま映し出しているようにも感じられました。

そして、このポスターをきっかけに、「自分も東大の魅力を発信してみたい」と思う学生が現れることを想像すると、これから新たな仲間を迎えることへの期待が一層大きくなりました。

広告というと、目を引くデザインや強いインパクトがまず思い浮かびます。しかし今回の制作を通じて、必ずしも多くの要素を盛り込む必要はなく、紙とペンというシンプルな手段でも、見る人の心を動かす表現を生み出せることを実感しました。

大切なのは、何を伝えたいのかを見極め、それをどのように表現すれば相手に届くのかを考えることなのだと思います。

私も、ブランドスタジオでの活動を通して、華やかさや豪華さに頼るのではなく、シンプルな表現で誰かの心を動かすものをつくれるようになりたいです。

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蔵出し!文書館 The University of Tokyo Archives第64回

収蔵する貴重な学内資料から
140年を超える東大の歴史の一部をご紹介

「曖昧」なのは誰か──お雇い教師リットルの紛失届

「シリンドル真鍮臺銀鍍金時計 一。但シ、黒紐付」。真鍮に銀めっきを施し、黒い紐を付けたシリンダー式懐中時計でしょうか。1874(明治7)年12月、この時計が、東京大学の前身の一つである東京開成学校の教授館から姿を消しました。持ち主は、ドイツ人教師のヘルマン・リットル(Hermann Ritter)です。

リットルの身の回りの世話をしていた「ボウイ 江島冨太郎」は、18日の夜、時計がないことに気づきました。いろいろ探しても見つからず、22日付で学校に紛失届を出しています。この届は『文部省往復 明治七年 乙』(S0001/Mo010)に残っています。学校は早速、文部省と警察にも届け出ます。

5日後の27日、警察から学校に依頼状が届きました。依頼状とその写しは『諸向往復』(S0004/05、S0004/06)に収められています。それによると、疑いをかけられたのはリットルの元小使、新吉でした。新吉の供述が「曖昧」だったため、警察は「ポーイ富太郎」を出頭させるよう学校に求めたのです。

ところが、依頼状の別紙では、同じ人物が「ボーイ冨次郎」となっています。外来語の表記も漢字の字体も定まっていなかった明治初期には、こうした揺れは珍しくなかったようです。それでも気になるのは学校側の写しです。書記は本文の「富」を本人の自署と同じ「冨」に改めながら、「ポーイ」も「ボーイ」も、別紙の「冨次郎」も、そのまま写しています。供述の曖昧さを問われたのは新吉でしたが、記録を作った側もまた曖昧だったかもしれません。

各文書における「冨太郎」言及部分の筆跡比較画像5枚あり左から①②③④⑤と並ぶ
各文書中の冨太郎言及部分(一部加工)。①②が警察からの依頼文で、③④が大学側がそれぞれの文書を写したもの。⑤は紛失届に書かれた自署。

時計をめぐる記録は、この27日の文書を最後に途切れます。取り調べの結果も、時計の行方もわかりません。ただ、一つだけはっきりしていることがあります。リットルは12月13日に天然痘を発症し、依頼状が届く2日前の25日に亡くなっていました。たとえ時計が見つかったとしても、受け取る持ち主はもういなかったのです。

(助教:元ナミ)

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ワタシのオシゴト RELAY COLUMN第245回

総務部コミュニケーション戦略課池田理紗子

広報とコミュニケーション

池田理紗子
撮影用に飾ったデスク(撮影:島係長)

2025年4月に東大に入職し、コミュニケーション戦略課に配属されました。現在は本部の広報として、学内外からのお問い合わせ対応や総長取材、プレスリリースなど、さまざまな業務を担当しています。

今年はOpen Dialogueや記者会見の対応も加わり、一日一日があっという間に過ぎていきました。限られた時間の中で正確な対応が求められる場面では、関係部署の皆さんと連携しながら一つひとつ形にしていくことの大切さを実感しました。

広報の仕事では、学内外問わず、さまざまな方々と関わることが多くあります。そうした中で、決して自分の考えだけにとらわれず、柔軟な視点を大切にしながら、これからも日々の業務に努めていきたいです。

休日は、ポムポムプリンの推し活でピューロランドに行き「カワイイ」を全身で浴びてリフレッシュしています。

商業施設の吹抜け広場に展示された巨大なポムポムプリンのバルーンと、その前で記念撮影をする池田理紗子さん
30周年記念の巨大ポムポムプリンと一緒に
得意ワザ:
朝の支度スピード(更新中)
自分の性格:
ダルそうに見えるけど、ダルくはないですよ
次回執筆者のご指名:
小田部幹さん
次回執筆者との関係:
日々お世話になっている先輩です
次回執筆者の紹介:
心優しいスポーツマン!
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デジタル万華鏡 東大の多様な「学術資産」を再確認しよう第54回

総合文化研究科准教授高山大毅

荻生家史料を楽しむ

荻生徂徠自筆『広象棋譜』の駒の動かし方が描かれた紙面
『広象棋譜』(荻生徂徠自筆)

荻生徂徠おぎゅうそらい(1666-1728)は江戸時代を代表する儒学者です。現在では残念なことに知名度はそれほど高くないかもしれません(徂徠が登場する「徂徠豆腐」の講談・落語はしばしば上演されていますが…)。しかし、江戸時代において徂徠は絶大な人気を誇った学者であり、賀茂真淵かものまぶち・本居宣長もとおりのりながのいわゆる「国学」も、腑分けで有名な山脇東洋やまわきとうようの医学も、徂徠の学問から影響を受けています。

2021年12月、徂徠のご子孫である荻生茂樹おぎゅうしげき氏・庄子妙子しょうじたえこ氏から東京大学駒場図書館に荻生家伝来の徂徠関連資料が寄贈されました。この寄贈資料を中心とする荻生家旧蔵資料のコレクションが荻生家史料です。荻生家史料には、『琉球聘使記りゅうきゅうへいしき』や『徂來先生答問書そらいせんせいとうもんしょ』といった徂徠の自筆資料が複数含まれています。その中の変わり種には、『広象棋譜こうしょうぎふ』があります。これは、兵学好きの徂徠が発案した独自の将棋のルールブックです。寄贈後、荻生家史料の整理・調査を進める過程で、新出資料も見つかりました。新発見の「〔初期徂徠著述目録〕」や「〔昔日稿せきじつこう・峡游吟きょうゆうぎん等〕」は、初期徂徠に関する研究を大きく進展させるものです。

これらの資料は東京大学デジタルアーカイブポータルで公開され、また駒場博物館で開催されている展覧会「大儒学者 荻生徂徠の冒険――荻生家史料寄贈記念――」(https://museum.c.u-tokyo.ac.jp/2026.html#20261003)で原物を見ることができます(11月29日〔日〕まで)。展覧会には「広象棋」を実際にパソコン上で遊ぶことができるプログラムも用意しました。

デジタル画像で予習した後に原物の資料を堪能するのもよし、原物を見た後にデジタル画像で資料全体をじっくり読むのもよし――デジタルと原物との両面から荻生家史料を楽しんでいただければと思います。

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インタープリターズ・バイブル第230回

生産技術研究所/情報学環 教授
科学技術コミュニケーション部門
川越至桜

塩を入れたるつぼ

「塩を入れたるつぼ」――この言葉を見て、みなさんは何を思い浮かべるだろうか。

私は理科の実験器具である「坩堝(るつぼ)」に塩が入っている光景を想像してしまう。しかし、以前SNSで見かけたある投稿は、私の当たり前を鮮やかに裏切ってくれた。

それは、理科の資料集にある「NaClを入れたるつぼ」という表記に対する「いきなり古文w」というコメントだった。最初はその意味がわからなかったが、文字をよく眺めて納得した。投稿者は、「NaCl(塩)を『入れたる(入れてある)』『壺』」と、古典文法で捉えていたのだ。

理科の知識がある人には「るつぼ」は一つの固有名詞だが、古文の文法が浮かぶ人には「入れたる+壺」に見える。どちらが正解でどちらが間違いという話ではない。それぞれの背景や知識のフィルターによって、同じ一言でもまったく異なる姿となって現れるのだ。

この何気ない一言は大きな教訓となった。自分が前提として使う言葉や文脈が、他者にも同じように伝わるとは限らない。無意識のうちに自分の知識体系だけで世界を語っていないかと考えさせられた。

科学技術コミュニケーションの現場では、こうした異なる背景を持つ人々が出会い、対話を通じて合意形成を目指す。専門家と市民、あるいは異なる分野の研究者同士が向き合うとき、同じ言葉を使っていても、お互いに見ている景色がズレていることは少なくない。大切なのは、相手の前提や専門性を尊重し、「自分とは違う捉え方をしているかもしれない」という想像力を持って丁寧に対話を進めることである。これは、研究発表や議論、日々の何気ないコミュニケーションにも通底するのではないだろうか。

私の見ているSNSには時折、「綿であったか」や「粉末たれ」といった、多義的で味わい深い言葉が流れてくる。それらを眺めながら「別の意味はないか」と頭の体操するのは、単なる言葉遊びではない。自分の知識の殻に閉じこもらず、他者の視点に思いを馳せるための、ささやかで大切な日常のトレーニングなのだ。

ChatGPTで「塩を入れたるつぼ」と入力し生成された画像。木目調の台の上に置かれた、陶器や素焼きの壺のような質感の小さな器(坩堝)に白い塩が盛られている
「塩を入れたるつぼ」の画像をChatGPTで生成した結果、壺のような質感の坩堝に塩が入った画像となった。文脈がない多義的な言葉は、AIにとっても一つの意味に特定するのが難しいのだろうか。
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ききんの「き」 寄付でつくる東大の未来第84回

ディベロップメントオフィス
シニアディレクター
原 愛知

法人ユニットがつなぐ、企業と東大の150周年

コンビニで手に取ったパンが、赤門の修繕を応援することにつながる――。そんな企業と東京大学との取り組みを形にしているのが、ディベロップメントオフィスの法人ユニットです。

法人ユニットは、企業の思いと、東京大学の教育・研究、学生支援などを結び、新たな協力の形をともにつくるチームです。創立150周年記念事業では、プライム上場企業から本郷周辺の企業まで幅広く働きかけ、100件以上面談を重ねてきました。理事や教員、関係部局とも連携しながら、寄付を呼びかけています。

活動は寄付のお願いだけではありません。企業が関心を寄せる社会課題や、東大と取り組みたいことを伺い、学内の研究や活動との接点を探りながら、双方にとってよりよい連携を考えます。

テーブルの上に「赤門」のリーフレットが立てられ、手前には山崎製パンのランチパックのラムネクリームとレモンクリームが多数並べられている様子

その一例が、山崎製パン株式会社とのコラボレーションです。東大生のアイデアを基に、東大のロゴカラーである淡青と黄色をイメージした「ランチパックラムネクリームとレモンクリーム」を共同開発しました。商品は5月から2か月間、関東のローソンや東大生協各店舗を中心に販売され、1袋につき1円が山崎製パンから「ひらけ!赤門プロジェクト」へ寄付されました。パンを購入するという日常の行動が赤門修繕への応援となり、150周年の取り組みを広く知っていただく機会にもなりました。

このほか、研究者や担当部署の紹介、講義室やラウンジなどに協賛企業が一定期間、愛称を付ける「ネーミングプラン」も提案しています。協賛金は教育・研究環境の充実に役立てられ、企業が大学を応援する姿勢を発信する機会にもなります。寄付や連携の実現後も、感謝を伝え、成果を報告し、次の協創につなげるまでが法人ユニットの仕事です。

学内の皆さまが日頃接している企業とのご縁や、「この研究・活動を企業と一緒に展開できないか」というアイデアが、新たな連携の出発点になります。ぜひ法人ユニットへ情報をお寄せください。皆さまとともに、次の150年を支える輪を広げていきます。