第1115回淡青評論

七徳堂鬼瓦

ドイツの湿原に迷って

日本でヒトゲノム計画が始まったのは1991年。この年にドイツの湿原Spreewaldがユネスコ自然遺産に指定された。ベルリンの中心から南南西に100kmほどの場所だ。伝説によると、悪魔が二頭の巨大な雄牛を使って大地を引っ掻きまわし、網目のような水路がSpreewaldにできたという。ここが、このタイトルの現場となる。

2001年からフンボルト大学、ボストン大学、京都大学、医科学研究所は、バイオインフォマティクスの人材養成のために、持ち回りで夏に大学院生の発表を中心としたInternational Workshop on Bioinformatics and Systems Biologyを開催してきた。今も続いている。2008年はベルリンのフンボルト大学が担当で、ワークショップを帝京大学ベルリンキャンパスで開催した。

このワークショップには恒例の半日ツアーが中日にあり、この年はSpreewaldでのカヌー漕ぎとなった。貸切バスを仕立てての全員参加である。二人一組でカヌーに乗り自分たちで漕ぐ。現地に到着するとライフジャケットが渡され、皆はサーッとカヌーに乗っていく。私も大学院生と一緒に漕ぎ出した。このカヌー漕ぎにどれくらい時間がかかるのか、水路地図も渡されてなかった。いったい何時に出発点に戻ればよいのか。まあ、ドイツ人についていけばよいだろうと思った。甘かった。力と技能の差からか、あっという間に視界から全てのカヌーが消え去り、私達のカヌーは湿原の迷子になっていた。まわりには二頭の巨大な雄牛が引っ掻いてできた水路が迷路のように広がり、どう進めばよいのか全くわらかない。同乗していた大学院生はすこしパニックになり、水辺から襲ってくる虫と格闘を始めた。私は研究の中でもこんなことがあったな、などと頭の片隅で考えていた。その後の記憶は定かではない。私は自分の野生で水路を漕いでいたと思う。1 時間半ほど過ぎた頃、別のカヌーが見えた。近づいて尋ねると終点はその先だという。救われた。

2004年に終ったヒトゲノム計画がこの2時間ほどのカヌーツアーに重なった。地図がなければ迷う。地図と同様にビジョンがなければ若い人たちは立ちすくむ。妄想の中にビジョンが現れ、先へ進む者は進んでいった。

宮野悟
(医科学研究所)