第1118回淡青評論

七徳堂鬼瓦

ナショナリズムについて

幸運なことにこれまで三つの全く異なる国で学究生活を送る機会に恵まれたが、その経験をもとに私がナショナリズムという概念をどう捉えているかを述べたいと思う。私はこれまでの人生のちょうど半分を米国カルフォルニア州で、もう半分を英国で過ごしたが、その間約40年にわたって何回か日本においても研究したり仕事を持つことがあった。そのようなわけで、どの国が一番好きかという質問をよく受けるが、私の答えは常にためらいなく「日本」である。

ナショナリズムに相当する日本語の言葉は、今ではやや評判を落としている「愛国心」であろう。では、私は「日本の国を愛する者=愛国者」なのだろうか。それは「愛」をという単語の解釈に左右される。

ある場所や文化を分かち合い、その一員であることに喜びを見出すという意味でのナショナリズム(愛国心)、さらには自分が住んでいる場所や自分が生まれ育った、あるいは後に自分のものとして取り入れた文化を誇りに思う、そういった意味でのナショナリズムについては、何ら問題はない。ただし国の文化と一言で言っても中身は複雑で、混在する様々なサブカルチャーのなかにはメインストリーム文化の先導を切るものもあれば、足を引っ張るものもあるわけだ。しかしながら、一旦国の文化が具象化され画一化されるようなことが起こり、標準として定義された国の文化を認める「我々」とそれを認めない「彼ら」との間に線引きがなされてしまうと、あちこちに問題が起こりだす。政治家の中には、このような方策が効果的で有用なことを理解して、機をみては策略を巡らす者がいるのも事実である。

日本が決して完璧ではないことは分かっているが、私は通常はあまり認められていない日本という国の多様性ゆえに日本を愛している。この多様性を大切にしながら建設的な取り組みを続けていくためには、国を愛しているということが根底になければならないと思う。

バブ・ジェームズ
(社会科学研究所)