第1120回淡青評論

七徳堂鬼瓦

コロナの時代に

桜が無駄に咲いている――と思った。桜が咲くのはもっぱら桜の都合なのだろうが、私たちもはるか昔から、桜に心を添わせてきた。私たちが惜しみなく注ぐ賞賛は、桜にも力を与えているような気がしていた。

東大構内には多くの見事な桜があるが、この春はそれらを視界の隅に感じるだけで終わってしまった。いうまでもなく新型コロナウィルス感染症の流行で、社会が急激に不安に覆われ、活動の自粛が要請されたためだ。この文章を書いている6月初旬の時点で、東京大学はレベル2(中程度)の活動制限下にある。制限の緩和は徐々に進む見通しだが、解除となるまでには時間がかかりそうだ。

私が専門とする日本中世の社会では、戦乱や天災などとともに疫病の流行がやってきた。鴨長明(1155~1216)は、相次いで京都を襲った大火・竜巻・地震・飢饉を体験して、「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」と始まる『方丈記』を著した。同時期を描いた『平家物語』は、平家の栄華と滅亡を「諸行無常」の一語に収斂させた。万物が変転することを観照する無常観を抜きに中世という時代を語ることはできない。「無常」は、目先の利害や欲望に踊らされる愚かさを誡める意味を持つ一方で、さまざまな問題に立ち向かう術を持たぬ段階の人々が、ふりかかる理不尽と折り合いをつけるためのロジックでもあった。

『徒然草』の兼好法師も無常の徒だ。花の盛りのみをもてはやす人々を批判し、散りぎわの風情を強調する。若者も壮健な者も、予期せぬ死を免れないと述べる。

だが『徒然草』には、「無常を悟ってはいけない、常住を心に銘ずるべきだ」と主張する人物が登場する。殖財に励む大福長者(大金持ち)である。兼好の対極にある生き方だが、大福長者が求める「得」(利益)は「徳」に通じ、たしかなモラルと社会性の裏付けを持っていた。「常住」とは変転する日常を主体的に生き抜く姿勢をあらわすものだ。

コロナ禍について中世史に学ぶとしたら、知識人の唱える無常ではなく、より深層にあって社会を支えた常住の精神に拠るべきだろう。混迷の現在を抜け、常住を取り戻せば、再び思う存分桜を楽しむことができるにちがいない。

本郷恵子
(史料編纂所)