第1139回
その時、何を感じ、どう行動するのか
もうすぐ、東日本大震災から11年目を迎える。あの日、どのように感じ、どのように行動しただろうか? そして、コロナ禍のもと2年以上を過ごしてきた。状況が変化するたび、何を感じてどう動いたのか? おそらく、覚えていない。どちらもいのちに関わるできごとだ。それでも私たちは、忘れる。
日々のできごとは、過去の記憶を上書きする。そして「その時」の記憶は忘れ去られていく。しかし、こうした有事における感情と行動の記憶は、次に起きる「その時」に対応するために、活かしていけるはずだ。
昨年、私は「東日本大震災ツイートマッピング」を公開した。2011年3月11日の地震発生から24時間以内につぶやかれた、位置情報付きのツイート約6000件をマッピングしている(図1)。
東北地方の沿岸部には、被害状況を伝える切迫したもの、家族の無事を願うものなどがみられる(図2)。東京はつぶやきでびっしりと覆い尽くされている。緊張感が漂う無数のツイートのなかには、おどけたニュアンスで書かれたものもある(図3)。
いまと違い、10年前のツイッターは「感じたこと」をそのままに、文字通り「つぶやく」空間だった。当時のデータには、まさにそのとき、人々が何を感じて、どう行動したのかが写しとられている。
一見コミカルな書き込みは、異常な状況のなか、とりあえず「書く」ことで、不安な気持ちを解消しようとする心のあらわれだろうか。日常が喪われていくなか、平静さを保つため、気持ちをネットに「吐き出した」のかもしれない。
当時のつぶやきを眺めているうち、他者のツイートの雲のなかに「自分」を見出す瞬間がある。その時、自らが何を感じ・どう行動したのかが、他者のことばの向こう側に浮かび上がる。情報技術が生んだあたらしい「記憶」の継承のかたちである。
次の禍=「その時」は、いつも忘れたころに起きる。次なる「その時」に、忘れ去られていく記憶を活かせないだろうか。そのためにはどんな手法が必要なのか。これからもこの「問い」に挑みつづけていきたい。
渡邉英徳
(情報学環)