第1142回淡青評論

七徳堂鬼瓦

リスクの許容:「安全・安心」再考

コロナ禍での「安全・安心」なオリンピックの開催について、多くの議論がなされた。議論の中で釈然としない点が出てきたので、まずは「安全・安心」に対する国の考えを知ろうと思い、webで検索したところ、「安全で安心な世界と社会の構築に向けて(2005、日本学術会議)」という報告書がヒットした。報告書では、客観的基準で決まる「安全」と主観的・心理的基準で決まる「安心」の違いを論じた上で、安全を確保する組織と人々の間の信頼関係が人々の安心に繋がるとしている。さらに、現実的かつ合理的な目標として、「絶対安全=ゼロリスク」から「リスクの許容」への転換が不可避との指摘がなされている。報告書を読んで、釈然としなかった理由が、「リスクを許容したオリンピック」に対して、主催者側が「安全・安心なオリンピック」を標榜した点にあると分かってきた。

コロナ禍でオリンピックを開催した場合、人々が様々な程度の危険に晒される。開催のメリットも人それぞれだ。その状況下でリスクと有用性を天秤にかけ、リスクを許容した結果、オリンピックが開催された。「ゼロリスク」から「リスクの許容」に転換すると、絶対安全だから安心できるという考え方、つまり「安全・安心」をセットにした通常の考え方が最早できない。この場合、主催者側が行うべきことは、リスク分析・回避対策を通して人々との間の信頼関係を築くことだ。その信頼関係に裏付けられて、人々の側から「納得できた」と評価するのが「安心」の意味するところとなる。通常の意味合いで「安全・安心」という言葉を使い続けると、リスクを許容したという事実自体が曖昧になってしまう。

オリンピックに限らず、リスクを許容せざるを得ない状況は今後も訪れるだろう。大学でも、コロナ禍での授業の実施形態などで、リスク許容が余儀なくされつつある。リスク許容の判断をする組織は、同時に、多様な構成員に配慮して安全を確保する責務を負う。その際、リスクを許容したという事実を直視した上で、「許容できるリスクのレベル」について議論を重ねること以外に、組織と構成員の信頼関係を築く道筋はないだろう。

小屋口剛博
(地震研究所)