第1155回
仏教とコロナ
コロナが流行し始めてから以降、仏教はコロナ感染に対して何ができるのですか、と幾度となく問われることがあった。少しばかり戸惑う質問ではあるが、社会的な危機に見舞われた時に、人が発する素朴な疑問なのであろう。おそらく歴史上、流行病が発生したときには同じような問いがなされたことは想像に難くない。それは、人々が抱える悩みや苦しみにどのように寄り添ってきたのか、と問われていることでもあるのだ。
古代社会においては加持祈祷が行なわれ、病気調伏を祈願したが、現代においても同じようなことが行われた。しかし、その加持祈祷は、コロナウイルスをただ撲滅することを目指したものではなかった。あるお寺ではウイルスの一日も早い成仏を願って収束を祈願していた。普通の目からみればコロナウイルスは厄介者以外の何物でもない。しかし厄介者扱いは我々の立場から見た一方的な見方であり、善悪を超えた次元での見方をすれば、コロナウイルスであっても、全面的に悪の存在というわけではない……もちろんやっかいな存在であることは間違いないのだが、それでも決めつけは凡夫のなせる業ということなのである。
さて、筆者は今、仏教の伝えた修行に関心をもって研究を進めている。その修行とは私たちの身体と心を見つめることなのだが、今風に言えば、自身の行動をメタ認知することなのである。それは、私たちの悩みや苦しみを超えるためのものであった。釈尊が見いだした世界は、私たちの悩み苦しみは、私たちの心が自動的に起こした反応であるとするものであった。私たちの感覚器官が世界を捉えると、すぐさま自動の反応が起きる。その反応が、時には悩みや苦しみになることがある。この自動反応を静める機能をもった身心の観察が仏教の伝える瞑想であり、昨今では、マインドフルネスという名前で市民権を得るようになった。
私たち人間は、この自動思考を持つことによって、おそらくは原始時代は難を逃れていたのであろうが、一方で、その反応が私たちを苦しめることも惹き起こしている。このことに気づき、どうすればこの自動思考の反応が抑制されるのか見いだした釈尊は、やはりこのうえなく優れた方であったというほかはない。今、筆者は「ムーンショット」※9の課題推進者の一人として、安らぎと活力のある世界を目標に、文理融合の研究を進めつつある。心が起こす悩み苦しみが、たとえ起きたとしても、煩わされることのないよう心を整えていく、そのお手伝いをすることが真に悩み苦しみに寄り添うことなのだと思う。
蓑輪顕量
(人文社会系研究科)
※内閣府の大型研究プログラム。目標9は「2050年までに、こころの安らぎや活力を増大することで、精神的に豊かで躍動的な社会を実現」。