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教訓を首都直下地震対策に活かすには? 関東大震災と東京大学大正関東地震100年シンポジウム抄録,目黒公郎 情報学環,関谷直也 情報学環,楠 浩一 地震研究所,佐竹健治 地震研究所,廣井 悠 先端科学技術研究センター,中井 祐 工学系研究科,鈴木 淳 人文社会系研究科,有働由美子 情報学環,濱中哲彦 東京都総務局

7月23日と30日の2日間にわたって安田講堂で開催されたシンポジウム「関東大震災と東京大学」。関東大震災の全体像と当時の東京大学の貢献をテーマに、幅広い分野の研究者が一堂に会して講演を行いました。情報学環、地震研究所、生産技術研究所、災害・復興知連携研究機構が共催したこのシンポジウムの中から、30日に行われたパネルディスカッションの一部を紹介します。

第Ⅲ部 パネルディスカッション「関東大震災の教訓を首都直下地震対策に活かす」より

地震関連の研究や技術の進歩

1923年9月1日11時58分に発生した大正関東地震。マグニチュード7.9と推定される激しい揺れによって建物が倒壊し、大規模火災にも見舞われ、10万5千人以上が犠牲になりました(関東大震災)。それから100年。自然災害に関する研究が行われ、技術が進歩し、都市の姿も大きく変化しました。では100年前と比べて、都市は安全になったのか。脆弱性が高まった点はあるのか。そして来るべき巨大地震にどのように備えていくべきか。コーディネーターを務めた情報学環総合防災情報研究センター長の目黒公郎先生から出されたお題について、さまざまな分野の第一人者が意見を交わしました。

100年前と比べて良くなった点としてパネリストたちが指摘したのが、数多くの分野で地震関連の研究が進み、1923年の関東地震の全容や地震そのもののメカニズムに関する理解が深まったこと。それによって建物の不燃化や耐震化が進み、自治体などでは避難計画が作成され、大規模な火災から避難するための広域避難場所も確保されるようになりました。

巨大地震や津波を研究する地震研究所の佐竹健治先生は、100年前は地震の規模を表すマグニチュードという指標もなければ、プレート境界型地震ということも分かっていなかったと言い、「ハザードの基礎的研究はかなり進んできた」と述べました。関東大震災の断層モデルができたことで、どういう地殻変動や津波が起きるかという予測をできるようになったと説明し、「大正より前に発生した関東地震を調べることによって、今後の発生確率なども計算することが可能になりました」と地震学の進展について語りました。

東京都が2022年5月に公表した大正関東地震をモデルに算出した被害想定によると、建物被害は54,962棟で死者は1,777人。東京都の濱中哲彦防災計画課長は一概に比較できるものではないがと断ったうえで、100年前と比べて大きく被害が減少していると説明しました。「震災、戦後復興、それから高度成長期の都市基盤整備など、これまで進めてきた都市づくりの成果といえるのではないかと思います」。

地震火災や耐震化に残る課題

一方で、まだまだ課題はあります。その一つが、関東大震災で多くの犠牲者を出すことになった大規模火災に関する対策。減災まちづくりを専門とする先端科学技術研究センターの廣井悠先生は、この100年で耐火性能の高いエリアは増えたがそれは一部だと指摘し、「まだまだ密集市街地を中心として我が国の都市は燃える」と警鐘を鳴らしました。世帯あたりの出火件数(出火率)は100年前より減っていますが、世帯数が増えているため件数は増えていると説明し、地震火災発生時の避難の難しさにも言及しました。「多分この中で、私も含めて地震火災から逃げた経験のある人はいないと思います。それぐらい稀な現象で、地震火災は津波や水害より複雑で難しいです」と語り、都市火災経験の希薄化が非常に憂慮すべき問題だと指摘。「地震火災のイメージ力をどう養うかが、重要なポイントになるのではないかと思います」。

建物の耐震設計を専門とする地震研究所の楠浩一先生は、耐震設計が新しい知見を反映したものに更新されても、建物が入れ替わるのには40~50年かかることが問題だと話しました。つまり、町にある多くの建物は依然として旧基準で建ったものだということ。それが顕著になったのは1995年の阪神淡路大震災だと述べました。「耐震設計を更新することと同時に、既存の建物の耐震診断、耐震補強を進めることが、来るべき大地震に対する最も必要な対策になります」。

「災害はその社会の一番の弱点を的確に突いてくる」と語ったのは景観論を研究する工学系研究科の中井祐先生。まだ都市計画も整備されていない時代に東京に人口が集中し、高密度で質の低い市街地がどんどんできたところに関東大震災が発生したと語りました。それによりバラック同然だった住宅が全壊し、一面が火の海になり犠牲が大きくなったと指摘。「災害時は弱い人にしわ寄せが行きやすい」と言い、そのような人たちがシビアな状況に陥らないような地域のあり方を再構築することが大事だと話しました。

人間の心の弱さを認識しておく

歴史的教訓も忘れてはいけません。関東大震災では流言蜚語が広がり朝鮮人虐殺が起こりました。日本近代史が専門の人文社会系研究科の鈴木淳先生は、朝鮮人虐殺についての研究が重ねられたことによって、報道や行政機関などが「外国人をめぐる流言蜚語が起こらない、あるいはそれによる暴行事件などが起こらないように、常に意識するようになったのは、歴史の教訓が生かされた最大の成果ではないか」と述べました。一方で、また大災害が発生したときは全く同じ流言は防げても、形を変えて蜚語などが襲ってくるのではないかと懸念も示しました。

避難の方法と場所を再度確認

流言に関して鈴木先生と同様の見方を述べたのが、情報学環総合防災情報研究センターの関谷直也先生。コロナ禍下の米国で起きたアジア人への暴力などに触れ、「災禍においては今も弱い人を攻撃するということは変わっていません。災禍における心の弱さを認識することが重要ではないか」と話しました。そして、そこを改善するためには、教育、広報などソフト対策をしっかり行っていくことが重要だと語りました。

災害時の情報発信の難しさを語ったのは、27年間生放送の番組に携わってきた情報学環客員研究員の有働由美子さん。地震が起きた時は電気と通信が一番打撃を受けやすく、緊急地震速報などを出して呼びかけても、その情報が一番届いてほしい人に届かないことが課題だと話しました。情報学環の関谷先生も災害時の情報伝達の難しさについて指摘し、この100年の節目を機に、情報がない中で避難しなければいけないことを認識し、避難方法や避難場所など確認することが重要だと述べました。

最後に、コーディネーターを務めた目黒先生は、大災害で何が起こったのかという全体像を皆で作り上げ、それを共有することが大切だと語りました。それぞれの地域での課題を抽出し、その改善に向けた方法を定期的に議論していくことが重要だと話してディスカッションを締めくくりました。

開会挨拶1 /藤井輝夫(総長)⑮ 開会挨拶2 /岡部徹(生産技術研究所)⑯
趣旨・企画説明/目黒公郎(情報学環)⑰ 閉会挨拶/古村孝志(地震研究所)⑱
第Ⅰ部 関東大震災の全体像
講演1関東地震のメカニズム、過去の発生履歴と将来の発生確率佐竹健治(地震研究所)
講演2大正関東地震の揺れを考える三宅弘恵(地震研究所)
講演3大正関東地震から始まった我が国の耐震設計楠 浩一(地震研究所)
講演4地盤災害、結局解決されなかった課題東畑郁生(関東学院大学)
講演5関東大震災の市街地焼失:現代の市街地の火災危険性を考える加藤孝明(生産技術研究所)
講演6関東大震災の社会的影響関谷直也(情報学環)
講演7関東地震と地震研究の進展酒井慎一(情報学環)
開会挨拶/山内祐平(情報学環)⑲ 趣旨・企画説明/目黒公郎 閉会挨拶/佐藤健二
第Ⅱ部 関東大震災と東京大学の貢献
講演8東京大学と関東大震災佐藤健二(文書館長)
講演9東京大学第二外科の震災対応赤川 学(人文社会系研究科)
講演10東京大学第二外科の傷病者の外科手術鈴木晃仁(人文社会系研究科)
講演11東京帝国大学学生救護団の成り立ちと活動鈴木 淳(人文社会系研究科)
講演12帝都復興の現場における東京大学教員と卒業生たち中井 祐(工学系研究科)
講演13東京大学キャンパスと関東大震災加藤耕一(工学系研究科)
講演14大正大震災の写真資料のカラー化渡邉英徳(情報学環)
第Ⅲ部 パネルディスカッション
「関東大震災の教訓を首都直下地震対策に活かす」
⑮⑯⑰
⑱⑲⑳
「関東地震 M:7.9」と書かれた強震計の記録を拡大したパネル
「1925年 地震研究所創立」と書かれたパネル「東京大学 地震研究所」と書かれたテーブルクロスがかけられた長机の両脇にいる職員と、その周りにパネルやパンフレットがある様子
30日には小池百合子 東京都知事⑳も来場して挨拶を述べました。会場となった安田講堂のロビーでは、地震研究所が1923年9月1日に計測した地震波のグラフや研究所の歴史を紹介するパネル展示を行いました。

大正関東地震
100年記念グッズ発売中

関東大震災から100年の節目を記念して地震研究所が地震波形をモチーフにしたグッズを作りました。UTCCと国立科学博物館で販売しています。

◉1923関東地震波形ハンカチ

1923関東地震波形ハンカチ

イギリスの物理学者で工学者のジェームズ・ユーイング(明治11~16年に東京帝国大学理学部教授)が開発した円盤式地震計で録った関東大震災の波形を、東北で栽培されたコットンを使用したハンカチにあしらったものです。この地震計は、円盤が回転し、煤をつけた記録紙に地震動が記録されるというもの。元の記録は保管庫に所蔵されているため、日常的に使用できるハンカチにデザインしました。¥700(税込)

◉1923関東地震波形缶パン

1923関東地震波形缶パン

東京帝国大学教授で地震学者の今村明恒先生が開発した「今村式2倍強震計」による関東大震災の揺れの記録をあしらった備蓄用食パンの缶詰め。この機械式地震計はドラム缶に巻き付けたアート紙に石油ランプから出る煤をまんべんなく付着させ、針先で記録紙を引っ掻くことで揺れを刻み付けるというもの。震災発生時には本郷の地震学教室に置かれていました。缶内の乾パンの賞味期限は3年間です。¥550(税込)

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第Ⅰ部・第Ⅱ部全14講演ダイジェスト

23日の第Ⅰ部「関東大震災の全体像」では主に地震学の分野の研究者が、30日の第Ⅱ部「関東大震災と東京大学の貢献」では社会学や歴史学、建築学や情報学の研究者が登壇しました。一人25分という限られた時間で語られた講演の要旨を400字にぎゅっと凝縮して紹介します。今後発生すると言われる首都直下地震に私たちはどう向き合えばいいのでしょうか。

①②③④⑤⑥⑦⑧⑨⑩⑪⑫⑬⑭

は講演番号を示します。講演者名は上部の表を参照ください。

過去の履歴から将来の地震を推定する

震災と地震は明確に分けられます。2011年の東日本大震災を引き起こしたのはM9.0の東北地方太平洋沖地震。1923年の関東大震災を起こしたのはM7.9の大正関東地震でした。江戸・東京では、1855年に直下型の安政江戸地震、1703年に相模トラフM8級プレート間地震である元禄関東地震がありました。両プレートがぶつかる関東の地下ではさまざまなタイプの地震が起きます。近年、史料や地質学的痕跡の分析によって、1293年の正応関東地震、1495年の明応地震など、ほかにも大きな関東地震があったことが判明しています。こうした過去の地震を調べることで次に起こる地震の発生確率が推定できます。政府の地震調査委員会が2014年に発生確率の長期評価をしたところ、今後30年間にM8級の関東地震が発生する確率は0~5%、M7級直下型地震の確率は70%となっています。これらの推定は過去のどの関東地震まで考慮するかに大きく依存します。

二つの地震計の記録に違いがあるという謎

1923年の大正関東地震の際、本郷における揺れは東京帝大の地震学教室で計測されました。地震後に火災が発生したため、当時の先生らは数十kgある地震計を抱えて地震学教室と耐震家屋を何度も行き来したそうです。この地震計には2種類ありました。ユーイング円盤型記録式地震計と今村式2倍強震計です。同じ場所なのに両者の記録は大きく違い、どちらが正しいのかよくわかっていません。今村式の針が振り切れた部分を復元する試みを1989年に行った結果、ユーイング地震計の記録より少し小さな揺れだったことがわかりましたが、検証はなお続いています。私が今後の鍵と見ているのは、震度では測りきれない長周期地震動という成分で、東大では1891年の濃尾地震の頃から計測しています。気象庁が今年2月から公表している、ゆったりと長く続く揺れを捉えたこの成分をうまく活用すれば、2つの地震計による記録の謎の解明や直下型地震の予測にも役立つでしょう。

日本の耐震設計は関東大震災から始まった

1906年のサンフランシスコ地震を受けて現地を調査した東京帝大の佐野利器先生は、1914年に耐震設計の考え方を論文にまとめ、初めて震度の概念を提案し、建物では強さに加え粘り強さが重要だと唱えました。1920年施行の市街地建築物法には高さの規定が入りましたが地震荷重の規定は入りませんでした。3年後に大正関東地震が起こり、耐震設計でない建物では倒壊したものも少なくありません。1924年に耐震設計を含めた市街地建築物法改正があった後、1950年に施行された建築基準法は、1978年の宮城県沖地震を経て1981年に改正され、佐野先生が当初提唱した基準がやっと導入されました。現行基準下の建物ではもし1923年と同程度の地震が起きても被害は相対的に少ないでしょう。ただ、法律を変えても街全体が変わるのには時間がかかるので、以前の基準でできた建物のアップグレードが重要。民間ではまだ約4分の1が耐震化されていません。時間との勝負です。

地盤災害を減らすにはお金が必要と知るべき

関東大震災を地盤災害の観点から見ると、斜面崩落と液状化の問題がありました。遡ると、更新世までの海水面の低い時期に利根川が関東平野を削り、谷ができました。海水面が上昇して谷が水没し、軟弱土が堆積。そこに含まれたガスや水の採取のために地下水を汲み上げて地盤沈下したという歴史があります。斜面崩落を防ぐ擁壁を設ける際にはどれくらい気をつければいいのか。工事をした際には強度が十分でも、経年劣化で危険な状況に陥ることもあります。「こんな崖にご用心」といった注意書きを見かけますが、あれは行政だけの方策では足りないので住民の自助努力を期待するしかないということ。擁壁ごとの危険度を精査すべきですが、自治体には十分な予算がなく、医者が患者の顔だけ見て病気を当てるような状況にあります。長い時間をかけて雨水が染み込んで地盤がゆるみ、地震で斜面崩壊が起こり、被害が生じます。安全を得るには相応の金をかけなければいけません。

地震後の火で燃え広がる市街地はまだ多い

昨年、関東大震災の火災が何時にどこまで広がったかを示す延焼動態調査の結果をデジタル化しました。たとえば横網の被服廠跡地では、三方が火に囲まれ、風速10mの風が抜け、火災旋風が起きて被害が広がりました。神田佐久間町では、火が出たものの破壊消防の形になり、風向きの変化も奏功して被害が限定的でした。火災被害は、市街地特性、建築構造、消防体制などの条件が合わさり、高い不確実性のなかで現れます。関東大震災後、都市計画レベルでも建築レベルでも防災対策が施され、東京では避難場所確保、延焼遮断帯整備、市街地整備の3段階で進みました。延焼遮断帯が自動車社会への対応でもあったように、防災対策は時代に合わせて考えるべきです。2022年5月の市街地被害想定では、直下地震が起きた場合、揺れも火災も10年前の想定より3~4割減ると見込まれています。ただ、燃え広がる素地のある市街地がまだ各地に多く残ることを忘れてはいけません。

節目の年でなくても記憶を語り継がなければ

関東大震災で罹災した100万人のうち、80万人が県外へ広域避難をしました。当時は出稼ぎで地方から来た人が多く、そのほとんどが縁故避難でした。東日本大震災でも特に原発事故後には多くの広域避難がありました。避難の現状に注目する必要があるでしょう。関東大震災では、被害を受けた会社が経営難に陥る一方、被害が少ない会社には成長するものもありました。新聞社も震災を機に統廃合が進み、現在に続くグループができました。事実ではない流言が新聞に掲載されて広がり、多くの朝鮮人が殺される事件を呼んだことは忘れてはなりません。東京では広域避難場所が決まっていますが、それを知る人は3割ほど。被害が出た場所に建つ慰霊碑の存在さえ忘れられているのが現状です。広島の復興祭は平和式典として残りましたが、関東大震災の復興祭はそうはならず、記憶の継承が行われないまま100年。今年は節目の年だからこうして語っていますが、風化は大きな問題です。

断層が地震の元と解明したのが百年の成果

1886年に関谷清景先生が理科大学の地震学教授となり、1923年に理学部に地震学科が設置されました。関東大震災後の1925年に地震研究所が創設され、造船工学、実験物理学、地質学、岩石学、地形学、土木建築学など多分野の研究者が集まりました。地震の科学的解明と、それを予防につなげることの両方が目的でした。この100年のトピックは、地下にある断層が地震の原因とわかったことです。丸山卓男先生が1963年に発表した、地下にある面が瞬間的に動いて地震が生じるという学説が、力の入り方を測って地震の予測を行う発想につながり、先行現象を捉えるための観測が進みました。近年ではじわじわ起こる地震もあるとわかっています。首都直下地震がいつどこで起きるかはわかりませんが、過去のデータには疎密があります。密の部分に絞って分析することで被害を減らすことはできるかもしれません。断層周辺のひずみ分布が変化した場所に注目すべきだろうと思います。

本郷キャンパスで猛威を振るった火災

大正関東地震は、本郷キャンパス全体の統一性が生まれつつあった時期に起こりました。既存の建物の壁面に亀裂が入り、大破・倒壊したものもありました。しかし、被害を拡大したのはその後に起こった火災です。出火点は3か所。そのうち工学部の応用化学実験室、医学部の薬学教室の2か所の火は消し止められましたが、医学部医化学教室の地下で発火した炎は猛威を振るい、南の生理学教室、北の薬物学教室、北の図書館へと延焼し、さらに法文経の教室や法学部講義室などに燃え広がります。これにより図書館の貴重な蔵書約75万冊が失われました。震災翌年の要覧を見るとほとんど建物がなく、授業は仮教室で行われます。その後、「内田ゴシック」と呼ばれるスタイルで校舎が建てられ、学際的な応用研究と基礎研究を両方行うような地震研、そして戦後の新聞研究所へと繋がっていく新聞研究室も設置されました。関東大震災が生み出した東大の変化だろうと思います。

塩田外科の当直日誌を読み解く

医学部の塩田広重教授を主任教授とする塩田外科(第二外科)に残された1923年9月、10月の当直日誌には、震災発生2カ月間の主要な出来事がまとめられています。地震発生直後から罹災患者を受け入れたり、火災が続いたために入院患者を移動したりと、医局員は目覚ましい働きをします。一方で、塩田教授は震災から1週間近く不在で、その間の動向は不明。5日に初来院し、8日以降に目覚ましく活動したと記録されています。当直日誌によると、インフラの回復に10~14日、手術の再開には16日を要し、1ヶ月以上経過してから外科診療、総回診、授業、臨床講義などが再開されました。また東大内での流言蜚語や自警団の活動についての記録もあります。他にも医学部内の組織体制の変化や手術の内容、患者の予後など詳細な情報が記載されていて、東大の震災対応を巡る資料としても非常に価値が高く、病院外で起きた出来事との関係を含めてより詳細な研究が必要です。

第二外科が残したカルテの特徴とは?

東大病院第二外科に残された、佐藤清(仮名)と中村茂(仮名)という2名のカルテを読み比べます。佐藤のカルテは日独→ドイツ語→日独という構造。これは19世紀初めから20世紀中葉までの日本のエリート医学教育で標準な方法でした。カルテの冒頭では、佐藤が日本語で語った自分と家族などの経験を、救援者(医療者)がまとめ、部分的にドイツ語に直しています。非常に整然と書かれています。一方で中村のカルテは雑然としていて、太字と細字で記述されています。太字部分は行政的ともいえる記述ですが、細字部分は中村の家族についてなど痛々しい悲劇的な経験が記録され、複雑な情念が示唆されています。被災者が詳細に語った経験を、救援者が非常に丁寧に記録したということ。医師と患者の個性、両者の組み合わせによってカルテも違ってきます。被災者と救援者が協力して、それぞれの特徴を持つカルテができたということを示しています。

著しい成果を上げた学生ボランティア

大正関東地震発生後、初の学生災害ボランティア活動として知られる東京帝国大学学生救護団が活躍しました。9月3日に学生本部ができ、構内の警備や避難者2000名に対する職員の炊き出しの補助などを行います。その後避難者を数個の自主的団体に分け、それぞれに青年団を置いて炊事などの業務を担わせ、学生は配給の受け取りや調達などに専念。9月11日には東京帝国大学学生救護団と名乗るようになり、当時8000人の避難民がいた上野公園にシャベルを持って行って便所を新設したりするなど、東大構内と同様の活動も行いました。学生の活動には法学部の末弘厳太郎教授と穂積重遠教授も参加していました。「東京罹災者情報局」も設立され、被災者消息の問い合わせに毎日2000通くらいの回答を書く作業をこなしました。学生救護団は学生本部全体で200人、情報局が100人ぐらい。10月に分散式を迎え、残った資金は東京帝大セツルメントに引き継がれました。

帝都復興で活躍した卒業生や教員

1923年から1930年に行われた帝都復興事業には多くの東大教員や卒業生が関わりました。その一つ、復興橋梁事業ではわずか5年の間に東京と横浜で500以上の橋を架けました。そのうち国の復興局が東京で設計、施工を担当したのが115橋。復興局土木部橋梁課の土木部長・太田圓三、橋梁課長・田中豊、橋梁係長・成瀬勝武は東大出身です。復興局が橋の不燃化を重視した背景には、関東大震災で亡くなった人の死因報告書によると「溺死」が5000人以上だったことがあります。そのほとんどは橋梁が焼け落ちたり、橋外に押し出されたことによるものだったようです。復興橋梁事業で有名な隅田川六大橋の設計や施工担当技師の多くも東大卒業生です。現在、社会基盤学科に進学が決まった学生が最初に取り組む演習が隅田川の復興橋梁の設計図を読み解き1/10構造模型を作ること。当時の卒業生、教員らが復興にかけた技術者としての思いを伝えることができると考えています。

本郷キャンパス復興と歴史の継承

関東大震災によって破損した本郷キャンパスの建物の解体や継承は、非常に繊細に行われていました。例えば震災後解体された建物の部材再利用です。工科大学本館の毀損した建物を丁寧に解体し、再利用する部材は少なくとも3年程度どこかで保管されました。その後1933年に整備された内田祥三先生デザインによる御殿下グラウンド北東側正面入口に、石材や窓などが再利用されています。関東大震災によって一旦過去と断絶された中で、明治のキャンパスの建物を物質的に検証するという努力が行われたのではないかと思います。八角講堂の構造体も法文1号館に再利用されました。必要な建物の建設が急いで行われる中、約5年半かけて基礎部分の構造体再利用と既設部分を繋げる工事が進められました。震災を契機とした技術的なアップデート、早期の復旧は極めて重要でしたが、一方で解体にも建設にも少し時間をかけて、ゆっくり考えながら過去を継承する部分もあったのです。

写真のカラー化で記憶を呼び起こす

大正関東地震当時の写真資料のカラー化に取り組んでいます。モノクロ写真を彩色すると、時間が止まったように見えていた人たちが動き出し、さざめく声が聞こえてくるようだったりと印象が変わると思います。AI技術と人の手によって彩色しています。AIは歴史的な知識をもっているわけではなくカラー化する際にミスをするので、そこからが人の領分。当時の着彩された写真や現物などの資料を基に補正し、当時の色に近づけます。一番大事なのはカラー化していく過程でたくさんの人たちの知識が集まってくること。それによってこの時代に対する理解が深まります。SNSに投稿すると、いろんな方がコメントを書いてくれます。これを年々繰り返していくと、色の精度は上がり、多くの人が記憶を呼び起こすことができる。過去の出来事の記憶の寿命が延びるということが起きます。カラー化写真などは9月1日から始まる国立科学博物館の関東大震災100年企画展で展示されます。

※背景写真は関東大震災で被害を受けた旧法文校舎
(総合図書館 館史資料コレクション『The Disaster of September 1st, 1923』より)