features

ノーベル賞作家と戦後文学の軌跡を辿る無二のアーカイブ 大江健三郎文庫、発足

大江健三郎文庫が9月1日にオープンしました。1.8万枚におよぶ自筆原稿のデジタルアーカイブ、4000点に迫る関連資料、60年をかけて整備された独自の書誌情報データベースからなる、研究者のためのプラットフォーム。文庫運営委員長への取材から、日本の大学で初となる試みについて紹介します。

「新しい人よ眼ざめよ」の原稿。黒や赤で多くの挿入や修正が書かれている
「新しい人よ眼ざめよ」(1983年)の自筆原稿では、当初題名が「眼ざめよ、おお、新時代の若者らよ」だったことが見せ消ちからわかります。『水死』(2009年)では、自筆原稿・初校・再校・三校と4つのバージョンを比較することが可能。

沼野充義先生が橋渡し役に

2018年に講談社が全15巻の全集の刊行を始めた際、各巻の装丁には出版社や編集者から託された多くの自筆原稿が使われました。その後、これらの原稿をどうするかを全集の編集者と解説者が検討した結果、母校の東大に寄託する案が浮上。お二人と旧知の沼野充義先生(現・名誉教授)に打診があったことから、文学部での検討が始まりました。沼野先生が在籍する現代文芸論、大江さんが在籍したフランス文学、そして国文学。3つの研究室が中心となって、大江文庫設立準備委員会が発足しました。

「光栄なお話でしたが、作家の何万枚もの自筆原稿を預かった例はありません。早稲田大学の村上春樹ライブラリーのように立派な部屋を用意する余裕もありません。どう着地すればいいのか、悩ましい問題でした」

そう振り返るのは、現代文芸論研究室の阿部賢一先生です。折しも、情報学の大向一輝先生が国立情報学研究所から文学部の次世代人文学開発センターに着任していました。紙のままだと限られた人しか見られませんが、デジタル化すれば多くの人がアクセスできることになります。大江文庫は、デジタルアーカイブの新しい形を探る人文情報学のプロジェクトとして位置付けられました。

2021年1月に寄託契約を締結し、自筆原稿などが文学部に。デジタル化作業が進められた一方で、著作権の問題もありました。実は、著作権が切れていない著名作家のデジタルアーカイブは日本では稀。阿部先生によれば、かごしま近代文学館による島尾敏雄自筆原稿の画像公開例がある程度です。

「今回は著作権継承者であるご家族が最後まで丁寧にやりとりを続けてくれました。寄託はもちろん大江さん本人の明確な意志によるものです。3月に訃報を聞いた際には、しっかりやれと託された気がしました」

「見せ消ち」が伝える推敲の跡

手書きを貫いた大江さんが残した18023枚の自筆原稿の端々から、推敲を繰り返しながら作品を仕上げた軌跡が伝わります。万年筆で第一稿を書いた後、削除や加筆の指示を何か所も書き入れた原稿用紙の多くは、修正が多いのに読みにくくありません。

「画数が多い字でも省略せず丁寧に書いていて、字の読みやすさは最後まで変わりません。と書くなど旧字体を選び続けたのも特徴的。初期は万年筆、90年代以降は青や緑の色鉛筆を使って消した上に言葉を紡いでいます。この見せ消ちのおかげで創作過程を辿ることができます」

作家に限らず、完成形だけ見せたいと思うのが人情のはず。舞台裏まで見てよいとした点に作家の大きさが見えるようです。手書きを数十年にわたって続ける作家が今後も現れるとはなかなか考えにくいことです。大江文庫の自筆原稿コレクションは、一人の作家と戦後文学の軌跡だけでなく、筆記媒体の変遷をも示す文化資産となるでしょう。

60年集め続けた資料が文庫に

大江文庫のもう一つのコレクションを構成するのは、森昭夫さんの寄贈資料です。石川県の高校教師だった森さんは、大江さんと同世代。デビュー時に注目して以来、60年以上も一番の読者であり続けてきました。

「著作はもちろん、大江さんが帯文を書いた本、登場した雑誌、誰かが大江さんに言及した媒体までを集め、それらの情報を独自様式でまとめ続けました。もちろんインターネットのない時代から。ものすごいことです」

その成果を編纂した私家版の書籍『大江健三郎書誌稿』は、著作の初版日、関連図書、帯文の内容、掲載時の文字級数など、一般的な書誌情報には入らない研究者垂涎の情報を網羅。森さんが集めた1360点の図書と2528点の雑誌類に加え、このデータベースも大江文庫に寄贈されました。図書・雑誌は文庫に来ないと見られませんが、書誌情報データベースは誰でもウェブサイトから閲覧することが可能です。

「文学部が資料を囲い込むのではなく、研究のプラットフォームを目指しています。障害、ケア、ヒロシマ、沖縄、核兵器、想像力など、多様なテーマを内包し、狭い意味の文学研究だけではない広がりを持つのが大江作品。ホームページやセミナーなどを通じてその一端を発信することも行っていきます」

文庫発足記念式典が9月1日に開催されました

大江健三郎さんのご家族
会場は法文2号館1番大教室。藤井輝夫総長と研究科長の納富信留先生の挨拶の後、来賓として大江さんのご家族が登壇。「空の怪物アグイー」の草稿が書斎の古い段ボール箱から発掘され、持ち上げたら底が抜けたとの逸話に客席がどよめきました。阿部賢一先生が文庫の概要を紹介し、オンラインで登壇した沼野充義先生は設立に至る経緯を報告。野崎歓先生(写真左)が「大江健三郎とフランス文学」、全集を解説した尾崎真理子さん(写真右)は「未来へ、つなぐ者として」と題して記念講演を行い、準備委員長だった国文学の安藤宏先生が閉会の挨拶を務めました。
❶ ❷
❶❷森さんのスクラップ帳。資料一枚ごとに詳細情報が記されています。
❸
❸文庫に収められた初版本の数々。昔読んだ版と比べるだけでも楽しそう。
❹
❹弥生にある文庫閲覧室。自筆原稿はこの部屋の端末からのみ閲覧可。『犠牲の森で』(東大出版会)で南原繁出版記念賞を受賞した大江研究者・菊間晴子先生が常勤します。
❺
❺自身が携わる草稿研究の面からも文庫に大きな可能性を感じるという阿部先生。
大江健三郎文庫運営委員長
/人文社会系研究科准教授
阿部賢一
「大江健三郎文庫」と書かれた表札
●開室は月・金曜の10~12時と13~15時。利用にはホームページから事前の利用申請と予約が必要。研究・教育を目的とする人が対象です。
「死者の奢り」の表紙「芽むしり仔撃ち」の表紙「見るまえに跳べ」の表紙「われらの時代」の表紙「夜よゆるやかに歩め」の表紙「孤独な青年の休暇」の表紙「青年の汚名」の表紙「遅れてきた青年」の表紙「叫び聲」の表紙「性的人間」の表紙「日常生活の冒険」の表紙「個人的な体験」の表紙「万延元年のフットボール」の表紙「われらの狂気を生き延びる道を教えよ」の表紙「みずから我が涙をぬぐいたまう日」の表紙「洪水はわが魂に及び」の表紙「ピンチランナー調書」の表紙「同時代ゲーム」の表紙「現代伝奇集」の表紙「「雨の木」を聴く女たち」の表紙「新しい人よ眼ざめよ」の表紙「いかに木を殺すか」の表紙「河馬に噛まれる」の表紙「M/Tと森のフシギ物語」の表紙「懐かしい年への手紙」の表紙「キルプの軍団」の表紙「人生の親戚」の表紙「治療塔」の表紙「静かな生活」の表紙「治療塔惑星」の表紙「僕が本当に若かった頃」の表紙「「救い主」が殴られるまで 燃えあがる緑の木 第一部」の表紙
↑大江文庫所蔵の貴重な初版本の数々(1958~1993年)。森さんの寄贈資料をスキャンし、書誌情報データベースに反映したもの。文庫のホームページの作品年表ページで、評論も含めた全初版本のカバーが見られます。→ https://oe.l.u-tokyo.ac.jp/ 大江文庫所蔵の図書資料は東京大学OPACから検索できます。
features

保健センターが女性診療科を開設 全学のD&Iを推進する一助に The University of Tokyo Health Service Center

10月1日、保健・健康推進本部が保健センターに女性診療科を開設します。女性診療科は、東大病院には従来からありますが、日本の大学の保健センターでは類を見ない試みです。昨年度から検討を重ねてきた保健・健康推進本部の執行部と実際に診療を担う現場の皆さんにお話しいただきました。

女性特有の症状がある人が対象

中西 一般的に言えば、生理痛や生理不順、月経前症候群、更年期、不妊といった女性特有の症状を診療するのが女性診療科です。

秋下 従来はそうした症状への対応を内科診療の枠組みで行ってきましたが、より専門的に対応し、相談・診療体制を強化できないかとの思いがあり、全学のD&I促進の観点でも重要と考えて検討してきました。週に3日、本郷、駒場、柏に分けて開設します。新入生が多い時期は駒場で多く開設するなど、配分は状況に応じて調整します。

柳元 米国では一般的ですが、日本の大学の保健センターでは先進的な試みです。日本では婦人科の利用をためらう人が多いんです。生理痛に効く薬の利用率の低さが企業の生産性低下を招いているとの報告もあります。不調の際は助けを求めるものだと知ってほしいです。女性診療科は東大病院にもありますが、紹介状が必要だったり予約が取れなかったりもします。比較的来やすいセンターにある意義は大きいでしょう。

立石 私は内科医ですが、保健センターでも、診察をしていると婦人科系の症状を訴える人が女性受診者の2割程度いるかなと思います。このような方は、従来は外部の産婦人科クリニックなどへご紹介する必要がありましたが、今後は保健センターの女性診療科でも気軽に相談したり治療を受けたりすることができるようになりますね。

早く相談して適切な医療を

中西 私は東大病院の女性診療科・産科で診療を行ってきましたが、もっと早く来てくれたら、と感じることはよくありました。早く相談すれば適切な医療を受けられます。気軽に相談できる場を作りたいんです。治療以外の対処法を考えるのも私たちの仕事。性感染症や避妊など知識で解消できる不安もあるでしょう。海外ではユースクリニックが普及し、生理や不妊も含めて若い人が体の悩みを気軽に相談しています。保健センターがその役割も担えるとよいですね。

柳元 妊娠や出産、避妊、性感染症、生理に関することなど、十分な知識を持たない方も多いと思われます。正確な情報を伝え、構成員が人生を通して活躍するための大事な時期を側面から支援したいです。

秋下 女性診療科の医師は現状一人だけですが、東大病院の女性診療科・産科が全体で現場を支える体制を整えています。女性診療科が開設されない日には内科の医師が話を聞いて連携することになるでしょう。

古田 窓口で患者さんの話を聞いたり、健康診断で症状を聞くのが私たち保健師の仕事です。婦人科の受診を勧めても市販薬ですませる人もいますが、「相談」なら「受診」よりハードルは低いはず。若い頃に相談に来れば、更年期で困った際に相談の経験が糧になるかもしれません。気軽に相談してよい場だという認識が広がれば、長い目で見て多くの人の助けになると思います。

秋下 保健師への相談だけで留めることもできます。保健センターでは女性保健師が対応できますから、安心して相談してほしいですね。

中西 せっかく医療機関に行こうと思ったのに、予約や紹介状が必要と聞いて躊躇し、何年もたって症状が悪化してしまう患者さんを見てきました。どうか悩みを一人で背負い込まずに相談に来てください!

東大構成員の健康をバックアップ! 保健・健康推進本部 各地区保健センターの皆さん
本郷駒場柏
features

病院で治療する子の家族が滞在する「第二のわが家」 ドナルド・マクドナルド・ハウス 東大ドナルド・マクドナルド・ハウス 東大の外観と地図

ドナルド・マクドナルド・ハウス 東大ハウスマネージャー 伊藤太郎さん

東大病院の近くで右の建物を見て「何かな?」と思ったことはないでしょうか。実はこれは、入院する子に付き添う家族が安心して滞在するための建物。公益財団法人ドナルド・マクドナルド・ハウス・チャリティーズ・ジャパンが運営するこの施設について、ハウスマネージャーに聞きました。

アメフト選手の呼びかけで誕生

ドナルド・マクドナルド・ハウスは、1974年に米国で生まれました。きっかけは、アメフトのフレッド・ヒル選手の娘さんが家から遠い病院に入院したこと。ヒル選手は入院中の子に付き添う親の不便さを痛感しました。食事を自販機ですませたり、窮屈な姿勢で添い寝したり。家族が安らげる滞在施設が病院のそばに必要だと思った彼は、近所のマクドナルドのオーナーや、病院の医師、チームメイトなどに呼びかけ、その想いに賛同した地元新聞社から家屋の提供を受けて、第1号の施設が誕生したのです。以後、ハウスは世界中に広がり、現在では49の国と地域に386ヵ所あります

日本では全国12ヶ所で稼働中。8番目となる東大ハウスは2011年にオープンしました。東大病院の小児科にはNICU(新生児集中治療室)があり、新生児を産んだ母親の利用が多くなっています。利用料金は、病院で治療する子が無料でその家族は1日1,000円。運営はご寄付で賄われ、マクドナルド店頭の募金箱や、ハッピーセットの売上の一部も役立っています。北澤豪さん、瀬古利彦さんといった著名人の皆さん、明治安田生命やプロ野球選手会など多くの企業・団体にもご支援いただいています。

滞在中の食事は、基本的に4階の共有スペースのダイニングで摂っていただいています。自室に閉じこもるより境遇の近い人同士で交流してほしいという考えからです。働き盛りのご家族も多く、WiFi完備のハウス内で仕事することも可能です。

24時間365日の稼働ですからスタッフだけでは人手が足りません。頼りになるのは約200人の登録ボランティア。ハウスキーピングも夜勤番もお願いしています。以前、病気で東大病院の院内学級に転校し、元の学校に近況を伝える壁新聞を作った子がいました。いまは大学生でボランティアの一人です。東大生が中心のサークル「マイハウス」は募金やイベントを手伝ってくれています。工学系研究科とヒューリックの社会連携講座は入院中の子の体験学習会をハウスで実施していて、8月には大田隼一郎先生ほかの皆さんの指導の下、鉱物を顕微鏡で観察しました。先日の募金イベントではグローバル教育センターの協賛もありました。日々多くの皆様に支えられています。

店舗と勘違いして来る人も……

ハウス運営委員会の委員長は歴代の病院長です。募金活動をさせてもらうこともある病院では周知が進みましたが、ほかの教職員や学生さんには知られていないのが実情です。マクドナルドの店舗かと思って入ってくる人もいるほど。地方から上京して本郷構内でハウスの場所を尋ね、「それは何ですか?」と言われて不安を覚えたという利用者もいます。これを機にハウスを知り、道に迷っている人を見かけた際には優しくご案内いただけたらうれしいです。

❶2022年には291家族を受け入れた東大ハウスのロゴ。❷❸❹1階のロビーには支援者のサインや寄贈された記念品や本が多数。西武ライオンズの中村剛也選手のサイン入りユニフォームや、漫画家のゆでたまご先生が描き下ろした白衣のキン肉マンパネルも。❺❻廊下の壁は趣のある木目調。病院で長期治療を受けていた患者さんが近況を旧友に伝えようと作成した壁新聞が展示されています。❼全12室中で一番広い部屋には5人まで宿泊OK。電動ベッドもあります。各部屋の表示には、ハウスの理念に賛同したディック・ブルーナさんのイラストが使われています。❽共有スペースに直結の屋上庭園。❾共有スペースは、冷蔵庫や調理器具を備えたキッチン、テーブル、プレイルームがある憩いの場です。
❶ ❷
❸ ❹
❺ ❻
❼ ❽
❾
2023年8月現在 ほかにリネン代(実費)が必要