第1169回
失われた声を聞く
私は禅宗を中心に東アジアの仏教を研究しています。従来の仏教では基本的に今生で仏(仏教における最高の理想像)になれないと考えられていたのに対し、中国で興隆した禅宗では自覚の有無に関わらず我々はみな等しく仏であると唱え、東アジア一帯の仏教はもとより歴史・文化一般にも大きな影響を及ぼしました。その研究を行なうなかで感じる醍醐味のひとつに、思いもよらぬ形で現れた資料に出会い、それまで聞くことのできなかった過去の人々の声に触れられることがあります。
禅宗が中国思想史の表舞台に躍り出たのは今から1300年ほど前、武則天が君臨した洛陽においてです。広く知られている通り武則天は、男性優位の儒教社会において仏教を主とする諸思想を巧みに用い、中国史上唯一となる女帝の座につきました。彼女は中国仏教初伝の地とされる洛陽に都を移し、神秀という禅僧を招き帰依します。彼は一躍時の人となりましたが、その後、神秀一派を批判する新たな禅宗の一派が現れて主流となると、歴史が上書きされ当時の様子はよく分からなくなってしまいました。
そのようななか、遠く離れた二つの場所から当時の生の声を伝える資料が現れます。ひとつは洛陽の西北西、はるか1500キロ以上も離れた敦煌からです。1900年に同地の石窟から大量の写本が発見され、そのなかには当時の禅僧の著作が数多く含まれていました。もうひとつは洛陽の地下からで、前世紀より夥しい量の墓誌(死者の事跡を刻んだ石材)が陸続と出土し、そこには禅僧に参じた女性たちの思いや略歴が刻まれていました。この二種の資料により、当時洛陽で女帝の帰依のもと一世を風靡した禅僧たちと、そのもとに集まった一般の人々双方の声を直に聞くことができるようになったのです。
双方の資料を見比べると、以下のような当時の様子が見えてきます。当時の禅僧たちは身心を見つめることで仏と同じ悟りを得ることができると説き、その教えのもと在俗の女性たちも実践に励み悟りの体験を得て、禅僧から印可(悟りの証明)を得ていたということです。彼女たちは家の困窮や家族の死など様々な不幸に見舞われ、禅宗の門を叩き救いを得たのでした。その救いとは、自分の身も心も含め全ては移ろいゆくものであり、どこにも「自分」というものはなく、それゆえ「自分」に付随する苦しみも実際には存在しないと気づくことでした。そのような気づきに対し禅僧から印可を得たことが誇らしげに墓誌に刻まれ、死後ともに地中へ収められたのです。
時空を隔てて出現した二種の資料からは、今も昔も変わらない人の苦しみや、それに正面から向き合う人の強さが読み取れます。そのような失われていた声を聞けることは、有限な生を生きるひとりの人間として、一種の救いであるように感じます。
柳 幹康
(東洋文化研究所)