第1172回淡青評論

七徳堂鬼瓦

玄関階段の鉢植え

学内業務で他部局の方とご一緒になる機会があるが、申し訳ないことに、所在地をお尋ねすることから話が始まる。今ではヴァーチャルな組織もあって尚更だ。史料編纂所は、本郷の総合図書館と続きの建物の赤門側で、お土産売場(コミュニケーションセンター)の向いが正面玄関である。階段両脇に張り出した袖は重厚な石壇となっており、青銅の獅子か花瓶でも据えるかのような意匠である。建築は、建ったらそれで完成ではない。

いま壇上には、黒い大きな植木鉢が左右対に置かれている。躑躅か皐月かの植えられた時期もあり、近年は円錐型の小樹であったが、片方ずつ枯れて、根元で切られ、残っていた下草の蔦も、昨年夏の猛暑に耐えられなかった。教職員等が代わる代わるに面倒をみていたが、繁忙化に加え、組織と個人との関係が変わり、世話する人もいなくなった。社会の変化は細部に現れる。春を過ぎても、干乾びて硬くなった蔓がだらしなく垂れるがままの玄関は、荒廃する学術の現状そのものである。とはいえこの階段は、国内外からの観光客の撮影スポットで、勤め先として日々脇を通る者としては落ち着かない。休日に引っ掻き傷を作りながら処分した。すっきりすると、次は何を植えるかである。

本所では、年度末の送別会の日の昼休みに、玄関階段で集合写真を撮る。いつからの行事か不明だが、玄関前での集合写真は、山上御殿や赤門庁舎(小石川植物園へ移築)の時代から残る。それらを『史料編纂所史史料集』(2001年)の口絵に人名を添えて掲載するが、採用されなかった1935(昭和10)年正月の集合写真が、愛媛県のお遍路寺院で見つかったと、所外の共同研究者からご連絡いただいた。元所員の自坊で、本所で鍛えた史料調査・編纂の手法を地元へ持ち帰った研究者のアルバム中にあった。同じ写真を本所でも所蔵するが、人名の印刷された添紙は貴重な発見と分かった。

現在の建物は、関東大震災後の1928年から使用している。『史料集』口絵の写真は人物中心にトリミングされ、階段袖の様子は分からない。1935年の写真では、壇上に今のと類似した形の鉢が置かれている。出入りの庭師が鉢ごと取り替えることもありえようし、90年前のと全く同じ鉢との断定は控えておこう。這性の低木の枝が伸びているのが写る。下から見上げる高さながら、壇に比すれば鉢は小さく、緑にはある程度のボリュームが欲しい。時に西日や風雨も強く当たり、狭小ベランダ園芸の範疇からは外れている。本部からの寄附の呼びかけには、花鋏の刃こぼれやカシメの手入れもせずに使い潰す組織が何を都合の良いことをと毒づく構成員であるが、環境整備の目的で寄附をした。ただ、本格的な植木屋を呼ぶには少額である。

藤原重雄
(史料編纂所)

史料編纂所の玄関にある植木鉢をトリミングしたモノクロ写真
1935年の集合写真(部分):史料編纂所所蔵※AIによる自動着色はお断りします(筆者)。