第1192回淡青評論

七徳堂鬼瓦

大学の国際化のために、日本を学ぶ

ここ数年、日本の近現代史を熱心に勉強している。急に日本に関心が出てきたわけではない。もともと、私は日本を専門とする政治学の研究者である。しかし、それにもかかわらず、自分の大学教員としての仕事のために、日本の歴史と文化を、もっと学ばなければならないと日々感じている。

その仕事とは、英語による授業である。私は現在、主に公共政策大学院生と法学部生を対象とする、英語による政治学の入門講義を担当している。そして、この種の授業の常として、受講者の大半は外国からの留学生である。

かつて東大に着任した頃、私はこの授業を、アメリカの学術雑誌に掲載された最新の論文を解説する講義として構想していた。日本の学界では、アメリカで行われている政治学こそが最も「科学的」であり、「客観的」であるという観念が今も根強い。そうである以上、受講者も当然、そのような政治学に関心があると思っていたのである。

しかし、それは今から思えば、とんでもない欧米中心主義だった。考えてみれば当たり前なのだが、アメリカの政治学に関心がある学生は、アメリカに留学する。むしろ、受講者の多くは、日本を知りたいと思うからこそ、日本に留学してきていた。吉野作造の民本主義は、ウッドロー・ウィルソンの民主主義と、どのように異なるのか。冊封体制とウェストファリア体制は、何が違ったのか。そのような事柄について話す時の方が、最新の論文の計量分析の結果を解説する時に比べて、明らかに受講者の反応が良かった。

問題は、私の場合、そのような受講者のニーズに対応する準備が全くできていなかったことである。英語で研究や教育を行う技能を持つ研究者は、英語の学問には詳しいが、必ずしも日本について詳しいわけではない。だからこそ、私は一から日本について学び直すことを迫られた。

それでは、東大全体を見れば、どうだろうか。確かに、大学の国際化は進行し、英語による授業は年々増えている。しかし、それで外国から日本に来る学生のニーズに応えられているかといえば、それはまた別問題なのではないか。そのように感じつつ、今日も日本を学ぶための試行錯誤は続く。

前田健太郎
(公共政策学研究部)

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