第3回
すべての歴史は現代史であり、その物語(narrative)は望ましい未来を創出していくための資源です。
来たる創立150周年に向けて日々進められている年史編纂の現況を、当事者の声を通して隔月で伝えます。
運動会黎明期の「部」は用具管理の組織だった!?
中西啓太
私は今年140周年を迎えた東京大学運動会の「部」の歴史を調べています。実は初期の実態はよくわかっておらず、百年史でも記述がありませんでしたが、文書館に残る史料群を調べたところ、部に関する規則の複製等が出てきました。
ボールを使う競技でひと括り
1880年代のものと思われる「運動会規則」には、漕艇、柔道、球戯、器械運動、自転車、撃剣の6部が登場します(撃剣は剣道のこと)。球戯部ではサッカー、野球、テニスとボールを使う運動が想定されていました。自転車部では学生が自転車を借りる際の規則が書かれ、器械運動部では亜鈴などの用具を壊した場合の弁償方法などが書かれています。当初の部は現在と違って用具管理の組織だったようです。陸上部がないのは、走るだけなら用具がなくてもできるためでしょうか。
走ったり跳んだりする運動会は以前から学内で行われていました。次第に春は漕艇、秋は陸上の大会を行うのが恒例となり、その運営が運動会の主な役割でした。主眼は学生に運動機会を提供すること。部は対外試合をして競うための組織ではなかったと考えられます。
明治期に法律上の大学は帝大だけでしたが、1918年の大学令公布以降に大学数が増えたことで、大学間の対戦が活発化します。当時、東大が強かったのは確かで、漕艇、バスケ、サッカーなどでは東大出身者が日本代表として活躍しました。旧制高等学校からスポーツ経験の豊富な学生が帝大に来やすい傾向があったことが、東大勢の優位性につながったと思います。
1920年代以降の史料では、部に属する学生を選手と呼び、それ以外を一般学生と呼んでいます。運動会の理念は学生に運動機会を提供することなのに、選手にその機会や予算が偏るのはおかしいとの批判を受け、各部は一般学生向けの活動を増やしました。たとえば、野球部は一般学生向けにスポンジ野球大会を主催。テニス部は一般学生向けの講習を検討し、馬術部は選手班に加えて一般班を設けていました。部員と一般学生との垣根を低くしたいと考えていた跡が窺えます。
人間形成に資するスポーツ?
学業が本分の学生がスポーツに興じていいのかという声や、対外試合が白熱しすぎて野蛮だという声も早くから上がり、様々な学校での意義を示そうと、スポーツは精神修養によいという主張が出てきます。たとえば一高の機関誌で「武士道的野球」という表現をしたり、スポーツが人間形成に役立つという議論を展開して、学校での生き残りを図ったわけです。このことが部活動の教育的側面を強め、教員と学生、先輩と後輩といった上下関係の強化につながったのかもしれません。
一方で、部活には入らないサークル活動も気になっています。1970年以降はオリエンテーション委員会の雑誌『槌音』にスポーツサークルの記録があるので、その変遷を調べ始めたところです。サークルから部に昇格した例では、既存の部や大学への働きかけ、活動の参加率を上げるための工夫といったドラマもあったようです。
編纂室員としてはもちろんですが、学生時代をハンドボール部で過ごし、現在は部長を務めている身としても、百五十年史記念叢書のスポーツの巻のなかで、東大スポーツの歴史をしっかりまとめたいと思っています。
―――東大運動会クイズ―――
隅田川沿いにあった運動会の施設は?
→ボートを収蔵する艇庫。隅田川沿いの須崎村にありました。艇庫建設前には、学生はくじ引きで使用権を得ていたようです。
器械運動部規則にある「抛槌」とは?
→ハンマー投げ。同規則にはそのほかにも棍棒、球竿、竿飛、長飛、抛砲丸といういまでは見慣れない言葉が登場していました。
球技で最も部活動の成立が早いのは?
→1902年の庭球部。対外試合の記録が最も古く残る球技で、初期はソフトテニスでしたが1920年から国際規格の硬式に移行。
一番新しくできたのは何部?
→フットサル部。約6年間の審査期間を経て2025年に運動会に加入しました。現在は総務部を含めて全60部が所属しています。







