活躍する女子東大生たち

東大の門戸が女性に開かれたとはいえ、初期の女性にとってキャンパスライフはなまやさしいものではなく、例えば「教室のドアを開けたとたん、目に写ったのは真っ黒なかたまり。詰襟の男子学生が一斉に振りむいたときは、一瞬たじろぎました」といった状況であったようです。しかし、やわな女子学生たちではなかったのです。

1) 女子学生寮を白金に

1951(昭和26)年当時の矢内原忠雄教養学部長のもとに、便箋9枚に及ぶ分厚い手紙が届きました。影山裕子さん(54年経済卒)が加藤富子さん(54年法学卒)と相談し、地方から上京した決して裕福でない女子学生たちが単身東京で勉学を続けることの困難さを訴え、女子専用の学生寮の建設を望んだ直訴状でした。この手紙が矢内原教養学部長と南原繁総長の心を動かし、2年後の53年9月港区白金三光町に「白金寮」が開設されました。最初の入寮者は14名でした。その後女子学生の増加に伴い、66年に92名定員の新寮ができました。

2) 大学紛争-安保と樺美智子さんの死-

1959(昭和34)年安保条約改定阻止国民会議の統一行動の日、全東大生総決起集会が本郷で開かれました(参加者1,400名)。このころから闘争が全学的に広まり女子学生らも参加しました。そして、翌60年6月15日、衆議院につめかけていた学生1万人はバリケードを破り国会構内に突入しました。反撃に出た警察隊と激しいもみあいになり流血の闘争がくり広げられ、樺美智子さん(当時文学部国史学科3年生)が亡くなりました。
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二つ目の東大紛争は1968(昭和43)年医学部全学大会でインターン制度問題解決を要求して、無期限ストを決行したことから始まりました。学部側が処分に出るとさらに過熱し、火種が飛んだように文学部、経済学研究科、新聞研究所・・・・・とあちこちの学部で紛争が始まりました。6月に大河内一男総長が「総長会見」をしましたが、6000人の学生のヤジ、怒号で会見は失敗。その後、工学・法学・教育、社会学研究科でもストが始まり、学生は安田講堂を占拠しました。11月に大河内総長は引責辞任しました。しかし、全共闘等の学生たちの間でセクト間の対立が目立ちはじめると、ノンポリ学生たちが駒場にクラス連合を結成したり、本郷に秩序派と呼ばれる動きが始まり、ついに69年1月秩父宮ラグビー場で7学部集会がもたれました。参加者は学生7500人、教職員1500人という大規模な集会で、その後大学と代表団の間で確認書が作成され、大学側が収拾に向け手を打ちます。そして、1月18日、19日本郷キャンパス内の凶暴排除と学外者による建物の不法占拠を名目に警察の出動を要請しました。「安田講堂攻防戦」といわれたこの日の光景に全国民はテレビの前にくぎ付けになりました。
この安田講堂のなかで鉄パイプをもってかん高い声で叫んでいた“ゲバルト・ローザ”と呼ばれる東大・大学院の女子学生がいました。
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3)活躍する東大卒の女性たち

東大女子卒業生の有志によって卒業生の会「さつき会」は1961年のさつきの花咲く美しい季節に結成されました。世間の風あたりが強く、お互いに励ましあい情報を交換し合って成長したいと切に願ったからです。それから今まで50年弱さまざまな活動を行っています。東大を卒業した女性たちは数多くの方が活躍しています。

次の3名の卒業生が文部大臣(文部科学大臣)になりました。
森山 真弓さん(50年法学部卒-東大入学2期生)
赤松 良子さん(53年法学部卒)
遠山 敦子さん(62年法学部卒)

その他、元外務大臣の川口順子さん(65年、教養学部卒)、大阪府知事の太田房江さん(75年、経済学部卒)など多くの卒業生たちが各分野で活躍されています。最初の卒業生たちは就職を探すのが大変で、多くが国家公務員試験を受けました。1985年「男女雇用機会均等法」は、森山真弓さん、赤松良子さん、高橋久子さん(53年経済学部卒)など歴代の労働省婦人少年局長をはじめとして、多数の東大卒女性官僚たちの頑張りのお蔭で制定されました。長年“就職難民”であった東大女子学生たちの想いの結晶といえます。

異色の女子卒業生たちもいます。歌手の加藤登紀子さん(68年文学部卒)や最近は若い女子卒業生たちがテレビのタレントとして活躍しています。