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地震研100 周年記念マスコットの「地震亀」

記念式典・講演会を同い年の安田講堂で開催 地震研究所100周年! EARTHQUAKE RESEARCH INSTITUTE 100 YEARS est. 1925

地震研究所白木観測点(広島市)で観測された2011年東北地方太平洋沖地震の上下動成分

1923年の関東大震災を受け、1925年11月13日に設立された地震研究所。その100周年を記念する式典と講演会が、同じ1925年に竣工した安田講堂を舞台に行われました。現在の研究所長、世界の地震学に長く貢献してきた研究者、そして研究者から転身した直木賞作家は、この大きな節目に何を語ったのでしょうか。その中身の一端を紹介します。

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記念式典

開会挨拶/地震研究所長 古村孝志
式辞/総長 藤井輝夫
来賓祝辞/
文部科学省研究振興局長 淵上 孝
内閣府広域避難・計画推進室長 鎌原宜文
気象庁長官 野村竜一
日本地震学会会長 久家慶子
日本火山学会会長 中村美千彦

記念講演会

開会挨拶/理事 津田敦
記念講演/
「地震研究所100年、次の100年に向けて」 古村孝志❶
「地球科学と災害軽減への役割」 カリフォルニア工科大学名誉教授 金森博雄❷
「地震学に託す夢」 作家 伊与原 新❸
司会/清水久芳(副所長・教授)

災害の課題は深刻化している

記念式典ではまず古村孝志所長が登壇。地震現象の理解はこの間に大きく進展したが、自然災害は変わらず続いており課題はむしろ深刻化していること、100周年は不変の使命である災害の軽減方策の探究を改めて考える重要な節目であることなどを、開会挨拶として述べました。

次に登壇した藤井輝夫総長は、地震研が地震火山研究の中核拠点として歩んできたこと、学内連携により1000年規模の地震史料データベースを構築し防災・減災に取り組んでいることなどを紹介。次の100年への出発点に立つ地震研とともに大学を改革する決意を語りました。

続いての来賓祝辞は、地震研とともに歩んできた5つの組織の皆様から。文部科学省、内閣府、気象庁のお三方の言葉では、火山地震研究と地球物理学の中核としての活動が防災・減災計画を策定する際の重要な知見となること、地震研による地震計の開発と設置が観測の基盤となってきたことなどが示されました。地震研と深い関係を持つ2つの学会の会長からは、学会事務局が地震研にあった頃の思い出や、地震研で過ごした大学院生時代の逸話もご紹介いただきました。

そして、地震研設立と同じ年に竣工した安田講堂で周年を祝うことは大学史を重ね合わせて考える絶好の契機だ、と津田敦理事が挨拶を述べて開会した記念講演会には、3名の皆さんが登壇しました。

古村孝志先生の講演は、10周年に際して寺田寅彦(1878-1935)先生が起草した銘文の精神が受け継がれていることの紹介から始まりました。所の歴史は言い換えれば観測装置開発の歴史でもあったこと、教員は当初の5人から72人に増えたこと、幾度も大震災を経験した日本の教訓を世界に発信する必要があることなどに触れ、次の100年では現象の理解を超えて災害の予測と軽減に歩を進めたいと語りました。

確率論と決定論の両方が必要

次にオンラインで登壇したのは、地震研究所教授を経てカリフォルニア工科大学教授として地震学の発展に大きく貢献してきた金森博雄先生です。過去の大地震データを示しながら、地震の理解には確率論的なアプローチと決定論的なアプローチの両方が必要だと話し、地震予測の難しさを指摘。近年は観測とデータ活用の技術進展によってリアルタイム地震学の分野が発展しており、研究者と市民の間のインタラクション、特に市民側から研究者側へのコミュニケーションがより重要になると述べました。

最後の登壇者は、『藍を継ぐ海』で第172回直木賞を受賞した伊与原新さん。本学理学系研究科地球惑星科学専攻博士課程を修了し、富山大学で助教を務めた後に作家活動に入った伊与原さんは、作風そのままに科学と文学を架橋するような語りで会場を魅了しました(→カコミ記事)。

講演会の後は山上会館に会場を移して祝賀会を開催。これまでの100年とこれからの100年に参加者一同が思いを巡らせました。今後も続く特別企画の内容は地震所の100周年記念サイトでご確認ください。www.eri.u-tokyo.ac.jp/100th/

「東京大学地震研究所 百周年記念誌 第1部 第1章」の表紙 「EARTHQUAKE RESEARCH INSTITUTE」のステッカー 箱の上に乗せたガラス製の藍色の文鎮
会場では百周年記念誌(4部構成の第1部)や鯰&地球のステッカー、能登半島地震からの復興への願いをこめた能登ガラス文鎮などが土産に渡されました。

地震研同窓会のご案内●地震研に在籍していた人全員が対象の同窓会が毎年10月に開催されています。未登録の人はこちらまでhttps://www.eri.u-tokyo.ac.jp/dosokai/

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🅐多くの登壇者が言及した、物理学者・寺田寅彦先生作の銘文@地震研1号館。
🅑地震研正門脇モニュメント。1983年にタイムカプセルに納められた研究所史や鯰文鎮などが、今回取り出されました。
🅒1928年から使われた地震研究所旧本館。地震研が弥生に移転した後には施設部や薬学部に利用され、1981年に取り壊されました。
記念講演3「地震学に託す夢」ダイジェスト

講演の題名は、研究現場の外にいる人が地震学という学問に託したい夢という意味です。私の小説を通じて科学に触れた皆さんの反応も含めてできた二つの夢について話します。

地震研の院生が登場する短編

私は地震研究所をモデルにした小説をいくつか書いていますが、地震学を一番正面から捉えたのは『八月の銀の雪』という短編集の表題作です。コミュニケーションが苦手な男子大学生の主人公は、よく行くコンビニで外国人の女性店員に苛立っています。ある日、彼女は大事な論文のコピーを見なかったかと彼に聞きます。彼女が探していたのは、デンマークの地震学者インゲ・レーマンが書いた、地球の内核の存在を初めて示した論文でした。実は彼女は、地震研の大学院生だったんです。

この短編を書いたのは、編集者とのやりとりがきっかけです。私はかつて地磁気の研究をしており、取材で当時の話を聞かれると、地磁気は液体の金属が対流する外核で生成されて……と説明していました。あるとき編集者に、外核は液体だとなぜわかったのかと聞かれました。地震波を使えば内部構造がわかると説明すると、その編集者は大変驚き、感動してくれたんです。このとき、科学に携わる人には常識でも、そうでない人には感動につながることがあると気づきました。

もう一つのきっかけは、2019年にテキサス大学のグループが出した論文です。外核と内核の境界付近に液体の金属から析出した鉄の結晶が降り積もっているというモデルを提唱するもの。前から言われていたことですが、彼らはそれを雪が降り積もるという言い方で表現した。この表現は科学に疎い読者にも鮮烈なイメージを喚起します。地球の内部では銀色の雪が降っているかもしれないと話すと、多くの人が感激し、科学が数式だけの世界ではないとわかってくれます。

リチャード・ドーキンス先生は、科学的説明は詩的感受性を蝕むという信憑性のない決地震研の院生が登場する短編理不尽を問いに変えるのが科学まり文句に、いまだに多くの人々がだまされているという旨の言葉を残しています。地震学や地球科学は、こうした決まり文句を打ち破る可能性が最も高い分野でしょう。

寺田寅彦先生は「宇宙線」という随筆で、科学は不思議を殺すのではなく生み出すと書いています。世界は知れば知るほど新たな謎が出てきます。世界はそれほど広くて深くて豊か。慌ただしい日々のなかでふと、いま地球の内部では銀色の雪が降っているかもしれないと想像できると、世界の見え方が変わったり、人生が豊かになったりすると思います。

世界を少しずつ広げている研究者の姿を書きたい、と私はよく言ってきました。それはまさに地震研の皆さんです。この世界をもっと広げ、センス・オブ・ワンダーを与え続けてくれること。それが私の一つ目の夢です。

理不尽を問いに変えるのが科学

二つ目の夢は、防災・減災に関するものです。私は長岡省吾さんという科学者に着想を得た小説「祈りの破片」を書きました。長岡さんは明治生まれの地質学者。広島文理科大学に勤めていた1945年8月6日、広島に原爆が投下されます。地質調査で山口にいた彼は、とんでもないことが起きたと知り、翌日広島へ。あまりの惨状に疲労し、神社の石灯籠の台座に座り込んだ彼は、針で刺すような痛みに飛び上がりました。花崗岩の表面が発泡して無数の棘ができていたのです。とんでもない爆弾が落ちたと直感した彼は、街を歩き回り、岩石や瓦の破片を拾い集めます。9月には政府が委員会を組織して現地調査に乗り出しますが、ずっと先に自発的に活動を進めていたのです。周囲の理解が得られず、ガラクタを集める変わり者と後ろ指を指されますが、信念を曲げませんでした。1955年、そのガラクタを礎に広島平和記念資料館が設置され、長岡さんは初代館長に就任します。

彼の思いを知ることはできませんが、私が想像したのは、被爆地の科学者として嘆きを問いに変えたということ。理不尽を前に嘆くだけでなく、理性を振り絞り何が起きたのかを問いかけた。詩的な感情を問いに変えるのも科学なら、理不尽を問いに変えるのも科学。その問いに答えを見出せるのが科学者です。

数年前、小中学生と未来の防災社会や防災道具を自由に考えるワークショップがありました。津波を即座に感知してせり上がる防潮堤、地震発生と同時に浮き上がる建物、津波で流された人を見つけて助ける脳改造イルカ、ガチャのカプセルを開けると飛び出るベッド……。アイデアを縦横に語る子どもたちの顔は明るいものでした。

不思議を求める夢、防災・減災の夢は、どちらも好奇心が駆動します。子どものなかでは両者に区別がありません。大人と違い、子どもたちには、こんな世界を作りたい、未来を切り開くのは自分たちだという感覚があると感じます。若い力を地震学や地球科学の世界に引き込めれば未来は明るい。そんな確信につながる体験でした。

研究者よ、熱く専門を語れ!

科学の現場は厳しい状況にありますが、私は希望の兆しも感じます。最近、インターネットの動画サイトで研究者が専門分野を語るものが人気です。わかりやすさを無視して研究を語りまくる。研究者が面白がって話すこと自体が面白い。内容はわからずとも、研究者がこれだけ面白がるなら何か価値があるはず、と思う人が増えているのかもしれません。

「地震学に託す夢」の全文テキストのQRコード
●QRコードから全文が読めます

研究者は冷徹な頭で科学を進めますが、その心には必ず熱いものがあるはず。その熱を惜しみなく表に出していただきたいのです。研究の外側にいる人間は、何よりそれを待ち望んでいます。私も微力ながら小説を通じて地震学や地球科学に貢献する道を模索することを約束します。

地震研100周年、おめでとうございます。

表題作「八月の銀の雪」は新潮社のサイトで全文が公開されています!https://www.shinchosha.co.jp/8gatsuginyuki/

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創立150周年記念事業 150人の集い2025〜総長PRESENTS〜を開催

11月13日、「150人の集い2025」が六本木の国際文化会館にて開催されました。150周年を応援する150人委員の皆様と、総長をはじめとする学内構成員が、周年事業を盛り上げるための対話の場を設けるもので、開催は昨年に続き2回目。東大出身の建築家たちが大名屋敷跡に設計した建物を舞台に催された集いを紹介します。

※前川國男、坂倉準三、吉村順三の3氏(吉村氏は東京美術学校出身)

司会を務めたのは、俳優の菊川怜さんと落語家の春風亭昇吉さん。学生時代を振り返り、建築学科では徹夜で模型を作っていたという菊川さんに対し、経済学部では落語に十分集中できたと昇吉さんが応じ、いずれにせよ東大愛を高める機会にしようと一致して会が始まりました。

最初に登壇した藤井輝夫総長は、先日定めたChallengers for Changesというスローガンに大学変革の決意をこめたと語り、150周年とその先の未来へ皆さんと向かいたいと挨拶。150人委員会の國部毅委員長は、目標額150億円を掲げる基盤基金UTokyo NEXT150を紹介し、学外から力強い支援をと呼びかけて乾杯しました。

歓談タイムを経て登壇した津田敦理事(150周年記念事業担当)は、「響存」を掲げて取り組む事業として、各種カウントダウンイベント、年史編纂、NHKとの連携による記念番組、150円特別メニューの提供などの企画を紹介しました。

そして始まったチャリティピッチは、150周年記念事業の3つの基金プロジェクトの代表者が順に活動を紹介し、会場の参加者が支援先・支援額を決めて投票するというもの。UTokyoインクルーシブ・キャンパス構築プロジェクトのチームでは、ジェンダー、地域、バリアフリー、国際と様々なテーマに取り組む若手構成員と伊藤たかね副学長が支援を募りました。UTokyo NEXT150のチームでは、外部資金を取れない研究こそ支援したいと菅野暁理事が語り、清酒「淡青」を手がける東大蔵元会会長も支援を呼びかけました。「ひらけ!赤門プロジェクト」のチームでは、赤門の重要さと改修プランの選択肢を人文社会系研究科の松田陽准教授と芳賀京子教授が紹介しました。

続いてクイズ大会へ。百五十年史編纂室が考えた難問に正解し続けると三井淳平さん監修の赤門レゴをもらえるという趣向に、QuizKnockの伊沢拓司さんを含む来場者が挑戦。3人まで絞られた後、第4・第5問で全員が不正解となり、最後は赤門プロジェクトを応援する卒業生がじゃんけんで賞品をゲットしました。

その後は、オープンマイクのPRタイムを経て余興ライブを実施。東大在学時代からバンド活動を続けている若手職員が前座を務め、会場に居合わせたシンガーソングライターの加藤登紀子さんも素敵な歌声を披露してくれました。

チャリティピッチの投票結果発表では、赤門プロジェクトが僅差で勝者に。前回を上回る寄付額が記録されたことも伝えられ、会場は大きな拍手に包まれました。

超難問!
東大クイズ
当日会場で出題され、名打のクイズプレーヤーをも翻弄した問題とその答えを紹介します(出題=百五十年史編纂室)
東大人ならわかるよね~
第1問
東京大学の敷地面積の合計は、東京ディズニーランド何個分?
①約6個 ②約60個 ③約600個
第2問
東京大学のキャンパスは「三極構造」をとっているが、最も標高が高いのは?
①本郷 ②駒場 ③柏
第3問
東京大学の運動会の部で、初めて女性部員が入部したのは?
①弓術部 ②馬術部 ③バレーボール部
第4問
1885年、赤門が正式に東大の正門と位置づけられていますが、それまでの主な使い道は?
①まだ邸宅が残っていた前田家の人びとが出入りしていた
②附属病院へ出入りするための通用口
③史料編纂所への史料寄贈者の歓迎用
第5問
工学部の源流である工部省工学寮に、設立当初から存在した学科の名称は?
①造兵学科 ②造船学科 ③造家学科
第1問/東京ディズニーランドは約51㌶、東大は約3.26万㌶なので、正解は③(仮に演習林を除くと①が正解に)
第2問/柏は20m弱、本郷は20-23m、駒場は40m弱で、正解は②(本郷→台地という連想から①を選ぶ人が多数でした)
第3問/1951年に女性部員が入部した記録のある②が正解。
第4問/正解は②。現在と違い、以前の附属病院は心字池・育徳園の南方、赤門近くにありました。懐徳館があるエリアは前田家の敷地でしたが、道路から前田家の敷地へ至る入口は赤門とは別にありました。史料編纂所が東大に移管されたのは1889年。
第5問/正解は③。造家学はarchitectureの訳。現在の建築学科です。当初機械学科の一部だった造船学科は1882年に独立の学科に(現・システム創成学科)。造兵学科は1887年の設置(現・精密工学科)。

◎会場では百五十年史編纂室から『東京大学一五〇周年記念叢書』テーマ篇全44冊の構想が示されました。女性史、バリアフリー史、保育園史……乞うご期待!

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第10回を迎えた物理を学ぶ女子学生のためのイベント 「やっぱり物理が好き!」を開催

図書館のような建物で参加者が集合している様子

11月8日、柏キャンパスで「やっぱり物理が好き!~物理に進んだ女子学生・院生のキャリア~」が開催されました。物理を学びたい学部生や物理分野に進んだ大学院生へのキャリアパス提示を目的として毎年開催されているこのイベントも今年で10年目。カブリ数物連携宇宙研究機構(Kavli IPMU)、物性研究所、宇宙線研究所が主催したイベントの模様を紹介します。

① ② ③ ④ ⑤
①株式会社NGBの肉倉洋恵さん ②東北大学ニュートリノ科学研究センターの渡辺寛子先生 ③物性研究所の森初果先生 ④参加者は2グループに分かれてKavli IPMU、物性研究所、宇宙線研究所を見学しました。 ⑤3人の講演者を囲んでの交流会。お茶やお菓子とともに、将来の進路やライフイベントなどについて様々な意見が交わされました。

先輩たちのキャリア選択

物性研究所の井手上敏也先生による開会挨拶で幕を開けたイベント。Kavli IPMU棟で行われた講演会で、最初に登場したのは、株式会社NGBで特許の権利化業務に従事している肉倉洋恵さん。工学系研究科物理工学専攻では、強磁性と強誘電性を併せ持つ「マルチフェロイクス」という物質を研究し博士号を取得。その後のキャリアやライフイベントなどについて悩んだ末に選んだのは、企業への就職だったとこれまでの道のりを語りました。知財の仕事では、技術を理解して正確に言葉にする力が求められること、そこに研究で培った論理的思考力や探求心が役に立つなど、理系のバックグラウンドを活かせる職種であることを紹介。「女性のキャリアは千差万別。とにかく周りと比べない。やりたいことを決め、その選択を信じて目の前のことをコツコツ続けるのが非常に大事だと思います」と後輩たちにメッセージを送りました。

続いて講演したのは東北大学ニュートリノ科学研究センターの渡辺寛子先生。東北大学理学研究科の修士課程でニュートリノの到来方向を測定するための液体シンチレーターの開発に取り組んだこと、そこで世界最先端の研究に関わるというワクワク感を感じ始めたことなどについて述べました。修士課程修了後は就職活動もしましたが「ニュートリノ実験以上に心を動かされるものは見つからなかった」と話し、博士課程に進む決断に至った背景を説明。また、子育てと仕事の両立や、岐阜県の神岡鉱山内で行っている反ニュートリノ検出器「カムランド」を用いた研究についても紹介。研究者の醍醐味は、自分の工夫次第で見たい物理に世界で最初に触れられることだと言い、「広い視野を持って何事にも挑戦し、楽しんでほしい」と参加者に語りかけました。

自然が問いに答えてくれる

休憩を挟み、参加者が3つの研究所を見学した後には、分子性機能物質開発などを研究する物性研究所の森初果先生が講演。高校時代の授業で、透明なアルミナにクロムを入れると赤いルビーに、チタンや鉄を入れると青いサファイアになることを学び、物質の性質を知りたいとお茶の水女子大学の理学部化学科に進学したこと、大学院では電気伝導性を持つ有機物質の開発研究に取り組んだことなどこれまでの道のりを紹介。子供が小さかった時の苦労や有機機能性物質研究についても触れたうえで、「自然に問いを投げかけるといつも予想外の答えが返ってくる研究は、人智を超えている。大変なことも多いがとても楽しい。これから修士や博士課程で研究を楽しんでほしい」と学生たちにエールを送りました。

交流会の最後に閉会挨拶を述べたのは物性研究所の松田巌先生。「人生の岐路に立った時、先輩方が言っていたことを思い出してもらえれば」と参加者に語り、和やかな雰囲気のなかイベントは終了しました。