東京大学教員の著作を著者自らが語る広場

白い表紙に産婆と赤子の絵画

書籍名

近世フランスの法と身体 教区の女たちが産婆を選ぶ

判型など

496ページ、A5判

言語

日本語

発行年月日

2018年2月23日

ISBN コード

978-4-13-026157-9

出版社

東京大学出版会

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近世フランスの法と身体

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過去に生きた人たち、それも歴史に名を残すような特別な人たちではないごく普通の女や男、子どもたちは、いったい何を感じ考えて生きていたのだろうか。高校の世界史でフランス革命や産業革命、王朝の変遷の歴史を大枠として学んでいても、血や肉をもつ生きた人間のリアルな経験に想像が及ぶことはまれである。本書は、1780年代初めにアルザス南部の山岳地帯に起きた助産婦の選任をめぐる係争事件を対象にしている。本書はいわゆるミクロストリアであり、小さな世界を対象にしながらより大きな全体へと至るところにおもしろさがある。
 
類似する係争はあちこちの村で起きていた。なかには長期化し、村の女房たちが集まって請願書をしたため、ヴェルサイユの国務会議にまで訴えを起こした場合もある。村の女房たちはストラスブールの無料講習会で教育をうけた新しい助産婦を拒み、無資格のしかし助産の力があるとみなされていた女が仕事を続けることを求めていた。18世紀の農民の女の行動としてこれは稀有な動きである。この地域の国王代理官によると、争いが起きたのは、この地域に存在した「女房たちが多数決によって産婆を選ぶ」という慣習が無視されてからだという。しかし史料を読む限り、そのような約束事が予めあったようには見えない。そもそもなぜ女房たちは、それほどまで執拗に新しい助産婦に反対したのか。
 
謎を解くために、わたしはまず関係文書の比較的多く残るモーシュ及びその隣接集落の動きに焦点を絞り、この村落の置かれていた社会の仕組みや文脈を仔細に明らかにしていった。前提となっている司法行政上の機構、ベルサイユにあった王国中枢、国務会議との繋がり、この地域を包摂している中世以来の大修道院Murbachの所領経営の実情などである。
 
こうした予備的考察を踏まえて、さらに事件に先立つ数十年の間に起きていた当該地域の環境変化にも注目した。その結果、世紀半ばから後半に至る時期に、鉄鋼所や捺染会社が到来し、急速な人口増が起きていたことや、この森林地帯の人々が生活の糧にしていた森林の利用権を失う一方で、女たちは家の内外で捺染会社に雇われ賃金収入をえるようになり、ジェンダーや共同体の内と外の境界がゆさぶられていたこと、そしてこうした変化のなかで、この地域の領民が不安や緊張を抱えながらも自らの世界への自覚と凝集力を高めつつあったことを明らかにした。
 
一方、謎を解くもう一つの大きな鍵は、助産を受けた産婦たちの死の原因であり、これについても検討を加えている。この時期、医学の体制や助産技法、人体に対する認識は変化しつつあり、外科医のプレゼンスが増すにつれ、外科医を中心とする助産が制度化されつつあったことが明らかになった。実際、鉗子を用いる助産がよりよいものとして肯定され、急速に広がっていくこの時期に、産褥熱による産婦の死も急増している。
 
本書は随所で「比較史の方法」を用いているが、加えて論争空間にも深く踏み込んでいる。鉗子使用を有効とみなす見方は18世紀半ばから確立されていく新しい認識であるが、それは解剖経験を梃に内科医への対抗を意識した外科医たちの言説を通じて構築されていったものである。論争に現れる力の磁場を考察することで、その背後で何と何がせめぎあい、どのようなかけひきがあったかが如実に浮かび上がってくる。ちなみに、ここでの考察はわたくしの既刊の書『お産椅子への旅』(2004年) や『さしのべる手』(2011年) とも密接に関わっている。
 
読者は「謎解き」をしながら次第に歴史の深みへと誘 (いざな) われる…。とはいえ犯人探しや罪を裁くことが目的ではない。本書のねらいは、過去すなわち「他者の世界」を可視化し、血や肉をもつ人間の営みとして手許に引き寄せ、理解可能なものにしていくことにある。
 

(紹介文執筆者: 総合文化研究科・教養学部 教授 長谷川 まゆ帆 / 2018)

本の目次

序  論  身体性の歴史学に向けて
 
第1章  アルザス南部の事例――紛争の経緯と謎,背景にある地域的特質
    第1節  史料との出会いとその概要
    第2節 事件の経緯と展開――モーシュ他三集落の文書を中心に
    第3節 背景にある地域的特質
 
第2章 地方長官によるストラスブールの助産術講習会の開設
    第1節  ストラスブールの助産術講習会
    第2節  地方長官ガレジエールとロレーヌの現状
    第3節  サン・ディエの助産術講習会の開設に向けて

第3章  隣接事例との比較1――ベルフォール補佐管区の場合
    第1節  受講生選択の経緯
    第2節  帰村した助産婦への反発 / 嫌悪
    第3節  鎮まらぬ紛争――モーシュ他三集落の事例の特異性

第4章  隣接事例との比較2――ロレーヌ南部ドン・ジェルマンの場合
    第1節 一七〇八年の判決にみる紛争のパターン
    第2節 誓約した産婆の専任
    第3節 未洗礼死産児の洗礼と埋葬             

第5章  渓谷の変容――境界のゆらぎ
    第1節  教区の内と外の境界
    第2節  ジェンダー役割,労働空間,宗派の境界
    第3節  中間役人のゆらぎ

第6章  助産技法の変化と助産婦の制度化――場・仕方・人間の関係の再編
    第1節  アンドレ・ルヴレの著作と難産への対処法
    第2節  助産婦と外科医の関係性の変化
    第3節  産褥熱による死と内科医社団の認識             

結  論  「選ぶ自由」の承認と慣習の形成


 

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