哲学・思想には、しばしば師弟の関係が見いだされる。たとえば、アンリ・ベルクソンとエティエンヌ・ジルソンの師弟関係のような。視野を広げていえば、この師弟の関係は、ヨーロッパ・アメリカの思想家・哲学者と日本の教育研究者・実践家の関係にも見いだされる。「大正新教育」(「大正自由教育」) と呼ばれる教育運動は、日本の教育研究者・実践家が、ヨーロッパのベルクソン、ドクロリー、ドモラン、モンテッソーリ、アメリカのデューイ、キルパトリック、パーカーストなどの思想・哲学に学び、触発され喚起されること、いわば「師事」することをふくんでいる。
この学び、触発され喚起されるということは、どのような営みなのだろうか。同じ本を読んでも、触発もされなければ、喚起されることもない人もいる。その事実を考えれば、何らかの事象・言説に学び、触発・喚起されることは、すでにその事象・言説との文脈的通底性がそれを受けとる人にあるからこそ、生じる営みである、といえるのではないだろうか。この文脈的通底性は、端的にいえば、一人ひとりの感受性と不可分である固有な意味世界の通底性である。この文脈的通底性もまた、事後的に明らかになるもの、いいかえれば、あとで遡及的に思考するときに象られるものではないだろうか。
大正新教育を歴史的・思想的に研究することは、こうした「遡及的思考」(retroactive thinking) を実際に行うことである。複数の事象・言説の多様性のなかに何らかの共通性を見いだすことが「抽象的思考」であるとすれば、遡及的思考は、そうした抽象的思考から区別される。大正新教育の実践を主題とする本書の試みも、この遡及的思考の試みである。むしろ、実践を主題とするからこそ、遡及的思考が必要となる。遡及的思考においては、述定/遂行の区別のもとで語られる遂行としての実践のとらえがたさが、棚上げされるからである。実際に進行している実践は、これこれであると確定する述定と背反するが、遡及的に思考される実践は、物理現象のように進行している事物ではなく、研究者が対峙し思考する他者の思考である。その思考は、創始をともなう。
本書では、大正新教育にかかわるさまざまな立場の実践 (praxis) の裡に、どのような思考があったのかを読み解いていく。当時、文学、芸術、宗教、哲学など教育を取り巻くさまざまな場所で湧き出した「自由」は、それを実践した人たちをどのような創造に向かわせていったのか。彼らはなぜ教育と交わらなければならなかったのか。大正新教育にかかわった人びとの生動的な思考に迫るためには、彼らが異質な思想や実践に学んだ際の先取的相同性を理解したうえで、彼らの実践(創始的なるもの)を生み出した「構想力」に注目する必要がある。実践者の思考を解明しようとする私たち自身が、彼らと同様の「構想力」ないしは「想像力」を働かせて彼らの実践を読み解くとき、そこにもまた文脈的通底性が立ち現れてくるだろう。
(紹介文執筆者: 教育学研究科・教育学部 教授 田中 智志 / 2021)
本の目次
――大正新教育の「実際的」とは何か 橋本美保・田中智志
第I部 教育思想史からのアプローチ
第1章 片上伸における道徳教育としての文芸教育
――文芸評論から文芸教育 李 舜志
第2章 有島武郎の生長教育論
――『一房の葡萄』の愛 田中智志
第3章 野口援太郎の修養論
――教師における科学的態度の形成 香山太輝
第4章 河野清丸の「自動主義教育」における教師と子どもの関係論
――「生活」概念をめぐる倉橋惣三の保育思想との比較を通じて 田口賢太郎
第5章 羽仁もと子における自由
――「自労自治」の生活と「宗教心」の教育 相田まり
第6章 篠原助市の自由教育論 木下 慎
第7章 木村素衞の教育思想の臨床性
――「プラクシス」を語る言葉 西村拓生
第II部 教育実践史からのアプローチ
第8章 大正新教育と学習経済論
――「能率の共同体」における自由 冨士原紀絵
第9章 大正新教育の実践にみる教育測定研究の意義
――平田華蔵による測定法導入と教師の変容 宮野 尚
第10章 東京女子高等師範学校附属小学校における作業教育の実践改革
――「真の社会」を構成する「交通」と「共働」の「自由」 遠座知恵
第11章 東京女子高等師範学校附属小学校のカリキュラム改革における教科研究
――唱歌専科訓導玉村なみと低学年担任訓導による題材研究 塚原健太
第12章 富士尋常小学校のカリキュラム改革にみる教師の協働
――教師の成長を促す学校経営 橋本美保
第13章 ランバス女学院附属幼稚園における自由保育の実践
――高森富士の保育論に着目して 永井優美
第14章 倉橋惣三における誘導保育論の成立
――アメリカ新教育理論の受容 湯川嘉津美
終 章 交響する自由へ
――実践・自然・交感のつながり 田中智志