本書は2008年に《興亡の世界史》というシリーズの一冊として出版された書物を、その10年後に文庫化したものである。本書が成立する細かな経緯については、文庫のあとがきに詳述したので、それを読んでいただきたいが、インカ帝国とスペイン帝国という、二つの異質な世界史空間を生きてきた社会を、最初のグローバリゼーションであった大航海時代という文脈において接続させ、叙述するという試みは、今から思うと、かなり大胆なものであった。
 
私の専門はインカ帝国史、そしてスペインによる征服後のアンデス先住民の歴史的動態の研究である。しかし、シリーズの編集部から与えられた課題は、アンデス世界を、大西洋をまたいで、スペイン帝国の歴史と結びつけて論じて欲しいというものであった。もとより、私はスペインの歴史に関しては門外漢ではあるが、それを勉強することはとても好きだったので、先行きは皆目見当つかなかったけれど、とりあえずは中世・近世イベリア史をめぐる最新の研究書をありったけ、山のように積み上げ、しばらくはそれを貪り読む楽しい日々を過ごした。だが二つの帝国の歴史を結びつける糸がなかなか見えてこない。しかしやがて勉強が熟してきた頃、ようやくそれらしきものが見つかった。宗教的マイノリティとしてイベリア半島において厳しい迫害を受け、やがて追放され、世界各地に飛散するという過酷な運命をたどったユダヤ人たちが、大西洋を媒介として、アンデスの世界に深く入り込み、その歴史に独特の色合いを与えていたことがわかってきたのである。彼らを描き出すことで、アンデスの歴史が、いままでとは異なった色調を帯びだした。
 
ユダヤ人のみならず、海を縦横無尽に横切った多くの人々、社会の底辺にありながら、魔術的能力を発揮して、豊かな文化的活動を展開していた女性たち、そして征服後も独自の伝統を再生させていたインカ帝国の末裔たちの姿、こうした人々の歴史的動態を、二つの帝国の交錯が産み出した古文書を読解することで浮かびあがらせつつ、すこし風変わりではあるが、新しい歴史像を叙述のなかから浮かびあがらせることが出来たのではないか、と微かに思う。
 
本書が最初に出版されてしばらくして、アンデス史研究の泰斗である染田秀藤氏が書評 (https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=37180&file_id=19&file_no=1) を寄せてくださり、「管見によれば、本書ほど、多層的なアンデス社会の動態とアンデスの人々の心性の変化を 400年近くに及ぶ長期の時間的スパンで通観し、しかも、それをスペイン史と密接に関連づけ、正統派の歴史からひさしく抹殺されてきた「社会的弱者」に視点を据えて分析、解明した類書は世界でも数少ないといっても過言ではない。」という過分な評言をいただいたが、「類書は数少ない」という言葉には、裏を返せば、大西洋を舞台にして二つの帝国の歴史を交錯させるという本書の試みが、じつに無謀で危険なものであったことが示唆されてもいるのであり、本書が出版されて10年以上が経つが、今も読み返すと、よくもこれだけ、歴史叙述という舞台でふてぶてしく振る舞えたものだと、内心冷や汗が出る思いがする。
 

(紹介文執筆者: 総合文化研究科・教養学部 教授 網野 徹哉 / 2019)

本の目次

関連情報

台湾で出版された中国語 (繁体字) 版:
【興亡的世界史】印加與西班牙的交錯─從安地斯社會的轉變，看兩個帝國的共生與訣別』 (八旗文化、2018年12月刊行)
https://www.bookrep.com.tw/?md=gwindex&cl=book&at=bookcontent&id=13291
 
書評:
染田秀藤 (大阪大学) 評　(アメリカ太平洋研究 = Pacific and American studies　2009年3月)
https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=37180&file_id=19&file_no=1
 
『インカとスペイン　帝国の交錯─興亡の世界史 第12巻』網野 徹哉　(一般社団法人ラテンアメリカ協会ホームページ　2008年10月29日)
https://latin-america.jp/archives/5656
 

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