「記号」とは、意味を表す媒体であり、何かの対象を指し示すものをいう。たとえば、「木」において、この「木」という文字、あるいは、「き」という音は、木々を指し示すため「木」は記号である。この例からも明らかであるように、言葉の一つ一つは記号である。さらに、記号は言葉に留まらず、一見そうとは思われないものも記号の内である。たとえば、「ベートーベンの第九」は、日本においては年末を象徴することも多く、また、クラシック音楽の代表の一つを表すこともあり、それは一つの記号を形成する。また、痛みのような曖昧なものであっても、その現象は体の不具合を指し示すため、記号とみなすことができる。
Man is a sign ----人は記号である---とは、記号論の父C.S.パースの言葉である。人は記号を媒介することにより対象を認識し、記号は周りにあふれている。さらに、近年の情報技術は、実体の記号化を押し進め、現代において人は記号の大海の中を生きているといっても過言ではない。
記号の特性を論じる学問分野は記号論---英語ではSemiotics---である。記号論は、ソシュールならびにパースにより考えられた。解析対象は、自然言語を超え、音楽、写真、映画、無意識、そして、昨今では動物の発声や間(ま)などまでを含む。また、記号が増殖する動態やそれが及ぼす社会的影響にも、その考察は広がる。その中で、基本的な単位である記号の性質は、思想家の言質がそれとして残されているに留まり、その本質を体系立って整理するようなことは行われて来なかった。
本書は、情報技術の中でもプログラミング言語を、記号論の視点から捉えることを通して、記号論の基礎を再考する書である。プログラミング言語の背景には形式言語理論があり、その表現は記号の本質を捉えているともいえる。本書は、形式言語理論と諸記号論の対応を考えることを通して、記号論に関するこれまでの理論を整理し、「記号一般の性質」を再考する。
表題に表されているように、記号の本質は、その再帰性、すなわち「自身を参照することで分節される」という点にある。再帰性が故に記号は恣意的であり、そして記号の系は差異の体系を形成する。本書は三部から構成され、第一部でこの記号の本質を考察した後、第二部で記号にどのような種類があるのか、第三部で記号がどのようなシステムを構成するのかが論じられる。異なる視点から、ソシュールとパースの理論体系のそれぞれの、プログラムの形式言語理論との対応が考察され、記号に関する論点が体系的に整理されている。
現在、記号論は国際的な学術分野を形成している。学術誌Semiotica他を始め、記号論の世界的動向を総覧する書籍も数年に一度のペースで出版されている。その中で、本書に対応する英文書籍「Semiotics of Programming」は、記号論の観点を超えて位置付けられ、参照されてきた。本ページの以下では、本書に対する代表的な言及のいくつかが参照されている。
(紹介文執筆者: 先端科学技術研究センター 教授 田中 久美子 / 2020)
本の目次
1章 人工言語と記号論
2章 情報記号
第1部 記号のモデル
3章 バビロンの混乱
4章 記号が一体化する時
5章 「である」と「する」
第2部 記号、対象の種類
6章 文 x:=x+1
7章 三種類の項
8章 ある■・その■
第3部 記号のシステム
9章 構造的・構成的
10章 記号と時間
11章 系の再帰と進化
12章 結 語
新装版によせて
関連情報
第19回2010年度大川賞・大川出版賞受賞 (公益財団法人大川情報通信基金 2011年3月)
http://www.okawa-foundation.or.jp/new/20110405.html
第32回サントリー学芸賞 (思想・歴史部門) 受賞 (サントリー文化財団 2010年12月)
https://www.suntory.co.jp/sfnd/prize_ssah/year/2010.html
著者インタビュー:
つながるコンテンツ 研究の壁を越えたとき IV 「コンピュータでもわかる記号論。」 (researchmap 2011年1月13日)
https://article.researchmap.jp/tsunagaru/2010/02/
書評:
大川出版賞 選評 (公益財団法人大川情報通信基金 2011年3月)
http://www.okawa-foundation.or.jp/activities/publications_prize/list.html
「記号論」は一般的に自然言語において、言語現象についての哲学の一分野を形成するものといわれているが、本書は、自然言語と異なり、整備された規則をもつプログラミング言語を記号系の観点から捉え直し、再帰性の概念を軸に人間の記号系の本質を再考しようとする意欲的な書である。工学と人文・社会にまたがる幅広い視点からの考察が加えられており、著者の見識の深さとその観察力に豊かな才能を見る。今後、コンピュータを制御するプログラミング言語という形式的な記号系において再帰性をどのように扱っていくのかということについての問題を提起し、国際的なレベルの新しく深い知見を展開した著作であり、学術的にも優れた専門書である。
岩井克人 (国際基督教大学特別招聘教授) 評 サントリー学芸賞 選評 (サントリー文化財団 2010年12月)https://www.suntory.co.jp/sfnd/prize_ssah/detail/2010sr1.html
McGee, K. National University of Singapore, Singapore
Book review / Artificial Intelligence 175(5-6),930-931
https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0004370211000129
John H. Connolly, Loughborough University, UK
Book review / Cambridge University Press
http://www.cambridge.org/us/catalogue/catalogue.asp?isbn=9780521736275
Marcel Danesi, University of Toronto
Book review / Cambridge University Press
http://www.cambridge.org/us/catalogue/catalogue.asp?isbn=9780521736275
Kyo Kageura, University of Tokyo
Book review / Cambridge University Press
http://www.cambridge.org/us/catalogue/catalogue.asp?isbn=9780521736275
Simon Thompson, University of Kent Canterbury, United Kingdom , Computing Reviews
Book review / Cambridge University Press
http://www.cambridge.org/us/catalogue/catalogue.asp?isbn=9780521736275
George Lazaroiu, Linguistic and Philosophical Investigations
Book review / Cambridge University Press
http://www.cambridge.org/us/catalogue/catalogue.asp?isbn=9780521736275
Rudy McDaniel, University of Central Florida
Book review / Cambridge University Press
http://www.cambridge.org/us/catalogue/catalogue.asp?isbn=9780521736275
Kumiko Tanaka-Ishii — Computational Semiotics Pioneer
https://medium.com/a-computer-of-ones-own/kumiko-tanaka-ishii-computational-semiotics-pioneer-51a4aaeab8ff
Wikipedia:
https://en.wikipedia.org/wiki/Computational_semiotics
関連記事:
“Semiotics of Computing : Filling the Gap Between Humanity and Mechanical Inhumanity”
In International Handbook of Semiotics, chapter 44, pages 981|1002,Springer, May 2015.
https://link.springer.com/chapter/10.1007/978-94-017-9404-6_44
初版:
記号と再帰 (東京大学出版会 2010年6月発行)
http://www.utp.or.jp/book/b306064.html