アフェクトゥス (情動) 生の外側に触れる
2020年代、私たちは自らを取り巻く世界との関係を根底から考え直す必要に迫られている。この文章を書いている今(2021年8月)、私たちが目前の問題として抱え続けているのは新型コロナウイルス感染症の問題であり、またその背後では、地球温暖化の問題がますます切迫感を増してきている。「人間が世界から独立した存在であり、自由意志に従って世界を動かしていればよい」というのは幻想であり、少なくとも持続可能なアイデアではない。
西欧近代的思考では通常、人間および諸事物をまず個々独立の存在と捉え、次にそれらが織りなす相互関係を捉えて分析するという、二段階のステップを踏んできた。しかし、そうした形式的手続きに従うのをやめ、むしろ全ての存在が、周囲の事物から影響され (affectされ)、またそれらに影響を与える (affectする) という相互関係の中で生成してくる、という根本的事実をまっすぐ認めてみよう (実際私たち自身も、そうやって母親の胎内から生まれ出てきたのである)。論文集『アフェクトゥス――生の外側に触れる』は、スピノザの「アフェクトゥス」の概念――affectusとは、とりあえずは、上のaffectという英語の動詞の抽象名詞化と考えればよい――を手がかりに、様々な分野を専門とする14人の著者が各自の研究素材を用いつつ、世界を新しい仕方で捉えなおそうとしたものである (理論的側面の詳細については「終章」を参照のこと)。
より細かく言えば、14人のうちの9名は先端的な人類学者であり、残りの5名は日本画 (中村恭子)、霊長類学 (黒田末寿)、認知心理学 (高木光太郎)、哲学 (近藤和敬)、生命理論 (郡司ペギオ幸夫) といった多様な分野の専門家である。人類学者の側も取り上げたテーマは多様であり、植物と人間 (箭内)、民族誌における「影」の次元 (クラパンザーノ)、南タイの一女性とその家 (西井凉子)、スーダンの半農半牧民の「夢」(岡崎彰)、ニジェール農村の命名式 (佐久間寛)、ルーマニアのロマの家屋 (岩谷彩子)、ネパール村落の太鼓演奏 (名和克郎)、贈与の一般的考察 (春日直樹)、そしてAI将棋 (久保明教) となっている。全体として一望すれば、人類学者の方は21世紀の文化人類学の広大な広がりを反映し、現代世界の諸相について多様な角度から切り込む形になっており、さらに人類学以外を専門とする著者たちが、それを囲むようにして、本全体の理論的射程を大きく広げていると言うことができる。以上の紹介から、この本が雑多な文章の寄せ集めのような印象を受けた人もいるかもしれないが、そうではない。諸章の内容は研究会の中で議論され、相互に影響を受けながら発展させられたものであり、研究会の終盤では、著者全員が、多様な論考を貫く共通のアイデアが力強く存在していることを感じたのであった。また、『天然知能』(2019) の著者である郡司ペギオ幸夫の議論がこの本全体に与えた影響は重要であり、「生の外側に触れる」という副題はそれを表現している。
付言すれば、2021年度前半の文化人類学コースのゼミ (大学院・後期課程合併) でこの本を取り上げたが、他専攻の学生も多く交えて毎回活発な議論が展開された。さらに終盤の2回では、文化人類学コース博士課程の院生5名がこの本からの触発をもとにした独自発表を行って授業参加者からも大きな好評を得た。「アフェクトゥス」が私自身の予想をも超えるほど刺激的な概念であることを感じさせられた出来事であった。
(紹介文執筆者: 総合文化研究科・教養学部 教授 箭内 匡 / 2021)
本の目次
序 章 書き割りの身をうぐいす、無限小の幸福 [中村恭子]
1 アフェクトゥス、あるいは空虚を身体に刻む
2 顕在する仮想と潜在する現実
3 書き割りの向こう側
4 書き割りの身、うぐひすは無限小の幸福
5 外部に控えるものたち
第1部 アフェクトゥス論の射程
第1章 スピノザと「植物人類学」
―アフェクトゥス概念の人類学的一展開 [箭内 匡]
1 スピノザにおける個体と撼動
2 植物人類学の必要性
3 植物的アニミズム
4 植物の政治
5 「植物になる」
第2章 熱帯雨林との感受―共振とうなり [黒田末寿]
1 感受の様相
2 森を感受する:共振とうなり
第3章 光 景―現実に陰影をつける
[ヴィンセント・クラパンザーノ(池田昭光・小栗宏太・箭内 匡[訳])]
第2部 アフェクトゥスと潜在性―生・死・影
第4章 弔いとしての家―情動・モノ・死者 [西井凉子]
1 「弔い」から生の潜在性へ
2 ナーチュアと家
3 ケアと看取り―死にむかう身体と家
4 死によって開かれる家
5 墓と親族のサーラー(sala あずま屋)
6 「弔い」と情動
第5章 悪夢を感受し、「夢達」を甘受する
―スーダン東南部における影の共同体 [岡崎 彰]
1 夢経験の受動性と事件性
2 影の共同体
3 魔物と誘惑
4 陽気な夢達
第6章 生を産むアフェクトゥス
―ニジェール西部農村の命名式をめぐって [佐久間寛]
1 背景
2 命名式
3 名付ける身体、名を受ける身体、名を記す身体
第3部 アフェクトゥスと社会性―表層・リズム・パターン
第7章 皮膚的建築
―情動の場としてのルーマニアのロマの家屋と音楽 [岩谷彩子]
1 情動の場における表面性
2 ルーマニアのロマ―迫害の歴史と現在
3 ヴァーチャルなものが現在化する建築―ロマ御殿の表面
4 ロマ御殿に響くマネレ―顕在化するコミュニティ内の対立
5 表面的でかつヴァーチャルな深層が表出する建築と音楽
第8章 境界、動作、リズム
―ビャンス及び周辺地域の「太鼓演奏」の諸相 [名和克郎]
1 太鼓演奏がもたらすもの
2 民族誌的背景
3 「太鼓演奏」に関する外形的記述
4 代表性と周縁性―太鼓演奏を巡る二つの境界
5 太鼓演奏と踊る身体
6 演奏とリズム
第9章 「贈与」をあたらしく記述する [春日直樹]
1 「アフェクト」とパターン
2 妻方と夫方のあいだで
3 対称性を記す
4 やりとりする人と財、および双方の視点
5 「贈与」の簡潔な定義I
6 友好と敵対のダイナミクスを含む定義II
7 「贈与」のパターンと「アフェクト」
第4部 アフェクトゥス論の発展
第10章 テクノロジーと情動―現代将棋における機械と人間 [久保明教]
1 技術と変様
2 意識の専制を離れて
3 これは世界の終わりではない
4 バグとバグでないもの
5 研究と勉強
6 テクノロジーへの内在
第11章 回想の表情/姿勢とその揺らぎ
―供述聴取のテクノロジーをめぐって [高木光太郎]
1 証言の表情
2 想起者の表情/姿勢の曖昧さ
3 証言の「採取」
4 子どもからの供述聴取
5 NICHDプロトコル
6 「隙間のあるフレーミング」と外部
第12章 ドゥルーズとガタリの「政治哲学」という未解決問題
―『天然知能』と『イメージの人類学』の観点から [近藤和敬]
1 本書全体のなかでの位置づけ―「アフェクト」という問題圏を遡る
2 ドゥルーズとガタリの『哲学とは何か』における未解決問題
3 哲学を「原生理論」として徹底すること―「自然権」概念を例に
4 郡司ペギオ幸夫の「天然知能」とドゥルーズとガタリの「脳」
5 「三つの意識タイプ」と『哲学とは何か』における哲学・芸術・科学
6 「タイプIIIの意識」と哲学の「現在形式」
7 現代人類学における「他なるもの」と「不可量部分」
8 箭内匡の「イメージ」と「社会身体」
9 「イメージ平面」、「イメージ=力」あるいは「感受」の解釈
10 「総かり立て体制」と資本主義における「相対的脱領土化」、
そして思考の「絶対的再領土化」の「現在形式」への批判
11 結論
第13章 外部を召還する過程・装置としての情動、
その形式的理解 [郡司ペギオ幸夫]
1 形式を通した理解の意味:身体と対角線論法
2 認知的非局所性を構想する:対角成分の向こう側
3 反=反相対主義の情動的転回:まとめにかえて
終 章 アフェクトゥスとは何か? [箭内 匡・西井凉子]
1 アフェクトゥスの問題性
2 スピノザのシステム
3 撼受と撼動の間で―「外部」と個体性
4 結晶的描写
5 アフェクトゥス的世界像
おわりに [西井凉子・箭内 匡]
索 引
関連情報
編者のコメント: 西井凉子 (東京外語大学アジア・アフリカ言語文化研究所/教授) (TUFS Today / 東京外大教員の本ホームページ)
https://wp.tufs.ac.jp/tufstoday/books/20120001/
イベント:
京都人類学研究会季節例会:生の外側に触れる―アフェクトゥスから問う人類学 (京都人類学研究会 2021年1月10日)
https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSdK5OJzfGfqXcPuqZoAJMPJPHPGdIz0ZH2dRWswc0pSEZkbaw/viewform