(芸術の合法性 決疑論が映し出す演劇の問い) La légalité de l'art La question du théâtre au miroir de la casuistique
一個の現実的な制度として見たキリスト教が、たとえば「悪徳の学校」の名のもと、古くから演劇を長く執拗に敵視してきたことはよく知られ、数多くの研究があります。その反面、この同じ制度が演劇を良心の呵責なしに楽しむのを許容するように至ったのはいつのことなのか、どのようにしてなのかということはあまり注目されずにきました。
重要な転回が生じたのは近世 (16-17世紀)、キリスト教言説の一部門である道徳神学、あるいは少し専門的な呼称を用いるなら「決疑論 (英: casuistry)」という、今日の応用倫理学にも比べられるような領域においてのことでした。本書は、巨大な、しかし今日なお必ずしも十分には探究されていないコーパスの一隅をメイン・フィールドに、たとえばパスカルによって「偽善的」と手厳しく糾弾されもした一群の神学者たちがときに詭弁へ危うく接近しつつ、猥雑な題材を含んだ世俗演劇に対する興味関心をいってみれば「合法化」していった過程を追いかけたものです。
そのなかで、たとえば、異端者の役を演じながら自身も異端的な思想を抱いている役者を異端の罪で裁くことは可能かという不思議な事案、一見して演劇とは無関係のように見える秘蹟論のなかの「心偽る者 (羅: fictus)」をめぐる論争、舞台上で受けた洗礼は洗礼としての効果を発揮するのかといった問題、芝居をやめたら餓え死するほかないと訴える役者に返答する教皇、不倫や殺人について思惟をめぐらせて楽しむ者と同じく不倫や殺人を題材とする芝居を見物して楽しむ者との類似といった、雑多な、そしてときに不謹慎と思われるかもしれないあれこれのトピックをあつかうことになりました。
上記のような問題群にいったいどんな意味があるのか、また、それが冒頭に述べた合法化という主題とどのように関係するのかについては本文を読んでいただくとして、著者としては、今日のわたくしたちがいわゆる「表現の自由」を論じるにあたって無自覚にリサイクルしてもいる主題——少なくともそのいくつか——を取り上げ、いわば忘れられた料理のレシピを再現するように、楽しみを拝することなく味わってみたいと考えました。それは同時に、今日では問うまでもなく自明とされている「芸術はよいものである」という理解の歴史的背景を問い直す作業のつもりでもありましたが、こちらについて、問いはなお開かれたままであると感じているところです。
(紹介文執筆者: 総合文化研究科・教養学部 准教授 森元 庸介 / 2022)
本の目次
横山義志:「表象」と「上演」──森元庸介『芸術の合法性 決疑論が映し出す演劇の問い』がひらく問題圏 (『REPRE』Vol.45 2022年6月30日)
https://www.repre.org/repre/vol45/topics/yokoyama/
Tetsuya SHIOKAWA (Académie du Japon) (『LITTERA』7巻p.127-131 2022年)
https://doi.org/10.20634/littera.7.0_127
イベント:
【報告】UTCPレクチャー「藝術は合法か? 近世決疑論に照らして考える」 (東京大学大学院総合文化研究科・教養学部付属 共生のための国際哲学研究センターUTCP ホームページ 2011年5月20日)
https://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/blog/2011/05/report-utcp-lecture-is-art-leg/