本書は、瑜伽行派というインドの大乗仏教の思想を概説している。瑜伽行派は、唯識思想を唱えた学派として知られている。この学派は外界の実在を否定し、すべては認識の結果であると主張している。その思想は、無着 (アサンガ、5世紀頃) と世親 (ヴァスバンドゥ、5世紀頃) という兄弟によって完成されたと考えられている。しかしながら、瑜伽行派の思想の発展を調べていくと、必ずしも初めから唯識説を唱えていたわけではない。むしろ、最初期の思想では、実在という概念が重要な意味をもっていた。この実在を中心とする思想は、これまであまり研究されていない。実在を重視していたはずの瑜伽行派が、なぜ唯識を唱えるようになったのか、その思想の変遷の過程を俯瞰することが、本書の目的である。
さまざまな史料を紐解くと、瑜伽行派の思想は無着と世親の独創によるものではないことが窺える。伝説によれば、無着は兜率天という天界で、弥勒菩薩 (マイトレーヤ) から瑜伽行派の典籍について教えを受けたとされている。それは『瑜伽師地論』という典籍で、無着はこれを世に広めたといわれている。
ところで、ここでいう弥勒菩薩は天上界の菩薩であり、実在の人物ではない。無着が瞑想の中で弥勒菩薩と出会ったことが、弥勒菩薩から無着への教えの伝授という伝説になったとも考えられる。これはいわゆる神秘体験を想定した解釈だが、文献の伝承過程のような現実的な出来事も、この伝説の背景にあるかもしれない。『瑜伽師地論』は非常に浩瀚な文献で、古い資料を基にして増広された編纂物と考えられている。その編纂作業には複数の人物が関わったとされ、無着もその一人であったと考える研究者も多い。このような伝承の過程で、無名の思想家たちの著作が弥勒菩薩に帰せられていた、と考えることもできる。いずれにせよ、無着以前にすでに瑜伽行派の文献が存在し、それらが弥勒菩薩の説として伝承されていたことは、いくつかの史料から確認できる。
さて、無着と世親は唯識説を完成し、外界の対象は実在せず、ただ認識の結果だけが存在すると主張したが、無着が弥勒菩薩から伝承されたという『瑜伽師地論』では、むしろ実在が重要な意味をもっている。『瑜伽師地論』の中でも古い思想を伝えている部分では、言語表現し得ない実在を中心に思想が構築されている。これは唯識説とは相容れない思想のように見える。そのため、唯識思想研究ではあまり触れられてこなかった。しかし、瑜伽行派は唯識説を説くものという先入観を持たずに『瑜伽師地論』を精読すると、実在重視の思想から唯識説へと移行していく経緯が見えてくる。これは単なる外界の実在の否定ではなく、われわれの認識が実在のあり様をいかにゆがめているか、という問題とつながってくる。
本書では、文献を歴史的な経緯で追う形で、思想の変遷を考えるようにしてある。その中には、これまでの研究ではあまり取り上げられていない文献も含まれている。そうした意味でも、従来の唯識思想研究とは異なる趣に仕上がっていると思う。思想としての仏教の入り口としての役割を果たせれば、幸甚である。
(紹介文執筆者: 人文社会系研究科・文学部 教授 高橋 晃一 / 2024)
本の目次
第一章 『菩薩地』「真実義品」――言語表現し得ない事物 (vastu)
第二章 『瑜伽師地論』「摂決択分」(一) ――五事説
第三章 『瑜伽師地論』「摂決択分」(二) ――三性説
第四章 「般若経」「弥勒請問章」の思想――五事説と三性説の接点
第五章 『解深密経』――事物 (vastu)、三相説、アーラヤ識、唯識
第六章 『大乗荘厳経論』――相と真如と転依
第七章 『中辺分別論』――虚妄分別と空性
第八章 『摂大乗論』――アーラヤ識の存在証明
第九章 『唯識三十頌』――唯識思想の体系
第十章 結びにかえて
参考文献
関連情報
[前編]「唯識思想とアサンガ (無著)・ヴァスバンドゥ (世親) 兄弟」 (じんぶん堂 2024年4月11日)
https://book.asahi.com/jinbun/article/15220228
[後編]「唯識思想から見た外界の実在と夢」 (じんぶん堂 2024年4月18日)
https://book.asahi.com/jinbun/article/15224698