五月祭パンフの変遷|広報誌「淡青」36号より

実施日: 2018年03月09日
15万人が来場する本郷の学園祭
五月祭パンフの変遷
毎年5月に本郷で開催される学園祭、五月祭。その起源は、1923年5月5日に新入生歓迎会を兼ねて行われた、学友会大会の大園遊会です。記録によると、午前中は各学部を開放して日頃は部外者に窺い知れない機械などを観覧させ、正午からは学生の自治問題を討議、午後3時から運動場(現・御殿下グラウンド)で園遊会を開催した模様。会はその後、大懇親会や全学解放などと名を変え、第10回頃から五月祭と呼ばれるようになりました。
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五月祭パンフ |
文書館に残るパンフで一番古いのは第20回。講演会には内田祥三や三宅雪嶺の名が、二日目には「鍛錬体操実演」「煙幕実験」「火炎放射機実験」と気になる催しが記されています。1970年代には「腐朽せる巨像の肺腑に凶撃を」(44回)、「闇に血迷えるリヴァイアサンに振りおろさん変革の刃を! 」(47回)、「歴史の激流のただ中に築き上げよう我らの真実を!」(48回)、「迫りくる混沌のあらしの中で今こそ科学の炎をかざせ」(50回)などと扇動的な言葉が表紙に躍りましたが、80年代には平和なイラストが主となり檄文は影を潜めます。この20年は、「可能性の玉手箱」(72回)、「ReAcademic」(80回)、「花咲く未来、建造中」(87回)、「東大生に、恋した日。」(89回)、「つつむ、ひらく」(90回)と短いコピーを入れる形が主流。最新形は5月に本郷で確認を。
※本記事は広報誌「淡青」36号の記事から抜粋して掲載しています。PDF版は淡青ページをご覧ください。
