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東京大学基金寄付者インタビュー第十九回 : 倉本 聰様

掲載日:2019年3月20日

東京大学基金 寄付者インタビュー 第十九回 : 倉本 聰様

写真:倉本 聰

倉本 聰(くらもと・そう)
脚本家・劇作家・演出家
1935年1月1日生
東京都出身。1959年文学部美学科卒業。代表作に「北の国から」「前略おふくろ様」「昨日、悲別で」「ライスカレー」「優しい時間」「風のガーデン」など多数。

大学時代から脚本制作を手がけるようになり、ニッポン放送勤務を経て、フリーランスの脚本家として独立。その後、北海道は富良野に移住し、数々の名作を書き上げ、さらには後進を育成する「富良野塾」を立ち上げるなど、氏の活躍は多くの方々がご存知のことだと思う。そんな倉本氏から東京大学基金は「東京大学北海道演習林の保護活動のために役立ててほしい」とご寄付をいただいた。さらに、演習林の中にある「カツラの谷」に設置する記念樹プレートに、題字を揮毫いただく予定である。今回はそんな倉本氏から、学生時代の思い出や、東大生への期待をお聞きした。


2浪を経て、東京大学文科二類へ進学。
大学にはほぼ行かず、劇団に入り浸る

東大入学

僕は3度目の挑戦で何とか東京大学文科二類に合格したのですが、高校時代から浪人時代もずっと演劇や映画にはまっていましてね。駒場には多少通いましたけど、本郷にはまったく行かなかった。「劇団仲間」というのがありまして、アルバイトしながらそこに毎日入り浸っていたんですよ。中村俊一さんという素晴らしい演出家がいらして、その人の一挙手一投足を、部屋の隅でひたすら盗み見る4年間でした。あとは劇団の文芸部で、劇団新聞の編集をしたり、パンフレットの編集をしたり。大学よりも、って言っちゃいけないんだけど(笑)、自分のその後の人生にとって非常に大切な勉強の時間になった。芝居ってどうやってつくられるのか、その根底をみっちり学ぶことができましたから。

写真:読書時間増の大学時代

読書時間増の大学時代

3年からの専門課程、本当は仏文に行きたかったのですが、成績の悪い自分が入れるのは考古学かインド哲学か美学しかない。結局、“美”という字があったから、何となくよさそうだと美学科を選択したんです。そんな適当極まりない理由ではありましたが、のちに東映で映画監督になる中島貞夫とか、テレビマンユニオンの代表になった村木良彦とか、けっこう面白い連中と出会えたことは良かったです。
 

ちなみに美学の授業は、だいたいドイツ語を使うんですよ。でも、僕はドイツ語の“ド”の字も知らない。後にも先にも1回だけ、竹内敏雄先生のアリストテレス美学の授業に出てみたら、「倉本君」と名前を呼ばれた。返事をしたら「おっ、存在しましたか」と(笑)。教科書を読めと言われても、当然まったく読めません。それで優等生の中島が隣から全部、口伝いに教えてくれて、イッヒ何とかって言っていたら、竹内先生が「時間がもったいないから、中島くん、直接読みなさい」と(笑)。ただ、その授業で竹内先生がアリストテレスの「美には利害関係があってはならない」という言葉を教えてくれた。あ、これはすごいことを聞いちゃったと。今でも僕の“行動原理”ですが、この言葉を知ったことだけでも、苦労して東大に入った元は取れたと思いました。
 

僕は本当にひどい学生で、学期末の試験に行っても、教授の顔すらわからない。今でも試験前にノートがなくて焦る悪夢を見てうなされるんですよ。夢の中に、秀才然とした女子学生が出てくるのですが、頭を下げて「ノート貸して」と頼んでも断られちゃう。それが、なぜだか必ず吉永小百合か竹下景子(笑)。いずれにせよ、こんな僕を卒業させてくれた東大と、試験前にいつも世話になった中島には感謝しています。“東大出”という立派な“箔”もつけさせてもらえましたしね。今回のご寄付はその贖罪でもあるんです(笑)。

(中略:続きと全文は、「東京大学基金」ウェブサイトの寄付者インタビューをご覧ください。)
 

富良野の自然に魅了され永住を決意。
演習林長“どろ亀さん“との出会い

北海道演習林

その後、富良野に移ったのも偶然なんですよ。積丹の美国に良い土地を見つけたのですが、岩盤で水が出ない。これはダメだなと思っていたら、たまたま飲み屋で隣り合わせた書道家が、「富良野という土地を知っているか?」と。結果、連れて行ってくれることになって、翌朝7時に札幌で待ち合わせ、10時くらいに富良野に着いて、市役所の人を紹介されたんです。富良野には、東京大学北海道演習林の林長を務めていらした「どろ亀さん(故・高橋延清教授)」が設計した、「文化村」という4町歩(4ha)もの広大な森がありましてね。それは、人間がどのくらいの割合で住めば森と共存できるかという壮大な実験の場で、木は切っちゃいけない、柵も立てない、ただし、家を建てる分だけ木を切っていい。道は舗装しない林道、水は沢から引く、電気は通してある。この場所に立った瞬間、僕は一発で惚れてしまって――その日のうちに、ここに永住しようと決めていました。
 

愛犬ヤマグチと富良野移住初期

話を変えますが、徳島藩の筆頭家老かつ淡路島の洲本城主だった稲田邦植という人がいました。これが頭の良い人で、参勤交代にあまり人を出さず、明治維新にもほとんど協力せず、蓄えた金で若い奴らをこっそりヨーロッパに留学させていた。それで優秀な若者が戻ってきた。その後、廃藩置県になったでしょう。そのとき、淡路島も蜂須賀の徳島藩と一緒に、徳島県に入れかけられたのですが、それに稲田家は逆らった。で、戦争になるのですが、外国帰りの頭の良い若者たちはケンカに弱い(笑)。あっという間に潰されて、その連中が襟裳岬のほうに流された。それが史実にもある「稲田騒動」で、実は、流された末裔が「北の国から」の黒板氏(黒板五郎のご先祖)だった、と。ここは僕が考えた設定ですけど(笑)。その黒板氏が富良野に流れ着き、この地に暮らす女性に恋をして野合しちゃう。それが何代か続いて黒板五郎が生まれ、純と蛍に続いていくという。実は黒板家のご先祖を描いたドラマの構想が頭の中にはあって、いつか「北の国から1900」を実現したいと思っているんですよ。
 

話を戻します。どろ亀さんとは、お会いしてすぐに意気投合しました。ある日、どろ亀さんが、「聰さん、俺は退職して最近ヒマだから、オタマジャクシの研究を始めた」って言い出した。演習林の中に3つの池があって、それぞれの池にカエルがオタマジャクシを産んでいる。でも全部別の種類のカエルらしい。どろ亀さんは、「これは斎藤さん、これは石川さん、これは中島さん」と名前をつけて2年間追跡調査をするんです。そしたら、すべて確実に別の種類だということが見えてきた、と。そこまでカエルに付き合って、さらに知りたいところが出てきてやっと、中学程度の参考書を図書館で借りて調べたら、3つのカエルの種類が判明して感激したって言うんですよ。この話を聞いて、僕はかなり感動しました。


(続きと全文は、「東京大学基金」ウェブサイトの寄付者インタビューをご覧ください。)

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