特集『学びの窓 ― アカデミアの東京大学医学部ゆかりのコレクション』
基本情報
区分 | 展示 |
---|---|
対象者 | 社会人・一般 / 在学生 / 受験生 / 留学生 / 卒業生 / 企業 / 小学生 / 中学生 / 高校生 / 大学生 / 教職員 |
開催日(開催期間) | 2023年3月21日 — 2023年4月23日 |
開催場所 | その他学内・学外 |
会場 | インターメディアテク2階 ACADEMIA 東京都千代田区丸の内2-7-2 KITTE2・3F アクセス:JR東京駅丸の内南口徒歩約1分、東京メトロ丸ノ内線東京駅地下道より直結、千代田線二重橋前駅(4番出口)より徒歩約2分 時 間:11時-18時(金・土は20時まで開館) *時間は変更する場合があります 休館日:月曜日(月曜日が祝日の場合は翌日休館)、その他館が定める日 |
参加費 |
無料
|
申込方法 | 事前申込不要 |
お問い合わせ先 | 050-5541-8600(ハローダイヤル) |
第31回日本医学会総会2023が東京で開催されるのに合わせ、インターメディアテク開館十周年記念事業の一環として、インターメディアテク内で東京大学医学部ゆかりのコレクションを数多く見ることのできる常設展示空間「アカデミア」を特集して紹介します。
主催:東京大学総合研究博物館
<特集する見所>
●医学部本館小講堂の机と座席
現在、アカデミアには、東京大学医学部本館の小講堂(1936年竣工)でかつて実際に使われていた机と座席が移設されている。医学部本館は、関東大震災後の大学キャンパス復興計画を主導した建築家の内田祥三(1885–1972)が設計を手掛けており、本郷キャンパス内に現存する。医学部本館の小講堂は片流れの階段教室であるが、アカデミアは展示空間兼レクチャーシアターとして用いるために、対面式で机と座席を配置している。机の天板にはペンやインク壷を置くための溝が彫られ、机の脚には大学の備品であったことを示す「大學」の文字が見える。時の流れとともに、本郷キャンパスの建物や内装が次々と移り変わっていくなかで、インターメディアテクに残るこれらの机と座席は、昭和初期に医学を志す学徒が集った教室の様子を今日に伝える歴史的遺産となっている。
●内科講堂の肖像画
アカデミアの壁面には、東京大学の教授陣の肖像画が並び、医学部の教授を像主としたものは10点を数える。このうち9点は、かつて東京大学医学部附属病院内科講堂の演壇後方の大壁面に掛け継がれてきたものである。医学生らが、医学の歴史を切り拓いてきた歴代内科学教授の面々に向かい合い研鑽を積む姿が、内科講堂での学びの風景であったことだろう。御雇外国人から西洋医学を学んだ時代を経て、日本人による医学教育・内科学の確立に努めたことで知られる三浦謹之助(1864–1950)の肖像画(1920年制作)は、日本を代表する洋画家の黒田清輝(1866–1924)が描いたもので、美術史上も注目される作品でありながら、内科講堂の演壇後方の大壁面の最上段に掛けられていたため、長らく誰も間近で見ることが叶わなかった。この作品は、他の肖像画・肖像写真とともに、2015(平成27)年に東京大学総合研究博物館のコレクションとなり、積年の塵埃を払ったのちに画面の修復が行われ、今ではアカデミアを飾る展示物として、多くの人が鑑賞することができるようになっている。内科講堂の肖像画・肖像写真の一部は、インターメディアテク3階のバルコニーでも常設展示として公開されている。
●医学部教授のセメント像
アカデミアの黒板(本特集の期間中はここに卒業記念写真を展示)の脇には、帝国大学医科大学で産婦人科学教授を務めた濱田玄達(1854–1915)を表したセメント像(制作年未詳、同型の銅像は1908年長沼守敬作)がある。第二次世界大戦の戦局激化と物資不足のなかで、金属類回収令が出されると、1944(昭和19)年には、東京大学内の銅像もすべてその回収の対象となる旨が通知された。東京大学医学部では、同年12月23日に、台座から外した銅像の壮行式が執り行われている。壮行式の写真には、居並ぶ銅像のなかに濱田像も確認することができる。結果的に、学内の銅像が供出されたという記録は残されておらず、銅像は学内に留め置かれたまま終戦を迎えたと考えられる。その一方で、医学部教授の銅像と同じセメント像の存在が、今日までにいくつも確認されている。これらについての詳細は明らかになっていないが、恩師らのありし日の姿を残した銅像を敬愛する気持ちから、戦時下で供出することが決まった銅像の代わりに複製のセメント像が制作されたのではないかと推測される。このセメント製の濱田像の制作経緯も未詳ながら、そのような像の一つである可能性がある。この像を通して、東京大学も学究の傍らで例外なく対応を迫られた、戦時下の銅像の供出という社会的事象の一端を窺い知ることができる。
●帝国大学医科大学の卒業記念写真[特別公開]
本特集の期間中、アカデミアの常設展示に加えて、東京大学総合研究博物館が所蔵する近代医家三宅一族旧蔵コレクションより、1892(明治25)年に撮影された、帝国大学医科大学の卒業記念写真の拡大複製を展示する。この写真は、1900(明治33)年の写真帖『東京帝国大学』をはじめ、医学部の卒業アルバムなど、東京大学に関係した写真製版印刷を多数手掛けた写真師の小川一眞(1860–1929)製で、明治期に御雇外国人教師として、日本の近代医学の発展に多大な貢献をしたベルツ(1849–1913)、スクリバ(1848–1905)の姿が日本人教授や学生らとともに記録されている。
主催:東京大学総合研究博物館
<特集する見所>
●医学部本館小講堂の机と座席
現在、アカデミアには、東京大学医学部本館の小講堂(1936年竣工)でかつて実際に使われていた机と座席が移設されている。医学部本館は、関東大震災後の大学キャンパス復興計画を主導した建築家の内田祥三(1885–1972)が設計を手掛けており、本郷キャンパス内に現存する。医学部本館の小講堂は片流れの階段教室であるが、アカデミアは展示空間兼レクチャーシアターとして用いるために、対面式で机と座席を配置している。机の天板にはペンやインク壷を置くための溝が彫られ、机の脚には大学の備品であったことを示す「大學」の文字が見える。時の流れとともに、本郷キャンパスの建物や内装が次々と移り変わっていくなかで、インターメディアテクに残るこれらの机と座席は、昭和初期に医学を志す学徒が集った教室の様子を今日に伝える歴史的遺産となっている。
●内科講堂の肖像画
アカデミアの壁面には、東京大学の教授陣の肖像画が並び、医学部の教授を像主としたものは10点を数える。このうち9点は、かつて東京大学医学部附属病院内科講堂の演壇後方の大壁面に掛け継がれてきたものである。医学生らが、医学の歴史を切り拓いてきた歴代内科学教授の面々に向かい合い研鑽を積む姿が、内科講堂での学びの風景であったことだろう。御雇外国人から西洋医学を学んだ時代を経て、日本人による医学教育・内科学の確立に努めたことで知られる三浦謹之助(1864–1950)の肖像画(1920年制作)は、日本を代表する洋画家の黒田清輝(1866–1924)が描いたもので、美術史上も注目される作品でありながら、内科講堂の演壇後方の大壁面の最上段に掛けられていたため、長らく誰も間近で見ることが叶わなかった。この作品は、他の肖像画・肖像写真とともに、2015(平成27)年に東京大学総合研究博物館のコレクションとなり、積年の塵埃を払ったのちに画面の修復が行われ、今ではアカデミアを飾る展示物として、多くの人が鑑賞することができるようになっている。内科講堂の肖像画・肖像写真の一部は、インターメディアテク3階のバルコニーでも常設展示として公開されている。
●医学部教授のセメント像
アカデミアの黒板(本特集の期間中はここに卒業記念写真を展示)の脇には、帝国大学医科大学で産婦人科学教授を務めた濱田玄達(1854–1915)を表したセメント像(制作年未詳、同型の銅像は1908年長沼守敬作)がある。第二次世界大戦の戦局激化と物資不足のなかで、金属類回収令が出されると、1944(昭和19)年には、東京大学内の銅像もすべてその回収の対象となる旨が通知された。東京大学医学部では、同年12月23日に、台座から外した銅像の壮行式が執り行われている。壮行式の写真には、居並ぶ銅像のなかに濱田像も確認することができる。結果的に、学内の銅像が供出されたという記録は残されておらず、銅像は学内に留め置かれたまま終戦を迎えたと考えられる。その一方で、医学部教授の銅像と同じセメント像の存在が、今日までにいくつも確認されている。これらについての詳細は明らかになっていないが、恩師らのありし日の姿を残した銅像を敬愛する気持ちから、戦時下で供出することが決まった銅像の代わりに複製のセメント像が制作されたのではないかと推測される。このセメント製の濱田像の制作経緯も未詳ながら、そのような像の一つである可能性がある。この像を通して、東京大学も学究の傍らで例外なく対応を迫られた、戦時下の銅像の供出という社会的事象の一端を窺い知ることができる。
●帝国大学医科大学の卒業記念写真[特別公開]
本特集の期間中、アカデミアの常設展示に加えて、東京大学総合研究博物館が所蔵する近代医家三宅一族旧蔵コレクションより、1892(明治25)年に撮影された、帝国大学医科大学の卒業記念写真の拡大複製を展示する。この写真は、1900(明治33)年の写真帖『東京帝国大学』をはじめ、医学部の卒業アルバムなど、東京大学に関係した写真製版印刷を多数手掛けた写真師の小川一眞(1860–1929)製で、明治期に御雇外国人教師として、日本の近代医学の発展に多大な貢献をしたベルツ(1849–1913)、スクリバ(1848–1905)の姿が日本人教授や学生らとともに記録されている。